君の先には海が広がる

「ねぇ、一織。環と壮五さんって、付き合ってるの?」

 夜の帳がすっかり落ち切って、カーテンの隙間からは梅雨の合間の晴れた心地よい空気がさやさやと入り込んできている、なんとも平穏なひととき。今日の兄さんのオムライス美味しかったな、梅シロップを今年も作れてよかった、なんて考えていた平和な時間を、陸の不意な問いかけがあっさりと破った。
 何を聞かれたのかまず理解ができなくて、でも無意識はしっかり動揺しているようで、本棚に戻そうとしていた参考書を思わず取り落としそうになる。え、という短い驚嘆とともに振り向くと、陸は読んだいたはずの本を膝に置き、じっと一織の答えを待っていた。

「なんですって?」
「だから……環と壮五さんって付き合ってるのかって聞いてるの」

 陸の口からは、もう、と焦れたようなつぶやきが漏れている。陸は今、なんと言った? 環と壮五が付き合っているって? それって──

「付き合ってる、って……あなた、それ一体どういう意味で言ってるんですか?」
「付き合ってるって言ったら意味は一つだろ。子供じゃないんだし」
「じゃあこれは、2人が……その、恋人同士かどうかという主旨の質問、ということですか?」

 そうだよ、というなぜだか得意げな陸の答えに、はぁ、と嘆息をひとつ返して、降って湧いたこの状況を理解しようと、陸の言葉を頭の中でゆっくりとなぞる。MEZZO“の2人について、彼ら2人の関係を自分が完全に理解しているかというと、おそらくそうじゃないだろう。でも、だからといって──

「いや……そんなわけないでしょう?」
「なんでそんなわけないんだよ? そういうことがあっても別におかしくないだろ」
 いいですか、と前置きをすると、まだ内容に触れてもいないのに陸がムッと口を尖らせた。
「仮に一定以上の感情をお互いに抱いたとして、それが2人揃って恋愛にまで発展し、告白という段階を経て、よし、付き合おう、というところまで達するには高すぎるハードルがあると思わないんですか」
「え〜別に思わないよ! 好きになったらなりふり構わずゴールまで突っ走っちゃうことだってあるだろ」
「はぁ……四葉さんならともかく、逢坂さんはそんなことにうつつを抜かすタイプじゃな──」
「うつつを抜かすタイプだよ、壮五さんは!」

 食ってかかるように、前のめりで陸が口に出す。一織は一瞬、言葉を失った。

 なんなんだ? この、断言は。

 一織ってロマンとか情緒とか、そういうものがないんだよな、という陸の言葉に反論したかったものの、それに関しては残念ながら言う通りであり、さらに言えばそんな自分を一織自身が良しとしているわけなので、グッと言葉を飲み込んだ。

「そこまで言うなら根拠があるんでしょうね?」

 ふふん、と陸が笑う。風が少し冷えてきたので、窓を閉めた。しっかり鍵をかけてしまうと、この部屋で聞こえる音は陸の声だけになった。

「まず……顔が全然違う!」
「顔?」
「笑い合ってる時の顔がさ、環も壮五さんもすっごく優しい。全然関係ない時も目合わせてニコってしてたりする」
「……それは前からじゃないですか?」
「前からじゃないの! ……てか、前とは全然違うんだって」
「違う、とは」
「さっき言ったじゃん。目が優しいの。壮五さんも環も元々優しいけど、そういうんじゃなくて……とろんと、優しい?」
「……とろん?」
「あ! ドーナツとかケーキみたいな感じかな? あとね、」

 何がどう優しい目線なのか、は陸自身納得する解釈まで落とし込めたらしい。一織は正直全然理解ができなかったが、ひとまずおとなしく続きを聴くことにした。

「この前リビングで壮五さんが環の髪ずっといじってたし……あとはねー、環は壮五さんの手でずっと遊んでて、壮五さんも嬉しそうだった。あれって、手のひらに文字書いて遊んでたのかな? そういうのが……」

 その時のことを思い出すように、陸の瞳が左斜め上を向き、

「ちょっとね、入っていけない雰囲気だったんだよね」

 一織に向き直る。

「それで、あれ? うーん……って思ってたら今日はね、なんと壮五さん、環のこと学校まで迎えに行ったんだよ?」
「逢坂さんは仕事があればいつも学校に四葉さんを迎えにきていますが……」
「今日は壮五さん、環と一緒の仕事ないんだよ!」

 そう言われて初めて一織は、状況がいつもと違うことに気がついた。壮五が学校まで環を迎えに来ていた目的は、「仕事に遅刻しないように」だったはずだ。環が学生の身であり、その割に多忙すぎるせいで、相互はいつも環がきちんと現場に来れるかどうかを心配していた。だから、現場で直に待ち合わせするよりは、壮五が環をキャッチしてタクシーで現場入りした方が確かに合理的で確実だろう。

 でも、壮五の単独での仕事も忙しくなり、一方で環は自分のスケジュールを少しずつ管理できるようになり、また、万里がマネージャーについたことなども重なって、最近は壮五が学校に迎えに来る頻度自体減っていた気がする。加えて、今日は環は夕方から仕事、逆に、壮五は夕方からはオフだったはずだから──

「迎えに行ってどうしたと思う?」
「え……さあ」
「2人でちょっとだけ水族館行って帰ってきたんだって。そのあと環は仕事行って、壮五さんは帰って来てたでしょ」
「……水族館? なんで水族館なんか……」
「水族館といえばデートじゃん! デート以外で行くの? 水族館! しかもものすごい隙間時間で!」
「……仕事の下見とか……」
「水族館関係の仕事なんて入ってないでしょ! しかも環と壮五さんでお揃いのぬいぐるみ買ってたじゃん! も〜、一織のにぶちん!」
「にぶ──」

──お揃いのぬいぐるみ?
 そういえば。夕食後に帰宅した壮五に、お土産、と言ってお菓子をもらった。仕事で北海道やら沖縄など遠方に出向いたメンバーがお土産を買ってきてくれることは多いが、壮五は遠出していないはずで、一体なんのお土産なんだろう、とは思っていた。恐る恐る、机の上に置いておいたお土産のパッケージを確認すると、浮かれたカラフルな文字で「水族館限定」と書いてある。
 そういえば、帰宅した壮五が抱えていた大きなビニール袋には紫と水色それぞれのイルカのぬいぐるみが入っていて、「それどうしたんだ?」と聞いた三月に壮五が「環くんと買ったんです」と言っていたことを、今になって急に思い出した。

「……あれってそう言うことだったんですか?」
「そういうこと以外に何があったの⁉︎」
「……じゃあ、兄さんも気づいて……」
「三月も多分、あれー?って思ってるんじゃないかな」

 夕食の席にいたのは自分、陸、三月の三人。その中で自分だけ違和感を感じていなかったなんて、と少しだけ一織は愕然とした。

「というかなぜ、私にこんなこと聞くんです? 今回の場合、聞くなら兄さんが適任でしょう。この通り、私はにぶちんでロマンがない性格なので……」

 一織がそう言うと、陸がきょとんとした顔で一織を見る。

「だって……環が一番にそういう話したがるのって、一織なんじゃないの?」
「……はぁ? 四葉さんが、なぜ私に」
「環は一織のこと、なんていうか……友達みたいな感じで、好きじゃん」

 そうだろうか。自分は壮五以上に環と反発する性分なのでは、とは思っていたが。時間を共にしているときの環の表情を思い返してみた。煙たがられるか、警戒されているかどちらかなような──

『いおりん、これ食う?』
『あのウサミミ欲しいん?』
『ここ行ってみようぜ、いおりん〜』

(……意外と、そうでもないの、か……?)

「この様子だと一織はなんも聞いてないのか〜。期待はずれだなぁ」
「勝手に期待して勝手に失望しないでくださいよ。というか、この話はまだフィックスではないでしょう? 本人からそういう話が出るなりしてから、確定事項とするのが賢明な判断かと思いますが。外野にはわかりかねるかと」
「え〜! 話聞いてた? 確定はしてるでしょ! あー……でもきっと、無闇につつかないほうがいいよね? 隠しておきたいのかもしれないし……それでも、環からなんか聞いたら俺には教えてね」

 だから、自分にそういう話は来ないと思う、と言おうとしたが、それきり、陸はまた文庫本に目を落としてしまった。扇風機つけますね、と一声かけると、はーい、と小さい返事が聞こえる。
 机に向かい、今日書店で買った「小論文の書き方」という本を開いた。でも、

──四葉さんと逢坂さんが?

 そのことばかり気になってしまって、本の内容が全く頭に入らない。集中力や切替には自信があるのに。

(そもそも事務所的にありなのか……? 逢坂さんのことだから、事前に確認をとっているのかもしれない。でもそれを私が探ってしまっていいものか……無遠慮に秘密を暴くような行為になる? でも……もしレギュレーションに反しているならば、私がなんとかしなければ……四葉さんの自由奔放さは一種の美点ですが、この場合弱点にもなる可能性が高い。彼に恋愛沙汰コントロールできるかどうか……ただ、アイドルに恋愛スキャンダルは致命的だけれど、メンバーが相手の場合はどうなんだ……? イレギュラーすぎてわからない……そもそも私がここまで介入していいのかどうか──)

 爆弾を持ち込んだ当の本人は、「聞いてもらってスッキリした!」と言って9時頃には部屋に帰って行った。結局一織だけが、堂々巡りの眠れぬ夜を過ごすことになるのだが、解決の時は案外すぐ訪れることとなる。
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