破滅




キラは直ぐ様身体を起こそうとした。が、どうしたことか異様に身体が重い。まるで上から質量を持った空気に押さえ付けられているようだった。
肘をついて半身を起こすのさえ、難しい状態だ。仕方なく一旦身体を反転させてうつ伏せになり、ベッドに両肘を付いて四つん這いの姿勢を取った。
「―――っ!?」
頭が下がった所為だろうか。突然、喉の奥からこみ上げてくるものがあった。咄嗟に掌で口を覆う。
洗面所に駆け込もうにも、そもそも身体が動かない。そのままの姿勢で苦く感じる唾液を嚥下しながら動かずにいると、ほんの僅かだけ吐き気が緩和した。吐くまでに至らなかったのは幸いだが、口内に残った苦味に顔を顰める。目が回っていたところに無理に身体を起こそうとした為、起立性低血圧のようなものが起きたのだろうと自己診断を下した。

再び吐き気が起きないよう警戒しながらベッドから這い出たキラは、鈍い頭痛に悩まされながら、ノロノロと机に歩み寄った。当初の目的通り資料を読み始めるも、幾ら集中しようとしても、全くペースは上がらない。
流石にここに至って、キラは自分の体力を過信していたのではないか、と危機感を抱いた。大事になる前に少し休みを貰おうかと思う。
別にアスハ家の執務の全てに於いて、当主が顔を出す必要はない。内容も多岐に渡るため、それぞれにエキスパートを配置してある。勿論当主はそれらを把握しておく必要があるし、最終的な決断権を持ってはいるが、どちらかといえば名家としての広告塔のような役割を担うのだ。件の“夜会”で名家同士の交流を計ったり、家の持つ威光を借りたい連中たちに請われて“どこそこ団体の会長職”に就いたりと、華やかな部分がそれに当たる。実際役割分担しないと体がいくつあっても足りないだろう。今キラが可能な限り首を突っ込もうとするのは、少しでも早く仕事を覚えたいという一心からだ。
それももうちょっと頑張れば、身辺も落ち着いてくるかもしれないと思うと、休養を言い出すのを躊躇うのは事実だった。
せめて今だけでもベッドに戻った方がいいだろうかと迷っている内に、次の予定を促す使用人の声がして、結局その考えも霧散してしまった。




◇◇◇◇


その後も忙しく過ごしたキラは、やっと見付けた自由な時間を休養には当てず、大学へ顔を出すことに費やした。
この選択を間違っているとは思わなかった。就職組だと半ばのんびり構えていたところに、突然“命令”により決まった進学だ。元々成績は悪くなかったが、それなりに苦労惨憺の末、入学した大学である。卒業だけはしておきたいと思うのが人情だろう。
それに久し振りの大学はいい息抜きになった。「アスハ家の人間として恥ずかしくない大学へ行け」と限定されたから、せめてもの抵抗に、専行は興味のある分野を選んだのだ。
本来ならまだ一般教養の座学がある学年だが、スキップ制度で殆ど終わらせてある。存分に好きな研究が出来るのは心底楽しかった。
しかも教えを請うのは同分野の権威と謳われる老教授のみ。誰の目も気にせずに自由に振る舞うことで、溜まったストレスまで軽減していくようだった。


だがどんなに楽しい時間にも、必ず終わりは来るのである。
キラは使っていた端末の液晶に表示さた小さな時刻表示に視線を走らせ、プログラムを終了させた。

「今日はもう終わりかね?」

立ち上がったキラに老教授が声をかけてくれる。彼はキラを溺愛しており、自分の後継者にと推してくれていた。キラがこんな事態に陥ってからもずっと見守り続けていて、たまにしか来られなくなった今でも、鷹揚に迎えてくれた。
「ええ。短い時間しか居られなくて、僕的にはかなり不本意なんですけど、仕方ありません。次の予定がありますので」
「そうか」
無理に明るく言うキラに、老教授は微妙な表情になった。
「随分疲れて見えるが、ちゃんと休めているのか?」
意外な言葉に少し驚いた。この教授は学生のプライベートまで口を挟んで来るようなタイプではないと思っていたからだ。
尤もキラがこれまでと全く違う生活を送っているのは当然知っているから、お愛想程度のものだろう。
とはいえ一応心配しての言葉である。キラは笑顔を張り付けた。




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