あめのせい
最悪だ。神は死んだ。何もかも最悪。
この世界はわたしになんの恨みがあるのか。何にも悪いことなんてしていないのに。
ただ保健室で休みたかっただけだったのに。
見上げた黒が歪んで見えた。
雨。雨。ひたすら雨。
あたまがずきんずきん痛んでいる。今間違いなく心臓があたまの中ある。額を押さえるだけでは済まず耳の上ぐいぐいと押した。
「大丈夫?」
「むり………」
心配そうにわたしを見る友人には悪いがもう人の声もダメだ。教室の灯りでさえ目に刺さる。
「保健室行ったって先生に言っといて」
「お大事に……」
ついて行くよと言ってくれた友人の手をやんわり断って、ふらふらと廊下を進んだ。人に気を遣う余裕がもうない。1人でいる方が楽。
チャイムが鳴って、昼休みの終わりを告げた。その音もわたしにはひたすら不快。音も光も吐き気を誘う。
薄暗い廊下のリノリウムがぼんやりと窓の形を映していた。
薄暗いのは目にやさしい。けれど、窓のない階段は、くらくて、足元が見づらい。こんな日くらい灯りをつけてよ。けち。ああでも明るかったらそれはそれで目に染みちゃうな。
「はあ……」
上下に揺れる階段は頭痛がひどい今、本当に敵。嫌。気持ちわるい。気怠さが全力でわたしを支配しようとしている。それでも清潔なベッドを求めて、段差を下りる。
「よし、下りられた…」
保健室はもうすぐそこだ。がんばれ、がんばれわたし。ところが保健室の表札を目にした瞬間一際強く頭がズキっと痛んだ。そして思い出すシャマル先生の記憶。そういえば保健室はあの変態くさい先生の根城だった。先生のテンションを思い浮かべて、めまい。今はむり。喋るのもだるいのに。
やめよう、引き返そう。職員室に女の先生が居るかも。そうしてまた廊下を進んだ。
雨の音が騒音をかき消していた。静かな廊下だった。
「ねえ」
人の気配のない、静かな廊下だった。
「何してるの」
ふっと振り返った先に黒い人影。それを見て悲鳴を上げかけた。
「ひっ……、ぁ」
驚いて傾いだ体を足が支えきれず、ぐらりと視界が揺れた。雨の日の廊下は滑りやすい。膝と腕をしたたかに打ち付けて、リノリウムの冷たさを全身に感じる。心臓があたまの中でうるさい。全身が痛んで本当に吐きそう。
それを見下ろされる。
無様なわたしをこの学校の支配者が見下ろしている。
控えめに言わなくてもおそろしい。今咬み殺されたらひとたまりもない。健常なときなら良いかって言うとそうでもないけど。いたくて涙が目に浮かぶ。
起き上がろうとしても、痛みが邪魔をした。
「ぅ……」
「君は本当に何をしてるの」
「保健、しつに」
「保健室はこっちじゃないよ」
知ってる。
でも、だって、説明するのが面倒で。
いっそ咬み殺されて救急車に乗った方がいいのかも。ゆっくりと、頭を揺らさないように上半身を起こす。
「ちがうの。シャマル先生……苦手、じゃないけど、いまは静かな先生がよくて、職員室に」
「ああ、そういうこと」
どこが悪いのと尋ねられて、あたまと答える。頭が悪いみたいになった。ちがう、けど。雲雀恭弥はわたしの意図を理解したようで、わたしの腕を引いて立ち上がらせた。
「着いておいでよ」
どこに?でも断る勇気も元気もない。3年になって、初めて話した。あの雲雀恭弥と普通に会話しているのはとても不思議な気持ちだ。
ゆるりゆるりと廊下を歩くわたしを雲雀恭弥はときどき振り返った。何かの動物の親が、子を見るような。そんな感じ。
辿り着いた先はやっぱりというかなんというか応接室だった。ソファに腰掛けるよう促されて、柔らかなソファの端に身を沈める。目を閉じて肘掛に体重を預ければ頭にひんやりしたものが乗った。ぱち、と目を開く。氷嚢を持った雲雀恭弥がわたしを見下ろしている。
「あ、ありがとう?」
「ちょっと待ってな」
訳もわからず着いてきて、思った以上に親切にされている。氷嚢を受け取って自分で都合の良い場所に当てた。冷たい心地よさにほうと息をつく。
雲雀恭弥はわたしが思ってるような鬼ではないのかも。
打った膝の治療もしてくれた。
いや、雲雀恭弥じゃなくて草壁くんが。頭痛と怪我の痛さも相まって、雲雀恭弥と2人きりという緊張感から解放されたわたしの目にはじわっと涙が浮かんだ。申し訳なさそうな顔で膝を消毒する草壁くんにあたまの中で謝る。ごめんね。情けなくてほんの少しの間泣いた。
「ありがとう、草壁くん」
「気にするな。では委員長、失礼致します」
草壁くんは応接室を出て行く。え、やだ。待ってと手を伸ばしたけど、草壁くんは雲雀恭弥に会釈だけ返した。2人きりにしないで欲しかった。茫然と閉まったドアを見つめる。
「君は寝てなよ」
近づいてきた雲雀恭弥に肩を押されて、ソファにゆっくり静かに頭を下ろす。上靴を脱いで、横になると彼はわたしの足に学ランを放った。
「貸したげる」
「え、ありがとう」
引きかぶった学ランは思ったより大きくて、風紀の腕章が重かった。胸のあたりから膝上まで覆えてしまう。
「薬は」
「お母さんが、飲み過ぎたらだめだからってくれなかった。こんなひどくなると思ってなかったし」
「そう」
机に置いてた氷嚢をまた頭に乗せられて、じゃあ寝てたら良いよと雲雀恭弥が前髪を分けた。雲雀恭弥の声は頭ががんがん痛む今でも不思議とうるさくない。低くゆったり耳に入り込む。触られるのもいやじゃない。ふしぎ。横になると蛍光灯が眩しくて、人に見られているのにも関わらず目を閉じた。眠ってしまおう。こんな不思議な状況、眠れば夢になるかもしれない。
1度ふっと目を覚ましたら、応接室の灯りが消えていて、向かいのソファで雲雀恭弥が眠っていた。わ、雲雀恭弥が寝てる。見てたら気づかれそうで、そっと目を逸らした。わたしもまた目を閉じて、とろとろと眠りについた。
何かが額に触れて、目を開ける。間近にある顔に慄く。雲雀恭弥がわたしの顔を覗き込んでいた。
「ああ、起きたね」
「おはよう、ごさいます?」
「何言ってんの。具合は」
頭痛はいくらかましになっていた。今は放課後だそうで。頭を動かせばちゃぷんと音がした。タオルに包まれた氷枕がわたしの頭の下にあった。いつからだろう。さっき起きたときは気づかなかった。おばあちゃんちで見たことある。こういう氷と水入れて端っこ留めるやつ。
「君の親に連絡がつかないから、送るよ」
「え、大丈夫」
「無理して倒れられたら並盛の風紀が乱れるんだ。甘えなよ」
「あ、はい」
向かいのソファにはわたしの友人に持って来させたらしいわたしのスクールバックが置かれていた。準備がよろしいことで。
駐輪場に赴く彼に着いて行くとそこにあったのはバイクだった。歩きか自転車だと思ってた。そういえばバイクで並盛を徘徊するノーヘル学ラン男子がいた。雲雀恭弥じゃん。後ろに乗せられて「落ちないでね」と警告される。バイク乗ったことなくて、怖くて目の前の腰にしがみつく。雲雀恭弥が身を固くした。
「あっごめん苦しい?」
「別に。しっかり掴まってて」
そういえばわたしの家教えてない。雲雀恭弥の後ろで不安になった。でも流れる景色はいつもの通学路だ。バイクって速い。あっという間にわたしの家の前。
「ありがとう」
「うん」
バイクから下りるのにも手を貸してくれた雲雀恭弥に頭を下げてお礼を言う。
「なんで、ここまで親切にしてくれたの?」
「なんでかな」
雲雀恭弥は手の甲でわたしの額に触れて、流れるように髪をすいた。他の男子にこんなことされたらドン引きしてしまうのに、いやじゃないの、ほんとに不思議。耳に髪の毛を引っ掛けられて彼を見上げる。雲雀恭弥はなんとも言えない顔でわたしを見下ろしていた。
「僕の母も、頭痛のひどいひとだったから」
「そう、なの」
だった、の言葉に触れられず。はっとして出かけたものを飲み込む。
じゃあねとバイクにまたがった雲雀恭弥が角で曲がって見えなくなるまで見つめていた。
2020.08.02.
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