破滅




この好機を待っていたのだ。
「申し訳ない。洗面所をお借り出来ますか」
これまで多くの女と浮き名を流してきた経験は伊達ではない。対して男にあまり免疫がなかった彼女は、わざと甘くしたアスランの声と流し目に、一瞬で逆上せ上がった。
「は、はい!こちらです!」
機械仕掛けの人形の如く、ぎこちなく方向転換した使用人に、アスランは笑みを悪いものに変えて、彼女を追って屋敷の奥へと向かったのだった。




◇◇◇◇


キラが最後尾にいたはずのアスランの姿が消えたことに気付いたのは、それからすぐだった。
「あの…」
「はい」
「一緒に来られていた方が、お一人いらっしゃらないようですが」
「え!?」
首尾よく商談を進めて、すっかりアスランへの警戒が疎かになっていたのだろう。指摘されて慌てて後ろを振り返っても後の祭りである。中には小さく舌打ちする社員もいて、アスランがお世辞にも歓迎されていない立場だったのだと改めて思った。
「探して参ります」
踵を返した使用人に、咄嗟に「僕も行きます」と言ってしまったのは、ここでアスランの身分がバレるのが上手くないからだけか。
それとも、アスランの傍へ行きたかっただけなのか。
キラ自身にもよく分からなかった。
(――――僕も大概諦めが悪い)
話し合いもせず、勝手に別れを決意したキラを罵倒しに来たのかもしれない。アスランは彼にとって絶対であろうパトリックに逆らってまで、キラを選んでくれようとしていたのに。
本音を言えばキラだってアスランの手を放したくはなかった。いや、想いの深さで言えば間違いなく自分の方がアスランより上なのだ。でなければアスランを傷付けたカガリ――引いてはアスハ家に対して、こんなに憤りを覚える謂れはない。
だからアスハ家を潰してしまうことに躊躇いはないが、これはキラにとって諸刃の剣でもあった。何故ならアスハ家の看板を失った自分に、アスランを惹き付けておく魅力などありはしないだろうから。恋という熱に浮かされている間はよくても、時間が経って周りを見る余裕が出来てしまえば、アスランに唯一の人間だと選んでもらえる自信などありはしなかった。それでなくともアスランの周囲には魅力的な人間が多く集まってくる。選べる立場のアスランが、より優れた人材を求めるのは、自然の摂理だ。これはアスランの気持ちを疑っているとかの次元の話ではない。
だからキラは逃げたのだ。
アスランの隣に他の人間が並び立つ姿を見せられて、正気でいられる気がしない。そんな自分の狂気が恐ろしかった。




捜索を始めたキラは、前から来た使用人を呼び止めた。彼女が今回の交渉で末席に控えていたことを思い出したのだ。
「仕事中ごめんね。僕へのお客様がお一人いらっしゃらないんだけど、きみ、何か知らない?背が高くて宵闇色の髪の――」
「あ、その方なら、先程洗面所へご案内致しましたが…」
大事そうな客の頼みだったとはいえ、勝手なことをしてマズかっただろうかと、まだ使用人になって日も浅い彼女は身を固くした。
「あの…洗面所からお出になるのをお待ちした方が良かったですか?」
顔中に不安を浮かべてオロオロと訊いてくる彼女に、キラは慌てて表情を取り繕った。ちょっと焦っていたかもしれない。こんなでもキラは一応アスハ家当主だ。もっと鷹揚に構えていなければ。
「そう。それなら僕が行くからきみは仕事に戻ってくれていいよ。気にしないで」
「でも」
「大丈夫。ね?」
キラは安心させるように笑顔で念をおすと、逸る気持ちを抑えつつ、アスランが待っているだろう洗面所へ向かって歩き始めた。




◇◇◇◇


「こういう小細工が目的だったの?」
洗面台の大理石に浅く腰掛け、キラを迎えたアスランに、冷たく言い放つ。腰に手を当てた典型的な呆れたポーズまでわざわざつけてやったのだが、足音でキラだと察していたらしいアスランには全く効果はなかったようだ。




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