破滅




「有難うございます。まだまだ慣れないことばかりで大変なんですけど、弱音を吐ける立場ではありませんので」
「………………」
優等生な返答のつもりが、教授の表情は相変わらず芳しくないままだ。トレードマークと言ってもいい眉間の皺が増々深まっていく原因を探っていたキラははっとした。心臓が嫌な感じで鼓動を刻む。
この教授は気難しくて他の学生たちに嫌厭されているのを思い出したのだ。何故かキラにはそれほど塩対応ではなかったからうっかりしていたが、あまり大学に出て来られなくなったのを快く思っていないのかもしれない。
無論、この分野の第一人者だとはいえ、大学を辞めろと命令する権限はない。だが「相応しくないから他の研究室へ移りなさい」と放り出すくらいなら可能だ。
困る、とキラは心底思った。
それではキラの唯一の息抜きの場所がなくなってしまうからだ。それともその考え方自体が駄目なのだろうか。確かに彼が生涯をかけた研究テーマを“息抜き”に使おうとするなど傲慢に過ぎる。
それを見透かされていたのなら―――

取り敢えず何か言い訳をしなければと口を開きかけたのだが、教授に先を越されて、閉口した。
「……きみは頑張り過ぎるところがある。若い時にはそういうことも必要な時期はあるが、無茶は良くない。その点、きみは危なっかしいから自重しなさい」
「は…」
てっきり辛辣に非難されると覚悟していたのに、教授の言葉が余りにも予想外で、中途半端な声が出てしまった。意味を掴み損ね、尚も首を傾げるキラに、老教授は朗らかに相好を崩す。彼のこんな表情を初めて見たキラはかなり驚いて、増々思考が鈍くなった。
「いや、きみにはちゃんとお目付け役がいたんだったね。これは余計なお節介をしてしまったかな」
「お目付け役…ですか?」
普段は頭の回転の早いキラが、ここに至って真意を汲み取れないにも関わらず、教授が機嫌を悪くした様子はない。
「あの翡翠の目をした彼だよ」
「っ!!」
誰の話をしているのか、大き過ぎるヒントを貰って、一気にキラの頬に熱が昇った。
そういえば教授は“彼”を知っていたのだった。どころかお茶をするほど親密になっていたのを思い出す。

しかしキラにとって、今その男の話題は辛いものでしかない。頬に赤みを残したまま苦しそうに顔を歪めたキラに、教授はいつも通りの気難しい表情に戻った。どうやらこれ以上、追求するつもりはないらしい。些か胸を撫で下ろした。
なんとか乱れた心を取り繕って、キラはおずおずと伺いを立てる。
「あの、これまでみたいに頻繁に来られなくなりますが、構わないでしょうか?」
「学生の学ぶ意思を邪魔するほど、私は狭量じゃないつもりだよ」
「あ・有難うございます!」

キラを取り巻く環境はこんなに変わってしまったのに、変わらない教授に感謝し、キラは唯一の居場所を得られたことに、心から安堵した。




◇◇◇◇


(あれ?だったら何であんなに機嫌悪そうだったんだろ?)

研究室を出て歩きながら教授との遣り取りを反芻していて、漸くキラはそこに思い至った。
確かに最初の方は不機嫌だと思ったのだ。話している内にそれほどでもなくなって来てはいたが。そもそもあれは不機嫌とも違ったような…。
さりとて戻ってまで聞くような内容ではない。あの教授なら気に入らなければハッキリそうと言うはずだ。出禁を食らったわけでもなし、また機会がある時でいいかと無理矢理自分を納得させた。

頭を切り替えたキラは携帯を取り出し、時間の確認をする。研究をキリのいいところで終えたから、予定はあっても迎えの車が来るまで小一時間余裕があった。ふと行きたいと思う場所が頭を過ったが、ここからではちょっと距離がある。脳内シュミレーションしてみても、約束の時間までに行って戻って来るのは難しそうだった。さりとてキラには学生御用達のカフェで時間を潰そうなどという発想はない。どうしようかと迷った時だった。
「お、ヤマトじゃんか!」
知った声に呼ばれて足を止めた。




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