保釈




◇◇◇◇


首を限界まで向けても一番上まで見えないほど立派な建物の前に、一人の男が落ち着かない様子で立っていた。
「────、俺、完全に場違いだよな…」
呟いた声は情けないほど弱々しい。


そびえ立つ建物はザラグループ本社のものだった。対して圧倒されている男はハイネ・ヴィスティンフルス。あのカガリを嵌めた“名家”を出奔している人物である。
カガリを奸計に陥れた時に割りのいい収入を得たものの、あれはあちらが望んだものだったからビジネスとして成立したのであって、あぶく銭はすぐに消え、大した商才があるわけでもないハイネの懐は常に頼りない。加えてハイネは自ら家を捨てた身だ。間違っても実家の金などあてに出来ない。そのためあまりたちの良くない連中(収入源は違法や脱法である)とつるんでいるのだが──。


そのハイネをやたらと上質なスーツを身に付けた中年男が訪ねて来たのは、10日ほど前のことだった。

寝ぐらとして使っていたつぶれたバーの一角。光すら殆ど差さない閉め切ったバーの歪んだ扉を開けて男が現れた時、周りの連中は直ぐ様戦闘態勢に入った。仲間意識などありはしないのに、とにかく他者を排除する傾向にあるのを呆れつつ、一応恫喝に参加しておいた方がいいかと首を回して“侵入者”を 見たハイネは、目を丸くして男を眺めるにとどまった。
あまりにも“らしくない”男の佇まいに釘付けになったのだ。

明らかに醸す雰囲気が違う。腕っぷしがどうこうではなく、こんなチンピラ風情が何十人かかっても敵わないという空気を持っていた。
端的に言えば圧倒されたのだ。

中年男は怒声を上げて群がるチンピラなど全く意に介す様子もなく、建物内部の乱雑さに眉を顰めた。まるで相手にされないチンピラの一人が焦れて殴りかかったが、最小の動きで拳を躱される。踏み入れるのさえ心底嫌そうな態度を崩さなかったが、何かの使命を受けているのか、男はゆっくりと奥へ足を進め始めた。
やがてその男が、何のリアクションも起こせずに呆けた顔を晒しているだろう自分を目指して来るのに気付く。思わず自分の背後を確認したが、一番奥まったところにいたハイネの後ろには当然誰もいなかった。
「────、え?」
狼狽えつつ自身を指差したりしている内に、男はそう広くない部屋を縦断し、ハイネの前に立った。息を飲んだハイネに恭しく一礼し、男は名刺を差し出した。
「おそれながらハイネ・ヴィスティンフルスさまとお見受け致します。私はそこに書いてあるものです。今日はある方の名代で参りました」
「………………はぁ…」
気の抜けた返事をした直後、それでも姿勢を正し、相手の言葉を肯定する意味で改めて名を名乗った。その姿に中年男がほんの僅かに目を見開らく。ハイネが望むと望まざるとに関わらず、そのくらいの教育は染み付いているのだ。ハイネのそんな一面を垣間見て、周囲のチンピラたちは一斉に固まった。人間、驚き過ぎると、動きも思考も停止してしまうらしい。
対する“侵入者”は着ている上品なスーツに違わず、すぐに感情を消し、何を考えているのか分からない薄い笑みを浮かべた。
「ご予定が合えば10日後の午後、お時間を頂けませんか?」
何故男がそんなことを言うのかは謎だが、ハイネにどうしても外せない用件などありはしない。ありのままを伝えると、男は安堵したように頷くと懐から紙片を取り出して再びハイネに差し出した。
「随分先のお話で申し訳ございません。何分、当家主人は多忙なものでご了承ください。こちらをお渡ししておきます。15時頃お越しいただければお待たせすることはないかと」
「ああ…はい」
「では、私はこれで」
チンピラどもに優雅に頭を下げ、男は来た時同様、真っ直ぐに扉へと進み、あっさりと出て行った。


たっぷり数十秒が経過してから、漸く止まっていた時間が動き出す。

「────なぁ。あれ、知り合いか?」
別にハイネを恐れる必要はないのだが、ゴロツキの内の一人がかけてきた声は情けないほど弱々しい。ハイネは瞬時に切り替えて、普段見せているやさぐれ感を出しながら答えた。
「あ~、知り合いってわけじゃないんだが───まぁ俺を呼んでる方ってのは、こっちが一方的に知ってる相手、のはずだったというか…」
ハイネは渡された紙片を眺める。
「あん?」
要領を得ない返事に、別のゴロツキの一人がメモを覗き込もうと身を乗り出した。反射的に握り込んで覗き見を阻止する。
「勝手に見るなよ!」
「なんだよ、ナイショかよ」
「いや、そういうのとも違うっつーか……」
紙片に書かれていた名と内容に息を飲んだ。まだ自分自身が飲み込めない事態を他人には話せるのはマズい。
まして相手が大物過ぎるのだ。




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