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「お前、あのボロアパートを出る気はないのか?」

突然の台詞に、思わずしげしげと眺めてしまったアスランの顔は、これ以上ないくらい不満げだ。何故かイマイチ状況が掴めない。キョロキョロと辺りを見回したキラは、自分たちはどこかのカフェに居るらしいと辛うじて認識する。中途半端な時間のようで小綺麗な店内に客は疎らで、自分たちが陣取っているスペースは、一番目立たない位置にありながら適度に日の光も届く、特等席であった。差し向かいに座ったアスランの前にはコーヒー、自分の前にはミルクティーと思われる液体の入ったカップが供されている。しかしこの店に入った、というか、ここに至る経緯が酷くぼんやりしていた。
そんな明らかに不自然な状態だというのに、自分の口から出た言葉は、しっかりとアスランに答えるものだった。
「ボロとか言わないでよ。まぁボロだけど」
「自分で言ってりゃ世話ないな」
「住んでる僕が言うのは許されるの!それに出てどうすんの。僕にホームレスになれって?――あぁ、それはいいアイデアかもね」
家賃もいらないし、その手があったか!と若干目を輝かせたキラに、アスランは慌てた。
「阿呆か。なんでそうなるんだ」
「えー、だって。お風呂なら僕の学部、泊まり込む学生のためのシャワールーム完備だよ。院生の人たちなんか、最早大学に住んでるのかってくらい、研究室に籠ってるもん。流石にまだ学生身分の僕がそこまでは許されないだろうけど、たまに野宿するって感覚でさー」
これは本気だと悟ったアスランは、とうとうテーブルに肘をつき、頭を抱えた。
「なんでそういう発想になるんだ…。アスハ家に戻るとか、俺の家に来るとかあるだろう?」
「それこそ馬鹿にしないでよ。アスハに住むなら最初からそうしてるし、きみの施しを受けるなんて論外だから」
「俺が言ってるのは、金の問題じゃない」
こういう言い方をすれば反発すると分かっていながら、他に表現のしようがなかった。案の定、食って掛かったキラに、アスランは増々苦悩の色を濃くした。
「あのアパートの周辺の治安の悪さを言ってるんだ。加えてあんなボロいとか。その上野宿だと?それこそ論外だ」
「あーその点は遅まきながら考えてる。なけなしの現金を盗まれちゃ死活問題だからね。野宿じゃ自衛のしようがないし、今まで泥棒さんに狙われなかったのは、ただのラッキーだから。うーん…じゃあ死ぬほど難解な電子ロック、後付けする――とか?」
「いやだから、金から一旦離れろって。そもそも空き巣が行儀よく玄関から来るとは限らないんだ。そこばかり強化したところで本質的な解決にはならないぞ。てか、俺が言いたいのは、お前の身が危険に曝されるんじゃないかと心配してるんだよ!」

珍しく大声を出したアスランに、場の空気が一瞬停止した。無言の数十秒を破ったのは、キラの笑い声だった。

「え?ちょ、何の心配してんの?だから僕、男だってば!」
さも可笑しそうに笑うキラを、アスランはじっとりと睨みつける。
「それ、俺に訊くのか?」


確かにキラは男だ。改めて言われなくても、そんなものはアスランが一番良く分かっている。だが同時にアスランにとってキラは“そういう対象”であることも、疑いようもない事実なのだ。あんな治安も悪い場所で、ボロアパートなんかに住んでいれば、不埒な企みを持つ輩も出て来ないとは限らない。キラの言葉を借りるなら、今までなかったのがラッキーだったのだ。


仏頂面のアスランを前に、一頻り笑ったキラは、左腕を折り曲げて、力こぶをポンと叩いた。
「こう見えて腕っぷしには自信があるんだけど。百歩譲って僕を襲おうなんて奇特な人がきみ以外に居たとしても、撃退してみせますよーだ」
「ストーカーに青くなってた奴が言う台詞か。あと力こぶとか一切ないぞ」
「あー…。そんなこともあった、かな?」
以前、男に付きまとわれて、アスランに助けを求めたことを思い出したのか、キラはバツが悪そうにそっぽを向いた。
まあしかしその為だけに引っ越しなどと、現実問題、中々取り掛かれるものではない。提案したアスランとて、今すぐどうこうしたいという類いのものではなかった。
だからせめてもの妥協案を宣言しておきたかったのだ。




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