2022じゅぞちゃんバースデーいただきもの

帰らなくていいんですか、という言葉に、宇井はノートパソコンから視線を上げた。
執務室の開け放たれた扉の先、薄暗いアカデミーの廊下に立っているのは、校長の安浦から用事を申し付けられたのであろう半井だ。半井の後ろからは、ひやりとした冷気と梅雨の小雨の気配がしていた。
半井の言葉に宇井は首をかしげると、腕時計に視線を落とす。
十九時二十分。
アカデミーの教頭の仕事は多い。いつももっと遅くまで残業している宇井だから、この時間が特段遅いとも思わなかった。

「日報が途中なんだ。設備申請の確認もあるし――」

気遣いありがとう、と宇井が言うと、半井はびっくりしたように少しだけ目を見開いた。

「いや、でも、今日は……」
「今日? 今日ってなんかあったっけ?」

言いながら宇井はノートパソコンに視線を落とす。今日は演習で設備の破損、生徒の怪我が多かった。模擬戦闘をカリキュラムに組み込んでいるアカデミーである以上、仕方のないことではあるが、あまりに損害が大きいと、校長の安浦がいい顔をしないのだ。
その気持ちはもちろん、宇井にだってわかる。兵士にさえなっていない生徒たちが身体や心に傷を負うのは、大きな損失……いや、単純に「可哀そう」だ。
ふう、と宇井は息を吐き出した。前線にいたときには、もっと自分はドライな思考だったのに。ことここに至って、いつの間にか親心めいたものが生まれているのかもしれない。
それはアカデミーの教頭に自分の立場が変わったこともあるが、他人と一緒に住み始めた……というのも大きいのかもしれなかった。

「……宇井さん、もしかして」
「ん? 君こそもう帰ったら? 雨脚ももっと強くなるみたいだし、私はまだ……」
「……今日が鈴屋先輩の誕生日だって、御存じありませんか?」

おそるおそる、といった感じで呟かれた半井の言葉に、宇井はぽかんと口を開けた。
鈴屋、鈴屋、鈴屋什造。
宇井が今まさに脳裏に浮かべていた、最近一緒に始めた人物というのが、鈴屋なのだから。

「えっ!? なに!? た、誕生日っていった!?」

勢いよくデスクから立ち上がると、マグカップとノートパソコンが驚いたように揺れる。

「ええと、はい」

今日は鈴屋先輩の誕生日です。
繰り返された半井の言葉に、宇井はまじかと頭を抱えた。



「ケーキにオードブルに……ああ、もうプレゼントは今度の週末!」

宇井は傘もささずに、いや、させずに、最寄駅から自宅マンションへと全力疾走していた。その両手には先ほど駆け込んだ店で購入したケーキとオードブルの入った袋が揺れている。

街行く人々に雨に濡れながら全力疾走する宇井の姿は、さぞ滑稽に映るのだろう。ちらちらとこちらを見ている視線が刺さるが、宇井は気にせず走り続けた。

鈴屋と――そういった意味で付き合いを始めて、同棲を始めて三ケ月だ。お互いのことはまだ手探りで、知らないことは多い。
誕生日だって話題にしたことはないから、鈴屋が宇井の誕生日を知っているかどうかだって怪しい――が、恋人の誕生日だ。
それがすっぽかしていい理由になるものか。

思い返せば鈴屋班の面々はいつも彼の誕生日を祝っていたし、鈴屋の生い立ちを考えれば、誕生日という存在が彼にとって大切な意味を持つことなんて、少し考えればわかるというのに。

「鈴屋くん……っ!」

勢いよくリビングの扉を開けると、ソファに身体を沈めた鈴屋がきょとんとした顔で宇井を見た。
鈴屋はいつもどおりだった。
いつもどおり、気に入りのキリンのクッションを抱きしめつつ、テーブルの上に散らばったスナック菓子や甘いスイーツをつまんでいるようだ。
まるで今日が誕生日などではないかのように、鈴屋はいつもどおり、だった。

「こーりさん、おかえりなさい」

そんなに急いでどうしたんですか、とふにゃりと笑う鈴屋に、宇井の胸はちくりと痛む。しかし宇井の口から出た言葉はごめんでも、おめでとうでもなく――

「なんで、言わなかったんだ! 今日が誕生日だって!」

そんな、言葉だった。

鈴屋はさらに目を丸くして、宇井を見つめる。

「言わなきゃ、いけないことでしたか?」

じっときれいな瞳で見つめられ、宇井はたじろいだ。

「だって……言ってくれなきゃお祝いができないじゃないか」

宇井はそわそわと手にしていたケーキとオードブルの袋をテーブルの上に置く。
プレゼントはまた今度、と小さく言い添えて。

「……お祝い、してくれるんですか?」

鈴屋がテーブルの上に置かれた品々と宇井を交互に見つめた。

「当たり前だろ!? 私たちはこ……」

恋人、という言葉を吐き出せずに、宇井はごくりと喉を鳴らす。
そんな宇井を気にすることなく、鈴屋はテーブルの上の袋をがさがさとまさぐっていた。

「わ~ケーキです! これ、食べていいんですか?」
「……もちろん」

宇井の返事を聞くなり、鈴屋は箱から取り出したケーキのクリームを指先ですくいあげ、赤い唇へと運んだ。たちまちその表情が溶ける。急いで買ったあまりもののホールケーキとは言え、それなりに人気のパティスリーのものだ。おいしくないわけがない。

「こーりさんも、どうぞ」

鈴屋がクリームのついた指先を差し出している。宇井は少しだけ逡巡したあと、ソファに腰を下ろし、鈴屋に向かって口を開いた。
舌にクリームが載せられ、甘味が広がっていく。

「まだ、ロウソクもつけてないのに」
「ロウソク? ああ、あのお歌をうたうやつですか?」

半兵衛がとっても大きい声で歌うんですよ~と鈴屋が楽しそうに言う。

「みんな、誕生日にお祝いするのが好きなんですねえ~」

再び自分の口にクリームを運びながら、鈴屋が言った。

「お祝いするのが好きっていうか……鈴屋くんが大切だからだよ」

大切だから、祝いたいんだ。大切な人の特別な日を。

まろびでた言葉に、宇井ははっとする。これじゃあまるで、告白みたいじゃないか。

「いや、これは……その、大切なのは……大切なんだけど」
「本当、ですか?」
「え?」
「ぼくが大切だから、特別で、誕生日にお祝いしたい、ですか?」

食い入るような鈴屋の視線から、宇井は目をそらすことができなかった。
いつも肝心なことをはぐらかしがちな自分だが、これはわかる。これははぐらかしてはいけないところだ。
ちゃんと、自分の、心の、腹の底からの言葉を、伝えなければ。

「そうだよ。大切だから、誕生日は特別な日でお祝いしたいんだ……だから、まあ君からしたら天下の竜将の誕生日くらい知っておけって感じだったのかもしれないけれど……私としては事前に教えておいてほしかったってうわ……っ」

腕の中に飛び込んできた熱量に押され、宇井はソファの上に転がった。
宇井の上で寝転ぶ鈴屋が楽しそうに笑う。

「こーりさんにとって、ぼくは大切で特別なんですね」
「う……うん」
「……ぼくもですよ」

だからこーりさんと一緒にいるだけで、毎日が大切で特別なんです。
誕生日なんて忘れるくらいに。

宇井の耳が赤く染まる。
その染まった耳に、鈴屋が唇を寄せた。

「でも今日はいつもよりもっと特別なんですね」

――特別なこと、しましょうか。

宇井の足の間に膝を置きながら、鈴屋がそう、囁いた。


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2022/6/8に友人の有墨さんからいただきました!
本当にありがとうございました……!
じゅぞちゃん、みんなに愛されてるの知ってまた一歩幸せになれるといい……
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