転調




◇◇◇◇


「シーゲル・クライン氏をご存知ですか?」


ウズミが当主を務めている時から、ずっとアスハ家を支えてくれている初老の男が、タブレットのモニターを眺めつつ思い出したようにそう言った。因みに今彼が手をつけているのは、キラのスケジュール管理である。
「ええ…、まぁ。そりゃ名前くらいなら」
キラも先日弁護士から送られて来た書類に目を通しつつ、半ば上の空でそう答えた。
クライン家は中堅より上のそれなりの大企業で、この国の人間なら知らない者はいないだろう。歴史が浅いため、新興企業のひとつとして世間では認識されていた。
一般人より少しは経済界に詳しくなったキラでも、トップの男が確かそんな名前だったな、くらいの知識しかなかった。
「今週末のパーティに出席されるようですよ」
「へえ…そうですか」
スケジュールを見て過ったのだろうそんな話題に、キラは増々興味を失った。というか今週末はパーティだったと思い出して辟易とする方に忙しかった。
あの過去の栄光と歴史にだけ頼る連中の中には、未だアスハ家を畳むことに抵抗を隠さない輩がいる。彼らにとって人の命より、血筋や歴史の方が遥かに重要で、カガリの不祥事など長い歴史の中の些末な出来事だと言って憚らない。勿論カガリを擁護しているのではなく、そこを否定してしまうと、自分たちのアイデンティティーを揺るがすことになりかねないからだ。既にカガリの存在自体、なかったことにされているかもしれない。“名家”の名に相応しくない人間など最初からいなかったのだと。あの、ハイネのように。
そんな高過ぎるプライド相手に如何に立ち回るかは非常に難解だった。過去に縋るなんて馬鹿らしいと、基本キラは思っていた。だが歴史だって一朝一夕で得られないのは事実で、それなりの敬意ははらうべきだろう。継続は力なり、だ。彼らの気持ちも理解出来ないでもないから、キラも一足飛びにことを進めようとは思ってないのだが、色よく同意を得るための彼らのご機嫌取りは、はっきりいって面倒くさい。他人の家のことなど放っておいて欲しいのが本音である。
というかこんなに頻繁に“夜会”を開いて何が楽しいのか不思議で仕方ない。代わり映えしない面子で、内々しか分からない話題の、取り澄ましたお喋り。金と時間の無駄でしかないではないか。必要以上に金に拘るつもりはないが、経済的にかなり逼迫した家もあるはずなのに、一体なにをやっているんだとほとほと呆れるばかりだ。

いや、百歩譲ってやるのは勝手だ。但しこちらを巻き込まないで欲しいと、キラは陰鬱な気分で手元の書類を眺めた。
領地内からの立ち退き交渉が予想以上に難航しているらしい。まぁ今まで住んでいた土地から急に出ていけと言われても困惑するだろうし、金の問題ばかりでもないのだろうが、こちらとしても相応の対価は支払うつもりだ。懐は痛いがこの家に眠っているガラクタ(歴史的価値は認めるが、背に腹はかえられない)を売り捌けば、なんとか用立てられる。
抵抗して金額を吊り上げるのが目的か、はたまたその土地への執着か。居住権の問題もある。交渉は続けるが、様子見しながらにならざるを得ないと、書類は結ばれていた。


お世辞にも芳しいとは言えない書類を投げ出すと、キラは側に立つ件の使用人を見上げた。
「僕、事前にクライン家の詳細を頭に入れておく必要、ありますか?」
年老いた使用人は、元々なのかキラが当主としてこの家にやって来たから出来たのか知らないが、神経質そうな眉間の皺を更に深くした。
「直接会話する時間はそうないでしょう。新参者が本丸であるアスハ家の当主に近付くような大それた振る舞いは、他家が許しません。挨拶くらいなら可能性はありますが、必要以上の知識は不要でしょう」
「その本丸が僕とか…」
一体なんの罰ゲームだとキラは撃沈した。アスハは名門中の名門だが、別段自分が凄いわけではないとキラは思っている。
なんの予備知識もなく、短期間でこの家を切り盛りすること自体が破格の有能さなのだが、常から自分を過小評価しているキラにとってみれば、誉め殺しかと疑うレベルだ。実に居心地が悪い。
「えーと…、クライン家は何故招待されたんたでしょうか」
「慈善事業分野に顔の利く商売を生業としているようですから、顔見知りになったどこかの家がお誘いしたんだと思います」
「あーそういう……」
今のキラに慈善事業など考える余地は皆無だ。いいことだとは思うが、急に断れなかったナントカ法人の名誉会長職などで精一杯だった。

これは本当に予備知識は必要ないなと判断して、キラは今度は会計士のメールを開いたのだった。




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