恋するかかと

 付き合いはじめた頃は8センチだった身長差はいつの間にか14センチになっていたから、最近はキスの時に少しだけ、壮五に背伸びをしてもらわなければいけなくなっていた。
 壮五のくちびるはいつだってやわらかい。お菓子で言うとマシュマロに近いと環は思っていたけれど、あくまで「近い」だけで感触が同じものなんてこの世にひとつとなかった。それにマシュマロからは、環の熱を上げるような声は、出てこないし。
 とにかく環は、今年一月に寮から引っ越してきたばかりの壮五の部屋の玄関に「おじゃまします」と上がるなり、その唯一無二を確かめつつ、

「……そーちゃん、」

 本格的に名残惜しくなる前にあることに気付いて、一度くちびるを離して、名前を呼んだ。首に回した手はそのままに、壮五が「なに?」という表情で環を見上げる。壮五のかかとはまだ、宙に浮いたままだ。

「めっちゃいい匂いする……もしかして、夕飯準備してくれたん?」
「あ、うん。もうほとんど食べられるよ」

 壮五が、かかとを下ろした。それから、どうぞ、とリビングに環を誘導する。
 クラシックな雰囲気のリビングには、色とりどりの風船と、ハッピーバースデーという文字の壁飾り、それから、何枚ものチェキやガーランドが壁面だけではなく天井をも飾っている。ダイニングテーブルの上には二人分にしては張り切った量のごちそうとケーキが並んでいた。

「え、すげー!」

 環がキラキラと目を輝かせる様子を、壮五も満足げに眺める。

「そーちゃん飾り付けまでしてくれたん!? そーちゃんも夕方まで仕事だったのに大変だったんじゃね? まじですげー!」
「ううん、楽しかったよ。こういうこと一人でするのは初めてで全部調べながらだったけど、君が喜んでくれることはわかっていたし。ただ、用意って言っても、料理はほとんど出来合いで、ケーキも買ったものになっちゃったな。……ごめんね?」
「なんで謝んの! ちょー嬉しいよ……!」
「いや、確かに君に何か作ってって言われたわけではないんだけど、でも、誕生日のごちそう調べたらだいたい手作りが相場のようで――わ……!」

 壮五の肩口にぐりぐりと鼻をこすりつける。仕事を終えて壮五の部屋に来たばかりの自分がまとう、まだ冷気を伴う四月の夜の空気と、夕方には帰宅していたらしい壮五の、まろやかで、あたたかい匂いがまざっていく。どうしたって肉付きのよくならない壮五の体だけれど、これでもかとぎゅうっと抱きしめる環の「力いっぱい」にはいつだって余裕で耐えてくれる。

「ふふん」

 環の浮かれた声に、壮五がおかしそうにどうしたの、と聞いた。

「そーちゃん、めっちゃむてーこー。肩んとこ、こんなにぐりぐりしてるのに」
「ああ、うん。そうなんだよね」
「前は警戒、してて? 急にぎゅってしたらそーちゃん固まっちゃってたから、やっと安心するようになってくれたのかなーって思った」
「け、警戒とは違うよ。どうスキンシップしたらいいかわからなかっただけで。顔の向きとか手の位置とかどこにしたらいいのかなって……」
「そんなん、そーちゃんのしたいようにしてくれたらいいのに」
「そうだけど、何か流儀があるのかもしれないと思って……僕なりに色々試してみたんだよ。例えば、力で気持ちを表してみたり……」
「……だからか! そーちゃん、めっちゃ強い力でしがみついてきた時期あった。あれってどうしたらいいかわかんなかったからなんだ……」
「うっ……恥ずかしい……力いっぱいハグしたら、君が苦しそうだったから、ちょっと違ったかなと思ってやめたんだ。それで結局……」
「どーするか決めたん?」
「うん。こうやって、身を任せちゃうのが一番いいなって」
「いいのかな、じゃなくて、いいな、なんだ」
「そう。いいな、なんだ」

 ふふ、と笑い合う。間接照明の灯りが、ゆらりと揺れた。環がもう一度顔を寄せようとすると、

「というか、」

 と、依然として腕の中にいる壮五が、あごに手を当てて何やら考え始めたので、環はすっと元のポジションに戻った。

「環くん、せっかくの誕生日なのに、僕の部屋でよかったの?」
「いーの。ここがいーの。なんでダメだと思った?」
「だって、いつでも来れるじゃないか。同じマンションに住んでるんだし」
「そーだけど、実際あんま来れてねーよ。同じ寮に住んでた時と、マンションの別の部屋だと全然……仕事違っちゃうと時間もあわねーし……」
「そうかもしれないけど……みんなもスケジュール、空けられるみたいだったし、どこかに出かけてもよかったけど」
「そーぉちゃん」

 両手で頬をぎゅっとつぶすと、うっ、と壮五が目をつぶった。

「何が心配?」

 あんな風に言われたら、自分の家でパーティをすることに対する不満に取りかねない場面だけれど、環にはその懸念はなかった。壮五は誰かへの労力を惜しむ人間ではないし、対象が自分であるならなおのことだと、環にはわかっていた。

「……ちゃんと、楽しませられるかなって」
「……も~」

 頬を包んだ手をむにむにと動かした。「だっへ、」と、壮五が情けない声を発した。

「俺は、そーちゃんちがよかったの。そりゃ、みんなと一緒もたのしーよ。でも、今年は絶対二人がよくって……寮出て初めての誕生日だし……なんかほら、こうしてたらさ……――恋人、っぽいじゃん、俺ら」

 壮五が、はっとしたように目を見開いた。

「家族っぽい誕生日はみんなにやってもらったから、今年は付き合ってますって感じするやつが、よかった」
「そ、そっか……寮ではあんまり二人にはなれなかったもんね」
「そー」

 そっか、と口に手を当てて言う壮五の顔が少し、赤い。自分たちが恋人同士なのだと、改めて宣言する機会はあまりない。

「それに、そーちゃんいて楽しくなかったこと、一回もないし。そーちゃんいるだけで、俺にとっては充分誕生日プレゼントなんだかんな」
「あ、うん……それは僕も……。……なんだか、君の誕生日なのに僕の方が喜ばされてないか?」
「いーの。そーちゃん嬉しいと俺も一緒に嬉しくなんの。あ、あとなんか今日、俺がおじゃましますって言った後、そーちゃんがおかえりって言ってくれたのすげーよかった」
「そしたら、環くんもただいまって言ってくれたよね。確かに、いつもとは違う感情になったかも」
「……やっぱ一緒に住めばよかった?」
「自立したいって言ったのは君だろ」
「そうだけど……今日一個大人になったから、充分成長したってことで、もういいかも」
「ふふ、それはどうかな」
「絶対なった、もうめっちゃ大人。自立終わり。……確認、してみる?」

 環の手が、壮五の頬を包む。顔にかかる髪を耳にかけてやると、瞳を揺らしたのち、壮五が目を閉じた。そしてかかとを上げ――ようとしたその時、

「あ!」

 ――『ピー!ピー!ピー!』と三回連続大きな音を立てたのは、

「……っとぉ! え、なに!?」

 キッチンの、オーブンレンジだった。

「……ロティサリーチキンを」
「ロティ……何?」
「ロティサリーチキン。鶏の丸焼きだね。パーティ感出ると思ってそれだけ昨日から仕込んでたんだ。君の帰宅に合わせて焼いたから、今ちょうどできたのかも」
「へ、へぇ~……」
「火の通り具合、ちょっと見てきていいかな。三月さんのレシピ通りに作ったんだけど、中を確認したくて。生焼けだったら追加で加熱しなくちゃ、いけないんだけど……」

 ん-、と壮五が困ったようにうなった。あごに手を当て、目をつむって悩み始める壮五の右手は、環の服をしっかりと握っている。

「そーぉちゃん、これ、名残惜しいってやつじゃん」
「えっなんでバレたんだ……」
「ば~れ~ば~れ。いいよ、一番おいしい状態で、一緒に食べたいんだろ。したら、ちゅー、してから見に行けばよくね? そーやって悩んでる間にできんだろ。しちゃお」
「いや、できないと思う。長くなる自信があるんだ……」

 うなだれて本気で悩み始める壮五に、環の体を駆け巡る何かの線が、ちりっと焼き付いた感覚がした。

「なー、一回。ダメ?」

 環が再度、壮五を腕の中に閉じ込めた。引き寄せられた壮五が、環の胸にもたれて、頷いた。

「わかった、一回してしまおう。……ちょっとだけね」
「ちょっとじゃない、ちょっとよりもう少しだけ、こう……ちゃんとした。正式なやつ」
「なに、正式なやつって」

 今度は壮五が笑って、

「君は、かっこよかったりかわいかったり、忙しいな」

 環の頬に、触れる。

「そーちゃん、どっちが好き?」
「どちらかに決めてしまうのは、もったいない気がする、かな」

 壮五のかかとが、なめらかに上がった。
 オーブンレンジからもう一度、二人にアラートを告げる音がした。
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