有頂天




以前ボロアパートまで送ってくれた同じ運転手である。総じて事務的なザラ家の使用人の中で、唯一温かみのある会話をした男だ。印象は悪くないどころか寧ろ良い。とはいえ彼も使用人の一人に過ぎないわけだから、雇い主の命令には背けないだろう。

だが仮にパトリックの命を受けて迎えに来たのだとしても、キラの方に心当たりは全くない。もうアスランの許婚者ではないキラなど、既に眼中にないと思っていたからだ。
水面下でアスランと結託していることなど、パトリックは知らないのだから。



「…―――、今更ザラ家のご当主さまが、一体僕に何のご用でしょうか」
「え!?ヤマト?お前の知り合いなのか!?」
学生の中にも裕福な家庭で育ち、外見に莫大な金を湯水の如く注ぎ込む輩もいるが、アスランやカガリの通う大学ならいざ知らず、流石にここまでの贅沢が出来る者を見たことはない。その中でもよりにもよって年中金策に走るキラが、例え目の前に停まった車から現れたとはいえ、見るからに上品な紳士に如何にもという風に応じたのだから、驚くのも無理はないだろう。空気も読ます腕を掴んで揺さぶってくる友人に苦笑して、キラは「うん。まぁ一応、ね」と曖昧に返した。
運転手は顔色ひとつ変えず、警戒心も顕にしたキラににこりと笑顔を向けた。
「私に貴方を迎えに行くようにと命じたのは、パトリックさまではありません。アスランさまです」
「アスラン……」
「はい」
相変わらず運転手は人好きのいい笑顔だが、ここであからさまに気を許してしまうのは早計だ。実態がどうであろうと、アスランは表向きにはカガリのものだ。キラとの関係など知る者は少ないほどいいに決まっている。

もしもバレたら。

キラはパトリックに“邪魔者”と認識され“排除”されるのだという。
言うと怒られそうで敢えて口にしてはいないが、キラは実はそこのところを余り恐れてない。どうせこれまでも疎まれ続けてきた。この恋を捨てれば平穏に暮らせると言われても、またあの一人ぼっちの生活に戻るくらいなら、当たって砕ける道を選ぶと決めたのだ。その道の先に何が待っていようとも、後悔はしないと。
ただ、アスランを道連れにするつもりはなかった。秘密にした方がいいと思うのは、大部分がそちらへの配慮である。
キラに戻る道はなくとも、アスランは違う。彼には家族がある。例え不仲であろうとも、決定的に断絶させてはいけない。家族のない辛さはキラが一番良く知っているし、亡くなったという母親も悲しむ。
(いつか、僕からアスランの手を放す時が来るのかもしれないな)


でも今はその時ではないと、キラは自分を甘やかした。頑張るのはアスランが共に戦おうとしてくれている間だけと限定して。
キラだって人間なのだ。何もしない内から幸せな夢を諦めるのは嫌だった。

利己的だと謗られようと、今は、まだ。




キラは貪欲な自分に半ば呆れつつ、慎重に言葉を選んだ。
「アスランでしたか。でも彼だって僕に会う理由などないと思いますが。貴方もご存知でしょう?アスランの許婚者はもう僕じゃない」
胸が激しく痛む。自分で言って、自分で傷付いていれば世話はない。
(しっかりしなきゃ!)
弱くなっている場合ではない。考えたくはないが、この運転手をどこまで信用していいのかさえ、キラには分からないのだ。人の腹の内を読むのは苦手だが、警戒する瞳で彼を見見据えたキラの気を変えたのは、続く運転手の台詞だった。
「生憎とご用向きは存じませんが……暖かいココアを用意してお待ちしているとの伝言を承っております」
「――――――っ!!」
それがあのイブの夜、アスランから貰ったココアを示唆していると、分からないキラではない。あの出来事を知るのはキラと傍に居たイザークのみ。そのイザークだってあんな取るに足らないことは忘れてしまっているだろう。つまりこの伝言の意味を理解出来るのはキラとアスランだけだ。運転手が確かにアスランからの命を受け、キラを迎えに来たのだと分からせるために、敢えてこの伝言を託したのだ。
ほんの小さな、でもキラにとっては大事な思い出。それをアスランも覚えていてくれたのだと思うと、急速に逢いたい気持ちが募った。


先刻までの悲壮感は何処へやら、頬を赤らめて落ち着きなく視線を泳がせ始めたキラを微笑ましく思いながら、運転手は尚も促した。




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