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しま作 短編


──柚綺、お前に会わせたい子がいるんだ。
 数年前、父に言われ料亭で初めてその子に会った。艷やかな黒髪にぱっちりとした橙色の瞳。色白の肌は透き通っていて、微笑む姿は何処かで見たことのある──そう、いつも絵本で読んでいる天使みたいだ。陳腐な表現だが、幼心にそう思ったのを今でも鮮明に憶えている。
 生憎、今も昔も人見知りの気がある僕は彼女と初対面で何を話したかなんて憶えていない。憶えているのは、酒でほろ酔い気分になった父達が「同じ年頃の子供だから」とトントン拍子で僕たちを許嫁にしたこと位だ。

 あれから、何年経ったろうか。高校生になった僕たちは幼馴染のような、恋人のような、何とも生温い関係性を保っている。

「雅」
「柚綺! 今日もありがとう。それじゃ、帰ろうか」

 今日だって、いつものように教室に彼女を迎えに行って事務所へと彼女を送り届けるのだ。歌手活動をしている彼女は昔よりも女性らしく、それでいて昔のまま無垢であるように思える。そんな花盛りの彼女が誰かに踏みにじられる前に、自分が見ておかなくては。この日課にはそんな意味が込められている事なんて彼女は知る由もない。

「雅、ほら。襟が曲がっているよ。それに……ほらボタン。外れかけてる」
「うぅ……この年で恥ずかしいってば! でもありがとう」
「いや。貴女は可愛いのだから、その隙を狙った獣共に何をされるかわかったものじゃないだろう」

 雅の外れかけていたボタンを直し、彼女の手を取って玄関へと向かう。雅が顔を赤らめて俯いているのは満更でもない、と解釈しても良いのだろうか。
 毎度のことながら教室を出る時には男子の恨めしそうな視線が僕を貫く。まぁ、恨むなら僕よりあとに雅と出会った自分の運のなさを恨めばいいさ。雅は世界一可愛いんだから、何処の馬の骨とも知れない男なんかには絶対に触れさせてやらない。少なくとも僕が隣にいる限りはね。
 玄関で靴を履き替えて、二人で他愛もない話をしながら事務所へ向かう。

「あ、そうだ柚綺! この間の新曲」
「とっくに聴いてる。雅の歌声にピッタリのバラードだったね」
「ありがとう……えへへ、ちょっと照れちゃうなぁ。それで今日はCD販促用の撮影なんだ~」
「そうなんだ、頑張ってね」

 僕の声に雅は「未だに撮影ってちょっと緊張しちゃうんだけどね」と苦笑している。それでも「あ、勿論楽しいんだけどね!」とすぐに花が綻ぶように笑う彼女はどんな仕事も楽しくこなしているんだろう。……雅の兄様が社長で、その友人がマネージャーだから怪しい仕事を持ってくることなんて絶対ないだろうし。
 拳を握って気合を入れている様子の雅の頭を撫でる。うんうん、頑張れ雅。

「そんなに力を入れなくても大丈夫。貴女はいつも可愛いんだから、いつものままで良いんだよ」
「柚綺ってば、すぐ可愛い可愛いって……いつからそんなに女誑しになっちゃったの」

 口を尖らせて不機嫌そうにしている彼女だけれど、生憎身長差で上目遣いになっていて怖くないんだよなあ。ふ、と笑みがこぼれてまた雅が「なんで笑うの?!」なんて顔を赤らめる。

「女誑しって、僕が可愛いって言ってるのは雅だけでしょう?」
「──っ、それは……私が撮影してる時とかは、わかんないじゃん」
「あはは、そもそも雅以外にそんなに興味ないよ。ほら、そろそろ時間だろう? 早めに行かなきゃ」

 腕時計を見せると雅は「柚綺だけなんかいつも余裕そうだよね……」なんてぶつくさ言っている。僕が余裕そう、なんて彼女の瞳には僕がどんな風に映っているんだか。
 先を急ごうとする雅を呼び止めて彼女の頬を両手で優しく触る。

「ふぇ、な、なに……?」
「僕が余裕そうって言うからムッとしちゃって」
「え、柚綺、近」

 みるみるうちに赤くなる雅の顔は林檎のようで愛らしい。近いって、振りほどこうと思ったら振りほどける筈なんだけどなぁ。

「本当は撮影で可愛い雅が更に可愛くなるのが不安だし、そもそもその姿を一番に見るのが僕じゃないっていうのも嫌なんだけど?」

 そんな子供っぽいこといちいち言ってたら世話ないだろう。そう言えば雅は「柚綺もモデルとかになったら一緒に撮影出来るかも……!」なんて口をパクパクさせながら的外れな回答をしている。全く、わかった上で言ってるのか?

「そういうことじゃなくて……まぁ、いいや。僕には辞めてなんて言う権利もないし、一ファンとしても幼馴染としても貴女を応援しているからね。じゃ、行こうか?」

 手を離すと、雅は暫く固まった後「も、もう大丈夫! 一人で行けるから」と走って事務所へと向かってしまった。……まぁ、目の先に雅の兄様たちが見えるから今日は追わないでおくけど。本当、どうやって危機感を持たせる教育をするべきかな。
 雅の背を見送りながらそんな事を考えていると鞄に入っていたスマートフォンが鳴る。相手は──やっぱり、雅の兄様か。通話許可をしてスマートフォンを耳に当てる。

「はい、もしもし」
「おい、さっき何してたんだ?」
「はぁ。見ての通り何もしてませんけど……ただ今日も頑張ってねって言っただけですよ」
「雅はうちの事務所の大切な歌手なんだからスキャンダルは御免なんだよなぁ」

 言葉の節々に棘を感じる言い方に相変わらず玲人さんはシスコンとやらだなぁ、と口角が上がる。

「わかっていますよ。そんなに僕を近づけたくないなら車で送迎でもいいと思いますけど?」
「……そう出来るならとっくにそうしてるよ。雅がそっちのほうが良いって言うから……」
「うん、それじゃあ仕方ないですね。諦めてください。あ、雅に『撮影頑張って。楽しみにしてるよ』って伝えておいてください」

 あぁ、と玲人さんの不機嫌な声に「あと『今日も世界一可愛いよ、大好き』も追加で」と伝えれば「誰が伝えるか!」と電話を切られてしまった。
 全く、雅のことになると冗談の通じない人だなあ。まぁ、世界一可愛いも、大好きも本心だけど。

「さて、帰るか……」

 雅を事務所に送りとどけたし、今日は新しい羽織と着物が入荷するはずだから少しばかり家を手伝うのも悪くない。
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