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大正二十七年、二月某日。

 ベッドに広げた千代紙を、チヨコが熱心に折りこんでいる。白く細い指先が折りあげるのは、一見して何をかたどっているのかわからない代物であった。しいていうのであれば、矢羽のように見えなくもないのだが、キョウヤはこんな奇妙な折り紙を知らない。チヨコの膝の上に、いくつものせられたそれらを見つめ、静かに部屋のドアを閉めた。

「今日は何を作っているんだい」

 椅子に腰かけて問いかければ、今日は幾分か顔色の良いチヨコがあどけなく笑う。

「チヨの好きなお花」

「おチヨの好きな花?」

 けれど、チヨコの折っているそれらは、とても花のカタチをしているようには見えない。まじまじとキョウヤが見つめる先で、チヨコの指がひとつ、ふたつと折り紙をつまみあげた。そして、五つほどを空いた手のひらの上へ置いたかと思うと、それらを放射状に並べてゆく。

「これは、そうか。桜だったのか」

 白い手に咲いた五弁の花を見て言えば、チヨコは満足そうにうなずいた。普段、花を好んで折るチヨコにしては珍しいものを作っていると思ったのだが、どうやら常と変わらないらしい。キョウヤは、ひっそりと笑った。

 未だ折られていない数枚の千代紙をふくめ、これらはキョウヤと友人のトシヒコとでチヨコの誕生日に合わせて贈ったものだった。自分の名前とよく似た、色とりどりのそれをチヨコが欲しがるようになったのは、ちょうど昨年の今ごろ。ハルオミの客人が忘れていった千代紙を目にしてからだった。

 もっとも、キョウヤはチヨコの口から「これが欲しい」と、直接ねだられたわけではない。ただ、チヨコのまなざしが、あんまり熱心に、きらきらとして、千代紙へと向けられていたものだから、ひどく印象に残った。折り紙であれば、齢五つを数えたばかりのチヨコでも、ひとりで遊ぶことができる。ベッドの上で過ごすことの多いチヨコにとっては、ちょうどいい暇つぶしになるだろうと思ったのだ。

 初めこそ、「もったいないから」と言って眺めるだけだったチヨコも、このところは毎日のように紙を折っている。以前、どういう心境の変化かと問うたところ、新聞の切れ端で折った花が、あまりきれいに思えなかったからだという答えが返った。黒いインキで印字されただけの新聞では、目にあでやかな花を折れるはずもないのだけれど、苦労して折った分、チヨコはこれが残念でならなかったのだろう。色鮮やかな千代紙で折ったのなら、きっとうつくしい花になると考え、大切にしまっていたそれらを小さなつづらから取り出した――かくして、チヨコはこの紙の花のとりことなったのである。

 枕もとに置かれたつづらの中に入っているだろう紙の花々を思いながら、キョウヤは膝に頬杖をつく。黙々と、また別の花を折り始めたチヨコを、おだやかな気持ちで見つめる。

「おチヨ、もうじきに誕生日だろう。今年は何をあげようか」

 キョウヤは言った。今年からおチヨも尋常小学校へ通うようになるだろ、節目のお祝いも兼ねて少し奮発したっていいんだよ――

 紙を折っていた、チヨコの手が止まる。

「……チヨ、自転車が欲しいな」

「自転車だって?」

 キョウヤは思わず、声をひっくり返した。

「あれはいくら安くたって、五十円はするじゃないか」

 五十円といったら、たしか、帝国大学を卒業したような大人が、ひと月かけて稼ぐくらいの金額だ。キョウヤやトシヒコのような中学生の持ち合わせで買える代物ではない。

 このご時世、名家であるからといって、金銭的な余裕があるとは限らないのだ。モノベ家は違うけれど、家の体裁を守るため、借財まみれになるところも少なくはない。

 サガラ家に養女として引き取られ、モノベの屋敷で世話になっているチヨコとて、そこは理解しているのだろう。金のことを考えるなんてはしたないと言われるものだけれど、チヨコはもともとが令嬢であったわけでもない。いたたまれなさにか、肩をちぢこめてうつむいた。「だって」と、口をもごもごさせる。

「チヨは走れないんだもの。自転車に乗ったら、誰でも、うんと速く走れるのでしょ」

「それはそうだけれど」

 眉間に指を押し当て、キョウヤはうなった。たしかに、身体が弱いばっかりに、ろくに外へも行かれないチヨコからしたのなら、自転車というものは、とても魅力的であるかもしれない。乗りものといえど、あれは自分の足でこぐ必要があるし、身体全体で風を感じることもできる。チヨコが移動するときに使っている車や電車とは、てんで違うのだ。幼児用の三輪車ならば、あるいはといったところだが、走る速さはうんと遅くなってしまう。

 誰の力も借りず、自分一人の力で物事を成し遂げたい。きっと、チヨコはそう思っているのだろう。もともとが名家の生まれならばともかくとして、生まれが異なるチヨコの願いは、もっともなことだ。積極的に社会へと出て働く職業婦人というものも、今やそう珍しくはない。時代の流れなのだ。

 けれども、それとこれとは、また別の問題になってくる。奮発してもいいとは言ったけれど、限度というものがあるし、何より――

 チヨコをさとそうと、キョウヤは口を開いた。

「いいかい、おチヨ。きみだって、ちゃあんと一人の力でやっているんだ。食事をしたり、薬を飲んだりするのは、みんな、きみ自身の力だ。ほかの誰の力でもない」

 そうだろう、と返事をうながす。そうやって命を絶やさないということは、走るなんてことよりも、よっぽどチヨコにとって価値あることだ。熱でもだそうものなら、チヨコの命は風前のともしびも同然。キョウヤだって生きている心地がしなくなる。しかし、チヨコの表情はかたくなだった。

「でも、誰だってそれくらいしてる」

 ふるえる唇から紡がれた言葉に、キョウヤは首をかしげた。たまゆら、チヨコは何を言っているのだろうと考えた。「誰だって、って」と、ひとつ瞬きをする。

「そりゃあきみ、当然だろう。そうしたら、走ることだって同じじゃあないか」

 すると、チヨコはか細く言った。

「違うよ」

「違わないさ」

 かんでふくめるように、キョウヤは返した。

「走るということは、何もそんなに特別なことじゃあない」

 自転車に乗っていようといなかろうと、走ることくらい誰だってしている。チヨコだって、いつも窓から見ているはずだ。新聞配達のシュウジなんて、走っていないほうが珍しいほどである。

 だのに、なおもチヨコはかぶりを振った。違う違うのだと、まるで泣いているような声だった。

「おチヨ?」いよいよ、キョウヤも何かがおかしいと思い始めた。「一体、何が違うって」

 問おうとしたキョウヤの周囲で、ふいに力の乱れが発生する。チヨコだった。

「キョウヤには、わからない!」

 サイドテーブルの上で、花瓶が割れた。ガタガタと、部屋の調度品が小刻みに揺れる。チヨコから発せられる感情が、荒波のようにのたうつ。

「だめだ、おチヨ! 落ち着くんだ!」

 キョウヤが立ちあがって叫んだとたん、突風が吹いた。臙脂のカーテンが、大きくひるがえる。異能の力が、チヨコの感情と同調して荒れ狂う。キョウヤはとっさに眼前へと手をかざし、不可視の力で壁を作った。目には見えない風の刃が、部屋の壁を走り、カーテンを切り裂く。事象の中心にいるチヨコは、苦しそうに背を丸めた。自らの身体をかき抱いた両の指先はより白く、血の気が失せるほどに力がこめられている。

 おチヨ、と。もう一度、その名前を呼ぼうと口を開きかける。キョウヤの視界に、影が落ちた。忽然と現れた男が一人、キョウヤとチヨコとの間に立っている。火のついたタバコをくわえたそれは、キョウヤもよく知る人物だった。

「ハルオミさん」

 キョウヤが助手をしている探偵社の所長であり、姓はノグチ。ひょうひょうとしていて、神出鬼没な男であるが、後者に関しては彼がもつ超異能力に由来する。瞬間移動とでも呼べばいいのか。瞬時に離れた場所へ移動する異能を得意とするハルオミは、こうして、前ぶれもなくキョウヤの前に現れることがたびたびあった。

「おチヨを、チヨコを止めてやってください。このままじゃあ、チヨコが死んでしまう」

「わかってるさ。そのために、遥々フルーツパーラーから飛んできたんだ」

 タバコをふかしながら、ハルオミは言った。「今ごろ、トシヒコの奴があわてて勘定をすませているだろうよ」

 緊張感のかけらもなく、くつくつと喉で笑う。そのとき、ハルオミのくわえていたタバコの先端が、風に切り落とされた。赤いビロードの絨毯に火が落ちる。瞬く間に、絨毯よりも鮮烈な炎が燃え広がった。肌を焦がすような熱気と、なにかの焼ける臭いが、部屋に充満する。チヨコの、息をのむ気配がした。風の勢いが、弱くなる。

「サガラチヨコ」

 火の海にたたずむハルオミの声が、静かにチヨコの名を呼んだ。怯えるように、チヨコの肩がはねる。けれど、目深にかぶった「チューリップ帽」なる奇妙な帽子の下、のぞくハルオミの双眸はただただ無感動だった。

「きみは、また、繰り返してしまったようだね」

 ひと言、ひと言、言いふくめるようにして、ハルオミは言葉を紡ぐ。なぶるような熱風にあおられる髪や羽織りなど、まるで気にもとまらないといった風体で、そのまなざしはチヨコだけをとらえている。

 いつしか、部屋を成していた壁や天井は姿を消していた。炎の中には、ベッドに座るチヨコと、相対するハルオミ、そして、キョウヤの姿しかない。チヨコの細い肩が、浅い呼吸を繰り返す。ふつふつと瞳に浮かびあがってくるのは、深い恐怖と、

「ハルオミさん――」

 それ以上はやめてやってほしい。ハルオミの背に懇願しかけたキョウヤを、けれど、肩をつかんで止める手があった。友人の、カザマトシヒコだった。

 フルーツパーラーから、ハルオミを追いかけてきたのだろう。トシヒコは肩で息をしながら、鋭くキョウヤを見つめ、かぶりを振る。チヨコを止めたいんだろう。言外にさとされ、キョウヤはこぶしを握った。果たして、ハルオミは続けた。

「今度は一体、どれだけを焼き殺せば気がすむんだい?」

 ちがう。青ざめたチヨコの唇が、かすかに動いた。チヨは何もしてない――

 胸をあえがせるチヨコの目は、もはや焦点も合わない。うつろなまなざしに、キョウヤは息が詰まる思いだった。支えきることさえ困難となった身体が、ベッドに崩れ落ちる。ふつりと、吹き荒れていた風がやんだ。それに続いて、キョウヤの視界を覆っていた炎もまた、音もなく消え去る。先ほどまでの光景が、まるで夢であったかのように、あとには熱気ひとつとして残らない。モノベ邸にあるチヨコの部屋には、割れた花瓶と、刻まれたカーテン、そして、絨毯を小さく焦がしたタバコの先端だけが残っていた。

 平民の生まれであり、サガラ家の養女として引き取られたチヨコが、今このモノベ邸にて暮らしているのには、やむにやまれぬ事情がある。そのひとつが、今回チヨコが起こした超異能力の暴走であった。

 別に、チヨコだけに限った話ではないのだが、彼女には常人がもちえない異能の力がある。それは、自分とは異なるさまざまな存在と心を通わせることで、その相手の力を「借りる」というものであった。鳥と通い合えば翼を得て、魚と通い合えばひれを得る。さらには、異能をもつ者と通い合えば、その異能の力さえをも得てしまう。幼くして、この異能を発現させたチヨコは、力の扱い方を知らなかった。ましてや、生まれつき身体の弱かった彼女は、自身で力を抑えることが困難であった。それでありながら、チヨコはそうと知らず、他の異能をもつ者と通い合ってしまった――

 チヨコの生家が、火事で焼け落ちたのは、彼女が三つになった年のこと。そしてこの際、偶然にも居合わせていたハルオミの調べで、チヨコが異能をもっていると判明したのである。

 しかしながら、異能の力というものは一般大衆には知らされておらず、チヨコのように自らの異能を制御できない存在は危険極まりなかった。そこで帝国議会は、異能の存在を知るサガラ家の養女としてチヨコを迎え入れ、同じく異能をもって生まれたキョウヤを抱えるモノベの家へと託した。幸い、モノベ邸は帝都トウキョウにあり、ハルオミがいる探偵社もまた近くにある。もともと、幼い超異能力者の指導をしていたハルオミは、帝国からの要請により、チヨコの監視もするようになった。

 ハルオミはしばし、ベッドに寝かせたチヨコをぼんやりと見つめていた。どこか、思案しているようにも見える。しかし、だからといって何を言うわけでもなかった。キョウヤとトシヒコをともなって部屋を出れば、短くなったタバコをくわえたまま、手で懐をさぐる。新しいタバコをさがしているのだろう。彼はずいぶんな愛煙家であるから、助手なんてものをしていれば、そんな仕草は日に何度も見る。すかさず、キョウヤは口を開いた。「タバコなら、バルコニーでお願いします」

 振り返ったハルオミは、不満げに鼻を鳴らした。

「いいじゃあないか。チヨコの命を救ってやったろう」

「父はタバコの煙を嫌います。ご存知でしょう」

「まったく、モノベの連中は口うるさいなあ」

 しらけたといわんばかりのようすで、ハルオミが肩をすくめる。キョウヤとトシヒコの、ため息が重なった。

「それにしたって」と、トシヒコの目がいぶかしむようにキョウヤへと移る。「一体、何があったんだ。ここのところは落ち着いていただろう」

 改めてチヨコのことを問われ、キョウヤ自身もまた困惑した。正直、キョウヤにもわからないのだ。今日は朝から悪夢にうなされていたようすなどはなく、身体の調子だって良かった。チヨコがこんな風に、会話の途中で超異能力を暴走させるなど、初めてのことだった。まるで、癇癪でも起こしたかのようだと、そう思う。

「それなのだけれど」

 ためらいがちに言いかけたところで、「ああ!」と、ハルオミが大きな声をあげた。何事かと振り向けば、にんまりとした笑みがある。

「きみたち、ちょいと、ひとっ走りしてきてくれないか。タバコを切らしてしまったようでね」

 正直にいうのならば、とてもそんなことをしている気分ではなかった。超異能力を暴走させてしまったチヨコのことが、何より気がかりでならなかった。だが、探偵助手である手前、キョウヤとトシヒコにはこれを断ることもできない。

 結局、ハルオミに言いつけられるがまま、キョウヤはトシヒコとともに屋敷を出た。タバコ屋へと向かう道すがら、キョウヤはチヨコとのことをトシヒコに話す。隣を歩くトシヒコは、しばらく、気のないような相づちを打って話を聞いていたが、キョウヤの話が終わるや否や、短くこう言った。

「それは、おまえが悪い」

「どうして」

「キョウヤは、チヨコの気持ちがわかっていない。俺たちにとって当たり前のことも、チヨコにとっては当たり前じゃあないんだ」

 うろんな目に、わずか非難めいた色をにじませて、トシヒコは言った。

「赤ん坊のころ、おまえは生きるために乳を飲むことくらいはできていただろうが、走ることはできなかったろう。でも、今はできる。それは何かのきっかけで、キョウヤが走ることを知って、自分も走りたいと望んだからだ」

 チヨコも同じなのだと、トシヒコは続ける。走ることを知って走りたいと思ったんだ、できないことをできるようになりたいとただそう望んでいる、背伸びをしたいだけなんだ――

 つまり、チヨコがひどく感情を乱したのは、自転車が手に入らないからではない。キョウヤが、チヨコにはできないことを「誰にでもできること」と、ひとくくりにしたからだというのだ。

「けれど、おチヨは誰だってと言ったんだ」

「ほとんど屋敷から出られないチヨコが、一般大衆のことを語れると思うのか」

 チヨコは手に入らないものを望んで、聞き分けのない駄々をこねるような娘ではない。むしろ、自分の望みをひた隠しにしてでも、他を優先しようとする節さえある。トシヒコの言うとおりであるというのならば、なるほど、キョウヤも合点がいく。

 そうこうしているうちに、最寄りのタバコ屋へと着いた。日にきらきらと光るガラスケースへ歩み寄り、トシヒコは陳列されているタバコの銘柄を確認する。

「シルバーバレットを二箱」

 店の看板娘であるハナコに声をかけると、その断髪がおどった。

「あら、探偵さんとこの」

「いつもお世話になっています」

「いやあね、それはこっちの台詞だわ。うちは探偵さんのおかげでどうにかなってるようなものだもの」

 ころころと笑うハナコに愛想もなく会釈だけを返し、トシヒコはてきぱきと勘定をすませていく。ハナコも慣れた手つきで二箱のタバコを出すと、頬杖をついた。

「安くもないのに、こんな風変わりなタバコをたくさん買ってくださるのは、探偵さんくらいよ」

「そうでしょうね」

 静かに応じながら、トシヒコがタバコの箱を受け取る。ふと、キョウヤはトシヒコがこの銘柄のタバコをいっとう嫌っていたのを思い出した。以前、このタバコのにおいは特に鼻がもげそうだと、そうこぼしていたことがある。探偵社に住みこみで働いているというのに、トシヒコはいつまで経っても、このにおいに慣れない。

「今度は三人でいらしてよ。探偵さん、近ごろはちっとも顔を見せにきてくれないのだもの」

 頬をふくらませ、むくれてみせるハナコには「伝えておきます」と返事をして、モノベ邸への道を引き返す。「きっとよ」念を押すハナコの声を背に、キョウヤもトシヒコも黙ったままだった。

 途中、先を歩いていたトシヒコが人気のない路地へと入りこんだ。誰にも聞かれず話をしたいのだろう。そう見当をつけて、キョウヤもあとに続けば、すぐにトシヒコの足が止まった。

「それでおまえ、どうして金がないからと言ってやらなかったんだ」

 キョウヤと向かい合ったトシヒコの口から出てきたのは、案の定、チヨコの話だった。

「大体、幼児用の三輪車ならばともかく、チヨコに自転車はまだ早い。あれを走らせるのには、それなりの力と練習がいるぞ」

「そんなことを言ったら、おチヨをがっかりさせてしまうだろ」

「がっかりさせるのと、チヨコの身体に負担をかけるのと、どっちがいいんだ」

 思わず、言葉に詰まった。トシヒコの言い分は、もっともであった。こんなことになるのなら、変にはぐらかさず、きちんと言ってやればよかったのだ。そうしていたら、チヨコだって、きっとわかってくれるはずだった。

 だけれど、キョウヤの胸のうちには、苦みばしった気持ちが広がる。気に入らないと、おもしろくないと、そう思う。

「僕のほうが、おチヨのそばにいるのに」

「それなら、おまえもチヨコと同じだ」

 トシヒコが、かすかに口の端をつりあげた。

「背伸びをしたいんだろ」

 ますます、おもしろくない。キョウヤは、トシヒコの手からタバコの箱をひとつ奪った。引き抜いた一本を口にくわえる。明らかに迷惑そうな顔をしたトシヒコへ箱を投げ渡すと、キョウヤはタバコの先端を両手で覆った。隠した右手の指先に異能の火をともして、タバコの煙を吸いこむ。そうして、キョウヤはむせた。

「馬鹿だな」

 呆れたようすのトシヒコが、キョウヤの手からタバコを取りあげた。

「タバコの煙は口で楽しむんだ。肺にまで入れるようなものじゃあない」

「吸ったこともないくせに」

「俺は吸わないが、ハルオミさんがいつも吸っている。吸い方くらい嫌でも覚えるさ」

 しゃあしゃあと言い、キョウヤから奪ったタバコを手の中で燃やす。甘いような苦いような、タバコ独特のにおいが煙となって、辺りに立ちこめた。くらくらとする頭を振る。

「ハルオミさんも、酔狂な人だ。そんなものの何が良いのか、僕にはわからない」

「それには同意しておく」

 今にも鼻をつまみそうなトシヒコのしかめっつらを見て、キョウヤは少しだけ、気分が晴れたような気がした。空気のよどんだ道で話していたせいだろう。まとわりついて離れない煙を、トシヒコが手で払っている。ここにトシヒコをおいて、先に屋敷へ戻ってやろうか。キョウヤが足を踏みだすと、けれど、なおもトシヒコが言った。

「ただ、おまえは勘違いをしている」

「僕が?」返す声に、今度は少しの苛立ちがまじった。「一体、何を?」

 声色の変化に気づけないほど、キョウヤとトシヒコの付き合いは短くない。しかして、トシヒコの口調は常のように淡々としていた。

「チヨコは怒ったのじゃあない。傷ついたんだ」

 いつもそばにいてくれる相手に、自分の気持ちが伝わらなかった。そのことを嘆いたのだと。

「おそらく、おまえならわかってくれると、そう期待していたのだろうな」

 帽子のつばを押しあげ、トシヒコが薄く笑う。長い付き合いなんだろう、それこそ俺よりもずっと――

「トシヒコ、おまえ」

「さて」と、トンビがひるがえった。風が紫煙をけちらし、トシヒコは学帽をかぶりなおす。「そろそろ戻るぞ。ハルオミさんを放っておくと、面倒だ」

 背を向けて歩きだすトシヒコは、常となんら変わらない。怒りはおろか、ほんのわずかな苛立ちさえも感じられない。唐突に、キョウヤは自身がもつ器量の狭さを痛感した。たかだか数歩で追いつくだろう距離にあるはずの背が、ひどく遠く感じられる。

「キョウヤ」

 いつまでも動かないキョウヤをいぶかったのだろう。足を止めて振り返った友の姿に、思わず目を落とした。

「悪かったよ」

 髪をかきむしり、キョウヤはぼそぼそと言った。「少し、意地の悪いことをした」

 しばしの沈黙。ふと、トシヒコの笑う気配がした。

「俺よりも、チヨコに言ってやるんだな」

 変わらぬ友の態度に安堵するようで、キョウヤはその器の大きさを思っては複雑な気持ちになった。
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