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私は一つ溜め息を吐いた。
別にストレスとか気疲れとかそういう類いではなく、自分を落ち着かせる為だけの溜め息だ。
目の前に置いてある大きな氷の入ったお酒をカラン...とかき回した。
ふと顔を上げれば目の前にブランド物やマイナーなお酒が棚に所狭しと並んでいた。
少し視線を横にずらせば、マスターが形の美しいコップをキュッと磨いていた。
マスターもマスターで美しかった。
長い髪は一つに束ねられ、身体が細い割に筋肉はしっかり付いているように服の上から見えた。
彼の脇にはビリヤードのキューが置いてあり、趣味なのかなと私は無意味に考察する。
そのマスターと不意に目が合う。
その彼の顔は驚いたような顔だった。
私は思わずそのまま目を逸らした。
逸らした視界の端に東京の夜の風景が下に輝いて見えた。
見慣れぬ風景に心が踊った。
早く時が過ぎないかなとも思った。
今日、私がこんな高級なバーにいる理由。
それは大切な人との待ち合わせだった。
早く来すぎた。慣れない場所だから落ち着かない。
やはり、溜め息が出た。この場所には私とマスター二人きりだった。
階一つを占める大きな店の中でカウンター席に私が座り、マスターはただただコップを磨いていた。
二人は無言だった。それは私にとって有り難く思えた。
とにかく落ち着きたいのだ。私は。
そんな私たちの静寂を裂いた一人の客がいた。
店と直接繋がっているエレベーターを慣れたように降り、入店してくる。
マスターとも顔馴染みの顧客のようで軽く挨拶をしていた。
「お嬢さん、隣良いですか」
私かなと思ったが、この場に女なんて私しかいない。
横目で見れば気慣れたブランド物のスーツの男性が確かに身体を私の方へ向けていた。
どうぞ、と言葉では言わず無愛想に手で促した。
「どうも」
男性は私にそう言って隣に座る。
思ったより近い距離だった。少し身体を傾けただけでも触れてしまいそうだった。
そんな男性の香水であるだろう香りが私の鼻孔をくすぐった。ローズの上品な香りだった。
どこかで感じたことのある匂いだと思った。
私は男性の事が少し気になったが顔を見ることがなかなか出来なかった。
私は余計に落ち着かなくなって薬指のシルバーリングを少しいじった。
男性もマスターにお酒を頼んだ。シャンパンだった。
何かの祝い事かと思ったが、単なる好物のようだった。
「良くここへ来るんですか?」
男性はシャンパンを飲みながら私へ問う。
「いえ、バーだなんて初めてで」
どことなくその場を取り繕うようなl感じで私は答えた。
けれど嫌な気持ちではなかった。どちらかと言えばむしろその真逆と言っても良い。
男性の声で私はいつの間にか落ち着けていた。
低く滑らかな声。心にすんなり入り込んでくる、どこか妖艶な声だった。
私は男性に少しの興味が沸いた。それよ同時に男性の声をもっと聞きたいと思った。
「あなたはどうしてこちらに?」
私は震えてしまいそうな声を押さえて、呟くように言った。
「旧友と話をしに」
男性はマスターに目配せしたように首を動かした。
あと...と男性は言葉を付け加えて「初恋を探して」と言う。
初恋?と私は無意識に問いかけていた。問いかけなければいけないと感じていた。
そう、初恋です。と男性も繰り返し答えた。
気づけばマスターは辛そうな表情で男性を見つめている気がした。
「倉永 聖と言う子でね」
倉永 聖・・・。この名前が頭の何処かに必要に主張してくる。
けれど倉永なんて人は私の知り合いにいない。
マスターがポツリと呟くと、男性は私が反応するよりも早く彼を目で咎めた。
それを見て私はああ、仲が深いんだなあと感じる。それほど男性の行為は洗礼されていた。
男性は一気にシャンパンを飲み干した。
その様子の男性をやはり横目で見て、私は口を開いた。
「教えて頂けませんか、初恋を」
私は何を言っているのだろう。どうして男性の初恋のエピソードを聞きたるのだろう。
不可解にも、抽象的にも心の内を表現するのなら。
聞かなければいけない気がして。どこか男性の話は私の心に深く残る物があったからだ。
理由なんてそんなもの。
男性は驚いたように空気を吸い、静かに唸るように話出す。
「もう何十年も昔ですよ。中学生の頃、俺はこれでもテニス部部長や生徒会長をしていましてね。
忙しい中、それらの手伝いをしてくれた女がいたんです。それが俺の初恋で、俺の初めての恋人だった。
けれど突然、俺の前から居なくなった。学校からも、街からも。交通事故に遭ったみたいで。たった1度だけ見舞いに行ったんですがね。
そのまま引っ越したみたいです」
「あなたに何も言わずに、ですか」
「ああ。言えなかったんですよ。・・・記憶喪失、で、俺や皆のこと、綺麗に忘れて・・・。
両親も同時に亡くして。親戚に引き取られたんです。だから引っ越し」
「・・・あなたはその親戚の家に訪ねたんですか?」
「訪ねましたよ、そりゃあね。でも空き家だった。もう、姿を消した後だったんです。
もう探しようがなかった。だから俺は願い続けた。また恋人に会えるように。
らしくねぇがな」
男性の話を聞いて男性への印象がガラリと変わった。
もっと紳士で優しい物腰かと思えば、敬語を流暢に使ってもどこか荒々しさが目立ち、僕より“俺”の一人称がよく似合う。
語尾の所々に男性の強さを感じた。それはどんな長話でも人を惹き付けるような、そんな強さを。
私はそうなんですかと他に感想を言い様がなく、ここで初めて男性の顔を見上げた。
衝撃だった。
もっと年配で皺が目立ち始めた中年男性かと思いきや、私とそう歳は変わらないのか。
さらりと肌を撫でるような高貴のゴールドブラウンの髪。シルクのような白い肌。
綺麗に伸びた鼻筋に、長い睫毛、そして淡いブルーの瞳は私を見据えていた。
右目の泣きボクロがより男性の美しさを際立たせる。
そんな男性が私のほんの隣で、熱の籠らせた瞳でずっと私を見下ろしていた。
目が離せなかった。私は男性の全てに目が眩んだ。
私はこの男性を知っている。
けれど、分からない。胸にざわつきが広がる。鼓動がいつの間にか早まっている。
「やっぱりお嬢さんは聖に似ている」
「そう、なんですか。でも違いますよ。だって私の名前は」
「言うな」
男性にぴしゃりと言われ、私は咄嗟に口を閉ざした。
強く、強く。人に命令するような言葉はやはり私は聞いたことがあり、毎日のように触れていた気がした。
バーに静寂が戻った。また嫌な気分では無かったが、私は酷く動揺していた。
また私は薬指に存在するシルバーリングに触れ、落ち着きを取り戻そうとする。
マスターもまた私たちの気持ちを察するように、何も言わずコップを磨いていた。もう何個目のコップだろうか。
男性が不意にカクテルを頼む。二つ分。その一つは私のところへ回ってきた。
ピンクのカクテルに浸かったチェリーが迷路からどうしても抜け出せない私に見えた。
それをさっきの男性の様に一気に飲めば、身体にアルコールが走った。
酔う。
そんな私を男性は覗き込む。熱の籠った淡いブルーの瞳と視線が混ざり合う。
男性の顔はあまりにも近かった。初対面で出来上がる距離ではないと思った。
けれど私はやはり男性に対して嫌な想いはしないのだ。
それでも肩と肩は隙間のないくらいに密着して、男性に触れている部分が切なくて熱い。
それよりも私は男性の顔を見て何度酔っただろうと考えた。それは今夜だけのことではなく。
見つめたままの淡いブルーの瞳が私へ語りかけてくる。
なんと言っているのだろう。なぜだか目が離せないでいた。
そのまま吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。
淡いブルーはとても悲しそうに、けれど愛おしそうに、そして促すような視線を私に投げかける。
私はその視線の赴くままに言葉を滑らせた。
「どこかでお会いしたこと、ありますか」
私の声は思ったよりもその場に浸透した。
けれどマスターが驚きからか手を滑らせてコップを静かに割った。
耳に痛い音が響いても、私と男性は互いに見つめ会っていた。
すると男性は意地悪そうな笑みを浮かべて、身体を離した。
私はそのままの前のめりな体勢で目で男性を追った。やはり会った気がするのだ。
今男性がしている髪をかき上げる仕草も、先刻の笑みも、淡いブルーの瞳も、声も香りも。
なにもかも、一度ならず何度も会っている気がしてならなかった。
それでも私は男性のことを全く知らない。けれど身体が疼くのだ。
久しぶり、と。
脳が“知らない”と言うのに気持ちと身体が“知っている”と言う。
それは私にとって恐ろしくて怖かった。
胸が苦しくなる。痛くなる。
「さあな、会ったこと無いと思うが」
男性は私に微笑んだ。
優しく見守るような微笑みを。見ず知らずの女に向けて。
あれ。
私は目を擦った。
一瞬だけだが、男性がブルーのジャージを着ているように見えたのだ。
それはとても懐かしい香りがして、私の脳を甘く刺激する。
この笑みを私は断言できる。
一番好きだった笑みだ、と。
だったら可笑しいでしょう?男性の言う通り会っていなかったとしたら、どうしてこんな気持ちになるの。
アルコールのせい?こんなにもドキドキして、その感覚すらも懐かしくて。
ああ、気持ちが可笑しくなってしまいそう。
さっきから男性の全てが昔の薄れていた記憶に被り、ブレる。
気になる単語があった。
一つ、たった一つ。それが当たっておるようで、違うような。
けれど私の口がその一つを言いたがった。
私は男性を見た。男性も私を見た。
しばらく迷った。けれど私は勇気を出して言った。
「ぁ、あと、べくん?」
「ッ・・・!?」
私がそう言った瞬間に空気が凍る。
マスターは何故か泣き出していた。私は何故彼が泣いているのか見当もつかなかった。
男性は目を開いて驚いたまま固まっている。
ありえねぇ、とずっと呟いていた。
私は言わなきゃ良かったと後悔した。
でも確かに先程の単語は私の口に、心に古くから刻まれていた単語だった。
男性はそのまま目も合わせてくれず、力強く、吐き捨てるように言った。
「俺はそんな名じゃねぇよ、アン?」
その台詞を聞いてか私の目には涙が溜まっていた。
後悔からか、もらい泣きか、それともどうしても思い出せないからか。
男性に否定されてから、何も考えることが出来なかった。
それぐらいにショックだった。
一番信じていた期待が強い拒否という形で裏切られた。
涙がとうとう溢れ出した。ボロボロと。
どうしてか焦った。本気で焦った。
知っているのに、私はこの人を知っているのに。
思い出せない。
わからない。
開きかけていた蓋が閉ざされる。
ゆっくり、ゆっくり閉ざされる。
同時に、脳裏に浮かんでいた
恋人の笑顔も消えた。
さようなら。
もう、二度と思い出すことは無い。
幸せな記憶たちに。
悔しくて、情けなくて。
昔の感覚が愛しくて。
とめどなく涙が流れた。
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