2025.9.7




9月7日



毎年のささやかな祝いだ、とその母は言った。
でも今年はちょっぴり特別ね、とも。

「ネズミ、ちょっと待っててくれ」

ベッドに腰を下ろし、ぐるりと室内を見渡す。ここに来るのも二年ぶりだ。
パン屋の裏手にある紫苑の部屋は以前とさほど変わっていなかった。
スーツを畳んでバッグに詰めている紫苑を眺める。

「あんたな…、本気で今からあっちに来るんだな?」
「明日は旧西ブロックの視察が入ってる。部下には現地に直接行くって伝えてあるんだ」
「ふぅん。まっ、いいけど」
「なんだよ」
「べつに?」

視線を巡らせる。
本が。増えたかもしれない。
シェイクスピア、ヘッセ、ゲーテ、ドストエフスキー…

「もしかして明日の朝のケーキを食べ損ねたとか思っていないよな」
「確かにあんたのママのチェリーケーキは格別だ。けど、そういうわけじゃない。

 『陛下、あなたはお客様を接待なさらないの。心から歓迎の気持ちを表し、いつも気を配っていませんと、宴会は台無しです』

……覚えているか?」

「マクベス第3幕第4場、夫人がマクベスを宴に連れ戻そうとしている」
「へぇ。健在だな」
「きみのほうこそ。ここを離れていた間も旅先で舞台に立っていたのか? それとも歌っていたのか。まだそんな話もろくに聞かせてもらっていない」
「あんたこそ、今夜の主役が宴もそこそこに退席をほのめかしてどうする」
「どちらにしてもシオンをあんまり遅くまで連れ回すわけにはいかないだろ。イヌカシに合わせて、今日は元々早めに解散する予定だったんだ」
「おっさんはまだあんたのママと話したがっていたけどな」
「うーん。母さんも朝は早いからなあ。……よし、できた。行こう、ネズミ」
「なあ紫苑」
「ん?」
「今日泊まること、おれがいいって言わなかったら、どうするつもりだったんだ」
「え? あ…それは…」
「うちをイヌカシのホテルと同じだと思ってもらっちゃ困るんだけど」

答えあぐねる紫苑を突き放すような言い方をした。
何が『視察が入ってる』だ。

「ネズミ、怒っているのか」
「かなりな」
「それは…、ぼくが勝手だからか」
「違う。あんたが仕事を言い訳に使っているからだ」

紫苑の眸を見詰める。戸惑い、不安、その奥にある揺るぎない光。
この眸だ、と思う。変わらずここにある。

「ネズミ」
「うん?」
「気づいたんだ。誕生日にきみがいてくれるのは、きみと出逢ったあの夜以来なんだって。だから……どこでもかまわない。きみといたい。いてほしいんだ」

大げさにため息をついてみせた。

「わかった」
「えっ」
「合格。行くぞ」
「え? あっ、ちょっと待って」
「あんた…まさか泣いているのか」
「なっ、泣いてない!」
「なあ紫苑、一目瞭然って言葉知ってるか」

言いながら笑ってしまう。二年前の荒野での別れを思い出していた。

「あんたいくつになったんだ。相変わらずだな」

あの日遠ざけた体を抱きすくめる。

「悪かった」

おれは、あんたにあんたのままでいてほしい。
そう思った気持ちもまた、変わらずここにある。

「紫苑。おれも言わなければならないことがある」
「ネズミ?」

誕生日、おめでとう。



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