衝撃




「お怪我はございませんか?お召し物は──」
直ぐ様落下したグラスを片付けに現れたウエイターの問いも、キラの耳には全く入っていないようだった。代わりにニコルが大丈夫だと答えると、ウエイターは気を悪くした素振りもなく、手早くグラスを回収し、黙礼だけ寄越すと、人波に紛れて姿を消した。実に教育が行き届いている。
一方、その間も微動だにしなかったキラは、もしかしたらグラスを落としたことにも気付いていないのかもしれない。ひたすら一点を見詰めたまま固まっていて、掛ける言葉が見付からなかった。

(よりにもよって、クライン家のラクスさんですか…)

タイミングが悪いにも程がある。


今アスランの隣にいる女性は、ニコルも知る人物だった。
経済力だけで比較すれば新興企業の中では中の上程度のクライン家だが、慈善事業方面に明るいため、所謂“名家”の連中にも比較的評判が良い。しかもトップであるシーゲルはザラ家トップのパトリックの盟友で、そのシーゲルが目に入れても痛くないほど可愛がっているのが、早世した彼の妻に良く似た一人娘のラクスだった。つまりアスランといえど早々邪険には出来ない相手なのだ。因みにラクス本人は、絶世の美女と謳われる母親の容姿を受け継ぐ目を引く華やかさに加えて、聡明さは父であるシーゲルに似たらしく、賢く凛とした女性だった。アスランの容姿やザラ家の財力目当てで群がる頭が空っぽな女たちとは、明らかに一線を画している。

つまりラクス・クラインは、彼女の持つバックグラウンドを度外視しても、破格の扱いをするに足る人物なのだ。



「キラさ─」
「笑ってくれてもいいですよ、ニコルさん」

上手いフォローが浮かばなくて、ようよう口にしたニコルのそれも、被せるようにキラに遮られて、あえなく閉口してしまう。しかも“笑え”とは一体どういう意味だろうか。
「僕ね、これでも分かってるつもりだったんです。アスランが僕なんかにかまけてる人じゃないってこと。アスランが誰から見ても魅力的な人だってこと、僕が一番分かってた。対する僕ときたらあるのはアスハの表看板だけ。まぁそれもやがては無価値になってしまいますけど」
「・・・・アスランの気持ちを疑ってるってことですか?」
つい弱い声が出てしまう。キラの言葉はニコルにとって少なくない衝撃だった。二人が数々の障壁をものともせず、求めあっている姿に感銘を受けたからこそ、協力を惜しまずここまでやって来た。他でもないキラがそれを根底から覆すのかと、勝手に裏切られた気分が湧いてしまう。
しかしキラはニコルの疑念をしっかりと否定した。
「いいえ。気持ちを疑うのとはちょっと違うかな。ただ…長く付き合って行る内に情って湧くでしょう?それを恋情と勘違いしちゃったのかもなぁって」
流石にそれはない、とニコルは思った。
自慢にもならないが、自分たちは恋愛経験だけは豊富だ。そこに本気で相手を欲しがる熱情はなくても、ただの情との区別くらいはつく。
そう言ってやりたかったが、常になく饒舌なキラに、またもや先を越されてしまった。
「しかも貴方たちからしたら、僕ってさぞや珍しいタイプだったでしょうし、そりゃ勘違いもしますよね」
「キラさん!」
キラの前ではおそらく初めてだろう。厳しいニコルの咎める声に、キラは一瞬目を見開いた。が、すぐにふんわりと微笑まれ、再びニコルは閉口させられてしまった。
ここで笑顔になれるのかと、改めて彼の強さに驚かされる。
「大丈夫。別に卑屈になってるわけじゃありません。だってこんなのありふれた話じゃないですか。それが僕の身に起こったってとこにちょっと吃驚してますけど。アスランは賢いから、すぐに間違いに気付くだろうし、僕は僕で貰ったものが勘違いの恋愛感情でも充分だった」
「・・・・?キラさん?」
だが笑んでいるはずのキラの語尾が不自然に震えて、ニコルの眉が寄る。

「充分だと・・・思いたかったのに」


いつの間にかキラの瞳は、今にも零れ落ちそうなほどの涙の膜で覆われていて、息を飲んだ。
「僕は今まで、僕が離れることでアスランが幸せになれるのなら、辛くても我慢出来ると思ってました。大袈裟ですが、彼にかけてもらった情だけで生きていけるって。──でも笑ってください」
キラは震える声で繰り返し“笑え”という。


ニコルは単純にアスランが女に囲まれている場面を見せたくなかった。キラが傷付くと思ったからだ。それも間違いではなかったのだろう。だがキラが受けた衝撃の根幹は、厳密には少し違っていたようだ。
ならば何が涙するほど辛かったのか。

キラはやや俯きがちだった顔を上げ、真っ直ぐにニコルを見た。多分キラは本音を曝したくはないはずで、それでも気を利かせようとしてくれたニコルに対し、誠意を返そうとしている。一番辛いはずのキラに、言わせてしまう自分の不甲斐なさが歯痒かった。


「───僕が選ばれないのは当たり前だと納得出来たから、身を引くのが筋だと思えた。けどこれまで僕はアスランとの間にある感情のことしか頭になかった。もしも世界に二人だけならそれで良かったんでしょう。でもそんなわけないですよね。僕にはアスランの隣に僕以外の誰かが立つところを見る覚悟が、まだなかったみたいです」




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