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第一部

 目を開ければ、見覚えのある木目の天井がおぼろに映る。そこに、ひとひらの花びらを見た気がして、マツリは手を伸ばした。けれど、それは指先がふれると光の粒となって消える。手が、宙をさまよった。そうして、そのままゆるりとおろそうとしたとき、あたたかなものに手を取られた。視界に、誰かの影が映る。

「マツリ」

 瞬きを繰り返し焦点を合わせようとするものの、なかなか思うようにいかない。それでも、その声には覚えがあった。

「コノマル?」

「俺もいるよ」

 ヤスノリだろう声とともに、再び視界に入ってくる人の影。それでも、やはりその顔をしかと認識することができない。この身体はそれほどまでに弱っていたのだと改めて知り、マツリは苦笑することしかできなかった。コノマルは泣いているのだろうか、頬にしずくが落ちてくる。重い身体を起こそうとすれば、ヤスノリのものと思しき手に背中を支えられた。

「まだ、あまり動かないほうがいい。目だって、よく見えてはいないんだろう?」

 そう忠告され、ふとマツリは目を伏せる。「そうだね」と、自嘲気味に笑った。

「怒られてしまったよ、人の世に肩入れをしすぎていると」

 一瞬、ヤスノリが口をつぐんだのを気配で感じる。けれども、コノマルにはその言葉の意味などわからないのだろう。マツリの手を握ったまま、鼻をぐずらせていた。ぼやけた視界に映る影と手に感じる温もりを頼りに、マツリはコノマルへと手を伸ばす。そうして、小さなその身体を抱きしめた。

「だけど、もう少しだけ、マツリでいさせて」

 霊獣の巫女ではなく、ミサカキマツリという一人の人間として。コノマルを抱いて呟いた言葉に、ヤスノリは果たして何を思っただろう。背中を支えていた手が、そっと頭に乗せられたのを感じて、マツリはひそりと涙をこぼした。

 マツリは、コノマルとヤスノリの正体を知っている。二人が南雲からやって来たということも、その目的も、風や森の木々が教えてくれた。だけれど、追われる身となり、もっとも信頼するヤスノリが瀕死の傷を負い、コノマルの心は疲弊しきっていた。コノマルに化けたヤスノリが殺されかけたとき、コノマルは霊獣の力を発現させることで追っ手を倒したが、それは恐怖からくる力の暴走でしかなかった。

 人を殺めたという真実を受け入れることもできず、記憶にふたをしてしまったコノマルに、正しく力を御しきれるとは思えない。だからこそ、マツリはコノマルが真実を受け入れて落ち着くまで、暴走する力を代わりに封じることに決めた。そしてそのために、霊獣の巫女としてではなく、ミサカキマツリという一人の人間として接してきた。けれど、そのことで本当に救われていたのは、あるいはマツリ自身だったのかもしれない。

「マツリ、粥ができたのだが食べられそうか?」

 ばたばたとあわただしい足音をたてて部屋へと駆けこんできたかと思うと、開口一番にコノマルが言った。思わず、マツリは目を瞬かせる。

「お粥? コノマルがつくったの?」

 未だ床から出られないながらも、上半身を起こして、そう問いかけていた。すると、コノマルは苦い顔で首を横に振る。

「いや、つくったのは小生ではない」

「俺だよ」

 コノマルの言葉を継ぐようにして、盆を持ったヤスノリが姿を見せた。

「粥ぐらいなら一人でもつくれるかと思ったんだけどね、コノマル様ときたら手当たりしだいに薬草を入れようとするからさ」

 そう肩をすくめたヤスノリの言葉に、コノマルは納得がいかないらしい。頬をふくらませて、じとりとヤスノリを見やった。

「薬草は薬になるのであろう。身体に良いものではないか」

 おおかた、粥をつくると張りきっていたコノマルを、ヤスノリが釜戸から遠ざけでもしたのだろう。コノマルの恨みがましい視線を受け、ヤスノリは吐息をこぼした。

「間違いではないけれどね、薬草からは毒もつくれるんだ。マツリみたいに薬草の知識があるならともかく、素人が何もわからないまま混ぜるのは危険なんだよ」

「なんと!」と、コノマルが飛びあがった。「なにゆえ、それを先に言わなかったのだ! その粥にはもう、いくつかの薬草が入っているのだぞ!」

 ヤスノリの持つ盆から粥の入っているだろう椀を奪おうとしてか、コノマルは腕をめいっぱいに伸ばして飛び跳ねる。そんなコノマルの手が届かぬよう、ヤスノリは盆を高く掲げ、またひとつ息を吐いた。

「落ち着いて、コノマル様。この粥に入っている薬草は毒にはならないよ。コノマル様が鍋に薬草を入れるところは俺も見てたんだから」

 それを聞くや否や、コノマルはぴたりと動きを止める。「む。そ、そうであったか」

 ほう、と。安堵の息を吐くコノマルと、三度目のため息を吐くヤスノリ。二人のそんなようすを見て、マツリは小さく笑った。

 コノマルとヤスノリを家に匿うようになってから、マツリの身の回りは賑やかになった。匿うようになってすぐのころはヤスノリの容態は油断ならないものであったし、コノマルは毎晩のようにうなされていたけれど、それでも、二人と出会う前の生活を思えば、マツリが胸に抱き続けてきた昏いそれにも光は差す。人でありながら霊獣の世で暮らし、ついには霊獣の巫女という役目を負い、人でも霊獣でもない存在となったマツリにとって、コノマルやヤスノリと過ごす時間はひどく心地よかった。人として他者とふれあえることそのものが、何よりも幸福だった。何も追及してこないヤスノリの気遣いに、いつまでも甘えていたいとさえ思った。けれど、それは誰のためにもならない。マツリは身体の調子がよくなるとともに、二人を部屋に呼んだ。

「急に改まってどうしたというのだ、マツリ。何か話があると言っていたが」

 夜半。月が空高く昇るころを待って部屋へと現れたコノマルは、武士らしくきっちりと背筋を伸ばして座敷に座り、マツリを見る。その少し後ろに控えるように座すのは、静かな面持ちのヤスノリだ。コノマルの瞳が不思議そうに瞬く一方で、ヤスノリの瞳はわずかな変化さえも見逃すまいとするかのように瞬きひとつしない。実に対照的な二人を前に、マツリは内心で苦笑をこぼした。けれど、それはおくびにも出さない。マツリは静かにこうべを垂れた。

「南雲の領主が次男コノマル様、そして、そのお付きがヤスノリ様。遥々、南雲の地より、ようこそいらしてくださいました。ここは東雲が最果て、かつて霊獣が生きた森にございます」

 コノマルが声も出ないといったようすで、目をまん丸にしている。突然のかしこまった態度におどろいたというのもあるのだろうが、それ以上にコノマルは自分たちの正体を知られていたという事実に言葉をなくしているようだった。それもそのはず、コノマルはこのことに関しては決して自らふれようとはしなかったし、マツリ自身もまたふれていない。コノマルがマツリに正体を気取られていないと思っていたとしても、無理はなかった。しかし、その反面で、微塵も動揺する素振りを見せない者もいる。鋭い眼差しで先をうながすヤスノリに応じるように、マツリは面をあげた。

「わたくしめは、この森に住まう者。人と霊獣との間に敷かれた境目。あなた方のさがしていた霊獣の巫女にございます」

 抑揚なく淡々と告げたマツリを見つめ、コノマルが呆けたように呟く。

「なんと――マツリが、小生らのさがしていた――」

「お二方は生死の境をさまよわれました。せめて容態が落ち着かれるまでと、黙っておりました。ご容赦ください」

 再び、深く頭をさげる。すると、それまで沈黙を守っていたヤスノリが口を開いた。

「生死の境をさまよったのは、あんたも同じなんじゃないのかい? ねえ、巫女さん」

「さようにございます。お二方にはご迷惑をおかけし、大変申し訳なく」

「迷惑など! そもそも最初に救ってくれたのは、マツリ、そなたではないか」

 当然のことをしたまでだといわんばかりのようすで、コノマルが声をあげる。三度、マツリは頭をさげた。しかして、それを見ていたヤスノリは不服そうに目を眇める。そして、それはコノマルも同じようであった。

「なにゆえ、そのような他人行儀なのだ。なにゆえ、急にそのような態度をするのだ」

 膝の上でこぶしを握りしめたコノマルはうつむいて、ふるえる声で訴える。

「小生が至らぬからか? 小生が至らぬゆえに、そなたに無理を強いてしまったからなのか?」

「そのようなことはございません。これは巫女としての務めにございます」

「しかし、先刻まではもっと」言い募るコノマルを、けれど、止めたのはヤスノリだった。

「コノマル様、落ち着いて。今は俺たちの目的を果たすべきだよ」

 先ほどまでの表情を消し去ったヤスノリの顔は、ほかならぬ忍のものとなっている。月光のように冷たく静かな光をたたえたその瞳を、ひたと見つめ返し、マツリは口を開いた。

「お二方の目的は存じあげております。コノマル様の出生を明らかにするべく、遥々いらしたのでございましたね」

「そのとおりだ、話が早くて助かるよ」薄く笑いながらも、ヤスノリの眼光の鋭さは鈍らない。「単刀直入に聞くよ。コノマル様はどうして南雲に――この人の世に落ちてきたんだい?」

 すでにヤスノリは、コノマルが人ならざる者であることを確信しているのだろう。どこからとは口にこそしなかったものの、コノマルが霊獣の世に生まれたことを前提として問いかけてくる。そして、紛れもなくそれが事実であるということを、マツリはよく知っていた。

 結論から言うのであれば、コノマルは霊獣の世から落とされたのである。

「なぜ、コノマル様は落とされた?」

「霊獣に見初められた娘の子であったからでございます」

 異なる世に生きながら、人間の娘を見初めたのは「風狸」と呼ばれる霊獣だった。風狸は風を操り、また、化かすことに関しては九尾狐にも勝る力をもつ。見初めた娘を惑わし、誰にも知られぬよう霊獣の世へ迎え入れることなど、造作もないことだった。しかし、その風狸はまだ霊獣の中でも年若く、人の身体が霊獣の世で生きるには適さないものであることを知らなかった。娘は風狸の子を身ごもったものの、霊獣の世で生き続けることは適わず、子を産むとともに命を落とした。風狸は娘の死を、ひどく嘆いた。自らも娘の後を追い、そして、それをきっかけにようやく霊獣たちの間に事実が知れ渡ったのである。

「残された赤子は霊獣の子であれど、人の子でもあります。霊獣たちが望んだのは、赤子の追放でございました。ゆえに、その赤子は南雲へと落とされた――否、正しくは落としたのです。このわたくしめが」

 マツリは膝の上で重ねた手を見つめ、目を眇めた。今でも、マツリは覚えている。その腕に抱いた罪なき無垢な赤子のことを。これから何をされるのかも知らず、マツリの指を握り、無邪気に笑っていた赤子の声を、その手のぬくもりを。

「なるほどね」

 黙したコノマルに代わるかのようにして、ヤスノリが相槌を打つ。「ところで、狸といえば何かしら狐と縁がある。九尾狐の血を引く俺たちがいる南雲に落としたのは、あんたの計らいだったりするのかい」

 刹那、マツリは息をすることも忘れた。けれど、すぐに薄く笑み、ゆるりと顔をあげる。

「さて、どうであったでしょうか」

「ふうん、巫女さんはコノマル様と違って食えないお方のようだね」

 肩をすくめたヤスノリの隣で、コノマルは怪訝そうな顔をしていた。しかし、自身の出生にまつわる話を聞き終えたコノマルは、やがて長らく閉ざしていた口を開く。

「つまり、小生は風狸なる霊獣の血を引いた存在であるのだな?」

「間違いございません」

 マツリは静かにうなずいて見せた。すると、コノマルはいつになく淡々とした口調で言う。

「小生が人ならざる者であること、それを確かめるためだけに小生らはそなたを探していた。答えを得た今となっては、霊獣の巫女殿に用はござらぬ」

 コノマルやヤスノリが東雲を訪れたのは、このことを知るためにほかならない。誰に言われずとも、マツリはそれを理解していた。だからこそ、マツリは目を閉じ、ただその言葉を聞いていた。ところが、コノマルは言った。

「ゆえに、そろそろマツリに戻ってはくれまいか」

 弾かれるように、マツリはコノマルを見ていた。その瞳には、無邪気な光が宿っている。隣に座すヤスノリもまた口の端をつりあげ、事態を静観している――

「そなたが霊獣の巫女であろうとも、マツリという一人の人間であることに変わりはないのであろう? 今の小生は巫女殿ではなく、マツリという娘に用があるのだ」

 マツリはすべてを理解した。霊獣の巫女として対応したマツリを不服そうに見ていたヤスノリが、あっさりと引きさがった理由。ヤスノリにたしなめられ、コノマルが口を閉ざしていた意図。それは、

「困ったね。そんなに私を巫女でいさせたくないのかな、おふたりさんは」

 苦く笑いをこぼせば、二人は示し合わせたかのような笑みで応える。けれど、二人の思惑に何よりも救われていたのは、マツリ自身にほかならなかったのだ。

 コノマルとヤスノリが南雲へ帰るまでの間、マツリは霊獣の巫女としてではなく、ミサカキマツリという一人の人間の娘としての時間を過ごした。三人で数少ない冬のたくわえを分け合い、他愛のない言葉を交わし合った。短くとも、それは笑顔の絶えない日々だった。

 だからこそ、マツリは自身の在りかたを決めかねてしまった。

 冬とともに二人が東雲を去り、タツマルが夜な夜な森で泣くようになったとき、マツリは“どちら”の顔をして会うべきなのかがわからなかった。巫女になりきれず、自分自身にもなりきれず、それでも親恋しさに泣く子を放っておくことができなかった。

 マツリからすれば、きっと、それは過ちだった。マツリは巫女として出会い、巫女として接し続けるべきだった。それは、タツマルに限ったことではなく。すべてのものに対して、最初から霊獣の巫女として、ふれるべきだった。そうして、早急に、与えられていた、ただひとつの決断をするべきだった――

 季節は流れ、時は再び今に戻る。

 タツマルが毒を盛られたことを知り、カガミハラにはシノが急ぎ戻っていた。このとき、マツリはシノが霊獣の力を扱えるようになっていることをその目で確認し、自身の役目が終わるのを感じた。マツリは巫女としての仮面をまとい、シノと言葉を交わすことなく、カガミハラの屋敷を去った。

 そして、奇しくもその頃合いで、マツリが暮らす森を訪れる者があった。これまで、鳥や獣を使った文のやりとりはしていたものの、会うのは数年ぶりになる南雲からの客人だった。客人はかつてマツリと会ったときよりもさらに大人び、今や単身でこの地を訪れることができる力を身につけていた。

「悪いことは言わない。あんたはもう、ここを去ったほうがいい」

 南雲からの客人、ヤスノリは険しい顔をして言った。

「直に、この森は焼き払われる」

 家の裏手で日陰干ししていた花の砂糖菓子の具合を見ながら、マツリは「そうだね」と、うなずいた。

「東雲の領主は霊獣の力を欲している。文字通り、この森から霊獣を炙り出そうと考えているようだから」

 たちまち、ヤスノリは解せぬと顔を歪める。「わかっているなら、どうして」

 その問いを受けて、マツリはヤスノリを振り返った。

「私は霊獣の巫女。霊獣の世へ繋がる鍵は、この身のうちにあり。奪われるくらいならば、この身ごと燃えて尽きましょう」

 微笑し、マツリはひとつの菓子を指で摘まみあげる。

「それより、砂糖菓子でもどうかな」

「遠慮しておくよ。時間がないのでね」

 すげないヤスノリの返答も、マツリには気にならなかった。「そう」日陰干ししていた花の菓子を布に包みながら、短い相づちを返す。だけれど、ヤスノリがその場を立ち去ろうとする気配はない。

「あんたは、それでいいのかい」

 と、ヤスノリは言葉を重ねた。

「霊獣の巫女じゃない――ミサカキマツリは、それでいいのかい」

 その声色は、少しいらだっているようにも聞こえる。隠しきれずににじみ出る客人のそれが、何に向けられているものなのかなど、わざわざ考えるまでもなかった。それでも、マツリには、ヤスノリの案に応じるつもりはない。

「ミサカキマツリは、死んでしまったよ」

 もうずいぶんと前に、人の世と霊獣の世とを隔てる境の役割を負ったそのときに――

「そらできた。あの子のお土産に持って帰るといい」

 ヤスノリを振り返ることなく言い、マツリは紅色の布に包んだ砂糖菓子を、手ごろな石の上に置く。しばしの、沈黙があった。やがて、ヤスノリは呟くように言う。「ああ――そうするよ」

 森の落ち葉を踏みしめる、その足音を、マツリはただ背中で聞いていた。
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