君の先には海が広がる

「いおりんごめん、ちょっといい?」

 環の声と共に、進路指導室のドアが遠慮がちに開いた。

 時刻は午後5時半。窓に映る空はまだ青いけれど、きっともうすぐその表情を変えるだろう。

 ここ七星学園には「進路指導室」という名の小さな自習室が3つあり、他にも家庭科室や空き教室が自習室として開放されている。とは言え芸能特化のこの学園では進学を希望する生徒はそう多くなく、今日も指導室を使用しているのは学校推薦で進学予定の一織ただ一人だ。

 このままアイドルを続けるとしても、勉強が嫌いでないならば色んな経験をしておいた方が良いと三月や大和、そして事務所にも勧められ、大学進学を決意した形になる。

 時間が合えば一織と同じく進学を希望している悠と一緒に情報収集や勉強に励んでいるのだけれど、進学予定のない環は、2人の邪魔になるからと仕事がない時でも先に帰るようになってしまった。

 申し訳なさそうに入ってきた理由は、一織の邪魔になってしまうと思ったからだろう。

「かまいませんが……四葉さんあなた、今日撮影じゃありませんでした?」
「あー。行ったけど機材の故障でバラシ。んでまだいおりんいるっていすみんに聞いて戻ってきた」
「……わざわざ、戻ってきたんですか?」
 
 数時間後には寮で会えるのに、一体どんな用事があって学校まで? その疑問が顔に出ていたのか、一織がそう聞く前に環が口を開いた。

「あのさ……ちょっと相談? 報告? みたいなんがあるんだけど──って、いおりんどうした!?」

 がたん、と大仰な音がしたかと思えば、額がじんじんと痛む。どうやらスチールシェルフに思いっきり頭をぶつけてしまったらしい。

「もしかして具合悪いん? 一緒に、帰る? それとも一旦保健室行く? 先生まだいっかな……」
「だ……大丈夫です」
「え、でもいおりんがどっかに頭ぶつけるなんて珍しいじゃん。よろけたん? 疲れてんじゃねーの?」

 そう、本当のところ、まったくもって環の言う通りなのだ。一織がうっかりどこかに頭をぶつける場面なんて、三月だって見たことあるかどうか。そのくらい、今、一織は動揺していた。

 陸から「環と壮五が恋人同士なのではないか」という旨の相談を持ち掛けられたのは、ほんの3日前のことだ。その夜は眠れず、しかしその甲斐もなく、もし本当に2人が恋人同士で、そのことを打ち明けられたらどう対処すればよいのか、結論は出ないままだった。

 ただ、その翌日から壮五は2週間という長期ロケで寮を空け、壮五がいないためか環の挙動に特に不審な点もなかったので、一旦この件は保留にしようと切り替えて、きれいに頭の片隅に追いやった。

 例え思い出しそうになっても、無理矢理押し込んだ。努力の甲斐あって、この3日間は環と壮五について思い出すことはなかった。でも逆を返せば、努力しないと忘れることはできなかった、ということでもある。

 だから、環の口から「報告・相談」という言葉を聞いて、見えないようにしまい込んでいた厄介ごとが不意打ちにコントロールを失い、びっくり箱みたくぽーんと飛び出してきて一織の頭をたちどころにいっぱいにしてしまった。

「私だって頭をぶつけることくらいあります。問題ありません」

 いや、でも。何も環の話が「それ」と決まったわけではない。

「……話というのは、四葉さんが手に持ってるその紙のことですか?」

 環が手にしていたのは、今日配られた進路調査票だ。高2の半ばから既に2度、提出しているが、これが最後の意思確認となる。進学をせずとも、何かしら書いて提出する必要があった。たぶんこのことだろう。絶対にそう。本当に、これで、あってくれ。一織はごくりと生唾を飲み込んだ。

「これ? あー、違う。これはさっき、お前だけ提出まだだから今出せって先生に渡された」

 違うのか。じゃあ……

「……来週のライブのことですか?」
「ん-、それもあっけど今は違う」
「……もっと近々の話ですか? じゃあ今夜の夕食とか……」
「ちげーし! そんなことでわざわざいおりんの邪魔しにこねーよ」

 それもそうだ。一織だって、わかっている。だって環は、実は空気の読める男だ。この状況で夕飯の話なんてもってのほかだし、ライブの話だって今日じゃなくてもいい。

「あのさ……」

 珍しく環が、言いよどむ。緊張、しているのだろうか。形のいいつり眉が、ぐっと地面と平行になっている。

 環が今、口にしようとしているのは、壮五のことかもしれないし、違うかもしれない。でもなんであれ、きっと、重大で、大切で、繊細で、薄くてすぐに割れてしまう、大きなガラス玉みたいなものかも、しれない。そんなものを手渡そうとしているのか、この私に。そう思ってひとつ、深いため息をついた。環には聞こえないように。それは呆れや煩わしさじゃなく、そのガラス玉を確かに受け止めるための準備だった。

 座ったらどうです、と声をかけると、環は力なく「おー」と言って、パイプ椅子にかける。椅子がぎぃっと、軋んだ。一織も向かいに腰掛ける。

「俺、な……」

 環の手に無意識に力が入ったのか、机の上においた進路調査票が、がさっと音を立てる。そのままぎゅっと唇を結んでしまって、

「四葉さん」

 一織は環に、その唇を開いてほしくなった。

「私は今まで、あなたのどんな話でも、きちんと聞いてきたと思いますけど」

 視線をまっすぐに環を射貫くと、「いおりん……!」と大仰に感極まった表情をして、それからいつもの彼の表情が戻ってくる。かと思ったら、

「いおりん、あんな、俺、」

 ぐっと真剣な顔をして、一織は思わずその瞳に吸い込まれそうになってしまった。

「そーちゃんと、付き合ってんだ」

 やっぱり、と言うべきか、陸の言うことは本当だったのか、と思い至るべきか。わからないけれど、一織は真偽がわからない正体不明の戦いから解放されて、少しだけ、ほっとしていた。

「あ……そう、なんですか?」

 淡泊と言える一織の反応に、環が眉を寄せる。

「え……それだけ?」
「それだけ、とは?」
「うそでしょう、とか、なんてことしてるんですか四葉さん! とか、そういうのねーの?」
「私の真似しないでください。へたくそですね」

 しまった、と思った。話を聞いた時、どう反応するかすっかり忘れてしまっていた。一織はドッキリを仕掛けられていることに気付くと、適切な驚きのリアクションを取ることが難しいタイプの人間だった。狡猾な部分は少なからずあるのに、嘘がつけない。

「信じらんない! って、絶対言われると思った。え、もしかして……バレてた? いおりん俺たちのこと、わかってたん……?」
「いいえ、別にそんなこと──」

 その時、一織は頭の中でこの状況を瞬時に計算しつくし、現状路線から急カーブを切った。

「……はい。実は気付いてました」
「まじ!? やっぱいおりんはすげぇ……なんで!?」
「あなたたちの態度や雰囲気が、ある日を境に急に変わったからです」
「え~そうだったんか……なんかはずいな~。絶対態度に出てないつもりだったんだけどな……」

 嘘だ。実際には一織だけ2人のあれそれに全く気付いていなくて、3日前に面食らったばかりなのだ。

 でも、結果として知っていたことは事実なのだし、把握していたことにしたほうが環からの話も聞きやすいし自分の意見も通しやすい。とにかく、一織の人生を賭け捧げている「アイドリッシュセブン」において、明確に一大事であることは確かなのだ。

「いおりん、俺、真剣だかんな」
「真剣、というと……」
 
 だから、こう、と呟きつつ腕組みをした後、環は進路指導票に何やら書き始めた。一織のシャープペンシルを使って。

「真剣ってのは、こういう……」

 そこにはでかでかと、「そーちゃんと結婚」と書いてあった。

「ちょ、っと! 学校の書類に何書いてるんですか!? 浮かれているのはわかりますが分別つけてください!」
「別に浮かれて言ってるわけじゃねーよ! いやそりゃ浮かれてるよ……浮かれてる、けどさ! だって両想いって奇跡みたいなもんじゃん……それはわかるから、そりゃ浮かれるよ! てかそうじゃなくて! 俺は……俺は、ほんとに」

 環は、その強い視線を、

「そのくらいのカクゴで、そーちゃんとそういう風になったってこと」

 一織から外すことは決してなかった。

(それって、どうなんだ……?)

 絶対に結婚する。それは、付き合い始めたカップルならだいたい口にしていることで、特にまだ若い高校生はなおのことだ。環だってそういうテンションだから「そーちゃんと結婚」なんていう夢みたいなことを書けるんだろうと一織は推測する。

 ──じゃあ、逢坂さんは?

 陸の話によれば、壮五だって相当浮かれてしまっている、らしい。理性のある年上として状況をコントロールしてくれればいいが、2人の態度で周囲に勘付かれてしまうとなると話はまるで別だ。

「それは、わかりました。話は聞きますから……ちょっと紙、貸してください。それ、消しておきます」

 調査票をすっと自分の方に寄せ、筆箱から消しゴムを取り出す。なるべく跡が残らないように消さなければ、と思った。

 MEZZO”というデュオの性質上、この手のものを見られてもおかしな話題にはならないはずだった。でも、たった今状況が変わった。だって2人は本当に恋人同士になってしまったのだから。それが世間に明るみになってしまったら? 恋愛沙汰、それも同性でメンバー同士。

 この先は、もう嵐の海の航海みたいなものだ。何が起こるか全くわからない。それに──

(それ、に──)

 一織の頭には、ずっと「ある懸念事項」があった。陸から2人のことを相談された時から考えていた、あることが。それがいよいよ現実になるかもしれないと頭を巡らせていると、

「待ってやっぱそれダメ!」

 消しゴムをかけようとしていた調査票を、環が自分の手元に戻した。

「なんですか。代わりに消すだけですよ。どちらにせよこのままじゃ出せないでしょう」
「でも、この紙って、これからどうしたいか書く紙だろ。だったら俺、本当にこれなんだけど」
「四葉さんの気持ちはわかりましたけど、」
「いおりんが、わかってるわけ、ねぇじゃん」

 強めの表情で言ってすぐ、違うそうじゃなくて、と頭をかく。

「俺がちゃんと説明できてないから、わかんねぇよなって、そういう意味」

 はい、と静かに相槌を打つと、ほっとしたように環が口を開いた。

「……俺とそーちゃんって、今までずっと、家族をやり直す、みたいに関係作ってきてたのな。当たり前の気持ち、ちゃんと持てるように。それで、実際そうなれた……と思うんだけど、そうじゃなくて、俺は、本当にそーちゃんと家族になりたくなった」

 環の表情は、どんどん真剣に、でも、穏やかに変わっていった。その顔から、まるで目が離せない。

「形が、ほしくなった。そーちゃんもいいよって言ってくれた。でも、無理矢理、とかじゃなくて、本当にそうなるには、俺だけが幸せで納得できればいいっつーんじゃダメじゃん。周りの人にも、認めてほしいじゃんな。その方がそーちゃんも幸せじゃん」

 西日が、進路指導室を少しずつ照らしはじめた。世界をまるごと変えてしまおうとするみたいに。

「だからその、ゴール? が次の目標だとして、そこに行くには、俺、めちゃくちゃ頑張らないといけないし、でもそうやって頑張れることが、なんか嬉しいんだよな」

 ついに、太陽のオレンジが部屋を支配する。その光のあまりの寛容さに、もしかしてここに世界の全てがあるのかもしれない、と、一織は錯覚した。

 光に包まれた環の表情は、一織の見たことのないもので、深くて、雄大で、光も闇も全て内包する、海みたいだと思った。
 「ちゃんと、しないとな。俺が」不意にそう呟いた環は、窓の外の輝く世界を見やっていた。

 嵐のように奔放だったあの環の視野が、広くなったこと。それは環が担当し始めた振付が大いに関係していると一織は思っていて、それはもちろん正解なのだが、もしかして他にも要因はあったのかもしれないと初めて思い至る。

 レギュレーションが、とか、アイドルとして、とか、どう舵取りをすべきか、みたいな心配だとか、そういうものは不思議なことにきれいさっぱりどこかに飛んで行った。台風一過のような晴れやかな空の下、美しい草原に立っているような、そんな心持ちだった。

 一織は、心配していたのだ。あらぬ世間の目やゴシップで、2人が傷つくことを。傷ついて、ほしくなかった。これから先2人になるべくつらいことや悲しいことが降りかからぬように、生きていてほしかった。でももしかして、悲しみを背負う覚悟すら、環の中に既にあったのかもしれない。だとしたら自分ができることは、少ないけれど、確かにある。

「四葉さ──」

 その時、チャイムの音が時間の流れを2人に告げた。

「あ……そろそろ下校時間ですね」
「え、もうそんな時間なん? 邪魔しちゃってごめんな、いおりん」
「別にいいです。少しくらい予定がずれてもすぐリカバリーできるようスケジュール組んでますので。もう帰れますか? まだ用事があるようならさっさとしてください」

 おー、もう帰れるよ、と言う環を横目に筆箱と参考書をカバンにしまいながら、言った。

「……四葉さん、今、何か食べられます? おごりますよ、ラーメン」
「うそ!? いおりんがおごってくれんの……!? なんで!? 地球滅びる!?」
「滅びません。行くんですか、行かないんですか」
「行く行く! あ、待って! この紙出さなきゃ……これ、このまま先生に出していいん?」
「ダメに決まってるでしょう! もう私が書きますから、貸してください」

 2人が去った進路指導室に、静寂が戻っていた。それは、航海の前途を祈るような、ひそやかで、光に満ちた祝福のような静けさだった。
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