Small cage
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「いってらっしゃい」
手作りの弁当を夫に持たせて、妻である私はそう言った。
ああ、行ってくる。決まってそう言うあなたのネクタイは曲がっていて、私は静かに直した。
昔はあった出掛けのキスはもう無くなっていて、私の心を落ち込ませた。
パタンと閉じられた玄関の扉に彼の余韻が残る。
私はそれを静かに掬って自分の胸へと収めた。
お手伝いさんなんていないこの家は、彼が出勤すると私を一人にした。
それは彼が二人でいたいから、と言って小さくて可愛いこの家を私に与えた。
だけど二人で住むにはやっぱり大きくて、私を虚しくさせる。
朝に食べたトーストやサラダが乗っていたお皿を二人分、私は冷たい水に手を晒して片付ける。
それからダイニングのお掃除。といってもほとんど汚れていなくてカタチだけの掃除で済ませた。
そういえば今日は天気が良いようだった、と思い出せば、毛布を干そうと寝室へと向かう。
扉を開けば一つのダブルベッドが私を迎える。
それは私を寂しくさせた。
あのベッドで愛を語り合い、身体を幾度となく重ね合ったのを今はもうしない。
いつの日かの夢になっていた。
そんな思いを剥ぎ取るように毛布をバルコニーへと干す。
ついでに洗濯物も干してしまおうとかごを取り出し、彼の背広の香りを求めれば、
洗剤の匂いしかしなくなっていて、彼が恋しくなった。
ふと遠くを見れば色々な形や色をした車が通り過ぎていて嫌になる。
私は喧騒が嫌い。
だから彼は気遣って、私をちっぽけな家に閉じ込めた。
小さな檻に閉じ込めた。
だけど、一人なのも嫌いなの。
あの中に、彼が埋もれているのかしら、そう思えば少しだけ妥協できる気がした。
一人の時間が私の中を空っぽにする。
特になにもすることがなくて彼の帰りを待つ日々は、私に不安ばかり与える。
気がつけば夕方になっていて。
何を思ったのか私はフラリと外へ出た。
今日も夜遅くまで帰ってこないのかな。ポソリと呟けば地面へ落ちた。
住んでいてもあまり見慣れない街を何も考えず歩き続けた。
そんな私の瞳には彼の背中が見えていた。
もちろんそれはただの幻影で。
もうどれだけ足を動かしたのだろう。久々に動かしている足は悲鳴をあげていて、私はその場にしゃがみこんだ。
「おい、大丈夫か」
私がいきなりしゃがみこんだものだから、後ろから声が降ってきた。
その声はどこか懐かしく思えて私は振り向いた。
その人を捉えた私は、心底驚いて声が裏返る。
「ぁッ、し、宍戸君?」
「ああ、なんだ。倉永か」
彼は完結にそう言うと、スーツ姿のまま私の隣へしゃがみこんで、顔を覗き込まれる。
どうした。体調が悪いのか、彼の言葉に私は首を横に振る。
彼は似たような質問を数回繰り返し、私はそれを全てNO、と答える。
そんな様子の私に彼は深い溜息をついて、最後にこう聞いた。
「跡部はどうした。一緒じゃねえのか」
私はその言葉に酷く反応した。
ドキリと私の心が呟く。
「仕事。多分、仕事」
「そうかあ、仕事か」
彼も呟き、私の頭をポンポンと叩くと立ち上がった。
彼も立派な社会人だと思った。
家まで送ってやろうか。彼がそう言った時、私の服のポケットの中で携帯が音を奏でた。
ワーグナーのクラシック。
それは彼しか鳴らすことのできない着信、携帯。
私は宍戸君に目配せしたあと、通話ボタンをカチリと押した。
耳元までそれを持っていくと、彼の言葉が飛び出した。
「おい、今どこにいるんだッ」
怒っているかと思って取った電話は、心配に満ちた声で私は拍子抜けした。
電話口の彼の声は息も切れ切れで弾んでいて。私はショックを受けた。
きっと息を切らしているのは私を探していたからで、心配に満ちた声はただ純粋に私を心配しているから。
それが酷くショックだった。
何も答えることの出来ない私の携帯を、となりから宍戸君がひったくる。
「おー、跡部。俺だ、宍戸亮だ。久しぶりだなー」
彼は何度か相槌をして、地名を口走った。
それは聞いたこともない地名。どこまで遠くに来たんだろうと空を見上げれば、星が輝き始めていて。
「おい、行くぞ」
「どこへ?」
「付いてくりゃ分かるさ」
彼は私に携帯を返しつつ、曖昧に答えて目で促した。
十分ほど歩いたほどか。小さな公園が見えた。
そこはどこか懐かしげで私を落ち着かせた。
彼は私を街灯下のベンチへ座らせると、ここで待っていれば奴が来るさ、と呟いた。
ありがとう、と口を唄わせば、彼はさみしそうに微笑んで、ポツリと呟いた。
「また、な」
「うん。また」
去っていく彼の背中は中学生の頃より大きくて、汚れていた。加齢臭もそろそろきそうで。
あの頃から何年経っているのだろう。いや、何十年か。
街灯が思いのほか眩しくて、私は俯く。押しをブラブラさせ、
早く来ないかな。と呟いた。と同時に心に過ぎったデジャヴ。
そういえば、この公園・・・。
足音が近づいてきて、ふと顔を上げれば、目の前に薔薇の花束が差し出されいて。
あの時はテニスラケット。その時、彼はこう言った。
「おら、つまらねえ顔してないでさっさと受け取れよ」
「け、景ちゃん?」
あの時の彼と、いま迎えに来てくれた彼が重なる。
アイスブルーのジャージは黒のスーツに変わって。あどけない表情は、立派な大人の表情に変わって。
そうして私は昔の私と同時に呟いた。
「ありがと。でも、どうして?」
ここからは私たちが創り出す新しい物語で。
彼と歩んできた人生が一気に溢れ出してきて。
「今日、結婚記念日だろ」
忘れたのかよ、アーン?と髪をかき上げる彼はそのままで。何気ない優しさも昔のままで。
私だけが変わっていったのかもしれない。
そう感じたほど。
彼は怒らなかった。勝手に檻から飛び出した私を。
彼から受け取った薔薇の赤から、私の人生を染色していく。
「忘れてた。ありがと、景ちゃん!」
昔の調子でそう答えて彼の胸へと顔を沈めれば、彼は私を優しく抱きとめた。
恋しかった香りがした。
汗の匂いが混ざっているのは私を必死に探してくれた証。鼓動が早まっているのは私を感じてくれている証。
私は、一人じゃなかった。
「ったく、心配させんなよ」
「景ちゃんを追ったら、そうなった」
「フン。だったらちゃんと着いてこい」
彼は私の唇にキスを落とした。それは慣れていて、だからこそ私の好きな所を知り尽くしていて。
私は彼と言う名の檻に捕まる。
「おかえり」
私を大切に思ってくれているあなたに。
「ただいま」
俺を必要としてくれている倉永に。
愛してるよ。
Fin. 2014/1/29