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第一部

 真白く染まった大地に散る、朱。椿の花のような、見事な色だった。その上に立つ、いくつかの人影もまた、その身のところどころに朱を散らしている。人影らは輪をつくり、膝をついた誰かを囲んでいた。あれは誰だろうかと、目を凝らす。そのとき、人影の一人が声を発した。

「これは南雲に戦を仕掛ける良い口実となる」

 すると、もうひとつの影が続く。

「南雲の民は妙な術を使うぞ」

「捕らえた連中は、一人残らず煙か霞のようになって消え失せた」

 また、別の影が言った。

「では、どうする」

「証拠を消される前に、首を討ち取れ」

 その言葉に、胸の内がざわついた。この者たちは、一体誰の首を取ろうとしているのか。知りたいと思った。反面で、知りたくないとも思った。けれど、奇しくも刀を手にした人影が円の中心に進み出たことで、膝をついていた人物が顔をあげる。それは、見紛うはずもない己の――コノマル自身のものだった。

 ――これでいいのか。

 呆然とするコノマルの頭の中で、声が響いた。覚えのない声だった。しかして、声はコノマルに語りかける。このままでいいのかと、恐ろしくはないのかと――これより先は死あるのみと。

 コノマルの頭は、大地のように真白に染まる。そこに、「死」という言葉が鮮烈な朱を散らした。死とはなんだ。問うコノマルの声に、声は失うことだと答えた。失うとはなんだ、なくなることだ、なくなるとはなんだ、在ったものが消え二度と戻らなくなることだ――

 嫌だ。コノマルは思った。消えてしまうのも二度と戻らないのも嫌だと、心の底から思った。死は嫌だ、死はならぬ、小生は、

「コノマル」

 ふいに、名前を呼ばれる。気がつけば、コノマルは女の腕の中にいた。辺りに広がるのは薄暗い闇であって、眩いほどの白もそれに映える朱も見当たらない。思わず、目を瞬かせるコノマルの頬を冷たいものが伝った。それが自身の涙であると気づくと同時、無意識の内に強張らせていた身体から力が抜ける。

「すまぬ、マツリ」

 己を強くかき抱いている娘の名を口にする。もう大丈夫だと、コノマルがそう続けるよりも先、マツリの指が髪をすいた。

「また、夢をみたの?」

 その問いかけに、コノマルは答えることができなかった。夢の光景を思い出すだけで、言い知れない不安と恐れに胸がつぶされてしまいそうになる。コノマルは唇を引き結び、マツリにすがりついて、その着物をきつく握った。それだけで、マツリはすべてを察してくれた。

「そう」と、小さく呟いて、マツリはコノマルの背をあやすように叩く。堰を切ったように、涙があふれた。

 だのに、コノマルにはわからない。自分がどうして泣いているのか。どうしてこんなにも不安な思いに駆られるのか。マツリに命を救われてから、毎夜のごとく繰り返しみるこの夢が、一体何を示しているのかさえもわからない。コノマルには、ただ声を押し殺して、マツリの腕の中で泣くことしかできなかった。

 いつも相談相手になっていたヤスノリは病床にあり、要らぬ心配をかけたくはない。けれど、同じ部屋で眠っているマツリの顔には、日を追うごとに疲労の色がにじんでゆく。マツリは大丈夫だと笑っていたものの、このままではいけないことなど、コノマルとて十分にわかっていた。

 自分はどうすればいいのか。次第に、コノマルはそればかりを考えるようになっていった。けれど、コノマルがどれだけ考えてみたところで、答えは出ない。コノマルの焦燥感は、日に日に増していくばかりだった。

 ある夜、コノマルは不思議な夢をみた。常のように真白く染め抜かれたその世界。しかして、そこに鮮烈な朱はなく、あるのは見たこともないほどに巨大な古木だった。枝がたわむほどに咲いた薄紅の花の下には、コノマルも知る人物が立っている。

「マツリ?」

 名前を呼べば、マツリはコノマルを見つめて、ひどくやさしい笑みを浮かべた。

「コノマル、少し話をしよう」

 一体なんの話であるかなど、コノマルは問おうとさえ思わなかった。手招きをされ、コノマルは大人しくそれに従った。マツリは古木の根もとに座ると、自らの膝を叩いてコノマルを招く。夢の中であるはずなのにふれたマツリの身体はあたたかく、背中から回された腕からは、ほのかな花の香りがした。

「これは夢なのか?」

 ふと抱いた疑問をコノマルが口にすると、マツリは背後で「さあ」と笑う。

「コノマルはどう思う?」

「む」

 聞き返されて、コノマルはしばし考えてみた。果てなく続く白、土とも雲とも思えない地に根を張る巨木。一見して、夢のように思える光景だった。されど、コノマルの中の何かが「違う」と告げている。これは夢ではないのだと、そう告げているような気がしてならない。では、これが夢ではないと告げるそれはなんであるのか――

「小生にはわからぬ」

 結果として、コノマルはゆるりとかぶりを振った。そうして、マツリの答えを求めて首を巡らせる――否、正しくは巡らせようとした。すると、マツリはそれを手でやんわりと制して、コノマルの顔を白い世界へと固定する。まるで、顔を見られまいとしているようだと、コノマルはふと思った。

「コノマルは、死ぬことが恐い?」

 唐突に、あるいは、おもむろに投げかけられた問い。コノマルには、マツリの言わんとしていることが、まるでわからなかった。恐くはない。即座にそう答えようとした口は、なぜかふるえた吐息をこぼすだけに留まる。そこでようやく、コノマルはマツリの問いかけの意図を知った。

 コノマルは武士の子だ。強く気高くなくてはならない。臆病風に吹かれてはならない。戦に出て、敵を討ち取るためには、死を恐れるわけにはいかないのだ。だのに、コノマルは恐れている。死という、この戦乱の世では何よりも身近なそれを、恐れている――

 ふるえだすこぶしを恥じて、コノマルは自らの手で押さえつけた。それに重なるようにして、マツリの手がふれる。とたんに、コノマルの顔は熱くなった。夜毎うなされてはマツリの胸で泣いていたというのに、今は無性に恥ずかしくてたまらない。けれど、マツリは言った。

「別に恥ずかしいことじゃないよ。死を恐れるのは、正しいことなんだよ」

 押さえこむコノマルの指を丁寧にほぐし、マツリの手は怯えるこぶしを柔らかに包む。水仕事であかぎれた手が、コノマルの手をそっと撫でた。

「だから、コノマルは決して自分を責めてはいけないよ」

 そうして逃げずに向き合ってあげて――そう紡がれたのだろうマツリの言葉は、ところが、途中で濁って絶えた。マツリが咳きこみ、コノマルの頬に何か生あたたかいものが飛ぶ。なぜか、言い知れないほどの嫌な予感がした。コノマルを抱いていたマツリの腕が、離れてゆく。

「マツリ」と、そう呼んで、振り返って、コノマルは目をみはった。コノマルを膝に乗せたマツリは、口もとを押さえてうつむいている。眉間に深いしわを刻み、息をつぐ間もなく咳きをする。その両の手を染めあげるのは、目が眩みそうになるほどに鮮やかな朱――

「マツリ!」

 コノマルは大声で叫びながら、飛び起きた。夜明けも遠い冬の闇に侵された部屋。そのすみで、蔓草に守られるように抱かれたマツリが、力なくもたれている。さっと血の気が引いた。コノマルはマツリのそばへ駆け寄ろうとし、その場の異常に気づいた。倒れた燭台、破れた布、床に散る白い綿、よくよく見たのなら四方の壁には無数の切り傷がある。これはなんだ。なにが起こった。だれの仕業だ。自問するコノマルの脳裏、ふいにマツリの言葉がよみがえった。

 ――だからコノマルは決して自分を責めてはいけないよ、そうして逃げずに向き合ってあげて。

 夜毎の記憶が弾ける。うなされ声をあげるとともに逆巻く風、マツリの腕に抱かれながら見た天地を覆う蔓草の壁、それを切り刻む目には見えぬ刃。コノマルは常に中心にいた。すべての事象はコノマルを取り巻くように起こっていた。そしてそれは、マツリと出会ったあの日も変わらず。

 マツリを支える蔓草が、徐々に光を失ってゆく。支えをなくしたその身体が床に崩れ落ちるより先、コノマルは肩を滑りこませた。マツリのか細い吐息が、コノマルの耳にかかる。コノマルは意識のないマツリの頭を両腕で抱いた。

「小生は、認めることができなかったのだな」

 かすれた声で、呻く。「死ぬことを恐れ、死なせることを恐れ――小生は、あるがままのできごとを、真実を、認めることができなかったのだな」

 あの日のできごとを夢にみるたび、コノマルは恐れのあまりに力を暴走させていた。その都度、マツリはあの不思議な光る蔓草でコノマルの力を抑えこんでいてくれた。そうして、コノマルが現実と向き合えるまで、待とうとしてくれていた。

「ヤスノリ」

 確信をもって、コノマルは部屋の戸口を振り返る。宵闇の中、いつからか静かにたたずんでいたコノマル付きの忍は、ただコノマルを見つめ返すのみ。コノマルは薄く笑い、ようやく呑みこんだそれを口にした。

「小生は、人を殺めたのだな」


  ※


 唇をふるわせながらも問うたコノマルに対し、ヤスノリは静かに答える。「おそらくは」

 断定しなかったのは、初めて人を殺めたことに戸惑いを覚えているコノマルの心情をおもんばかってのことではない。ヤスノリ自身が、実際にその瞬間を目にしていなかったからだ。正確な情報をもたらすことで主君を支えるのもまた忍の役目であると、ヤスノリは理解している。ゆえに、偽らざる答えを返した。

「そうか」

 と、コノマルが伏し目がちに呟く。ヤスノリはコノマルに支えられてしなだれるマツリへと視線を移し、続けた。

「これも憶測でしかないけれど、マツリは気づいていたよ」

「そうであろうな」うなずいて、コノマルはマツリを見る。「小生に、己を責めるなと言ってくれた」

 案の定だった。コノマルの言葉で自らの推論をより確かなものへと変え、ヤスノリは部屋へと踏み入る。そうしてコノマルのかたわらに屈みこみ、動かぬマツリのようすをうかがった。息はある。外傷もない。しかし、脈はひどく弱く、体温も異様に低かった。まるで生気だけが失われたかのようだと、そう思う。知らず、ヤスノリの表情は険しいものとなっていたのだろう。コノマルが不安げにヤスノリの顔を仰いだ。

「ヤスノリ、マツリは助かるのか」

「わからない」

 ヤスノリは、かぶりを振って返した。「俺と違って、この子が衰弱している要因は外傷じゃない。手の施し用がないよ」

「しかし、マツリは」

 コノマルがうつむく。その肩が小刻みにふるえているのを見て、ヤスノリは小さく苦笑をこぼした。垂れたそのこうべに手をやる。本来ならばこのようなことは主にしてはならないのだが、コノマル自身が咎めることがなく、いつのころからか、ヤスノリがコノマルをさとすときの癖となっていた。

「何も助からないって言っているわけじゃないよ。見捨てやしない。コノマル様だけじゃない、俺だってマツリには助けられたんだ」

 軽く肩をすくめたヤスノリに、コノマルが顔をあげる。ヤスノリはそれを逃すまいと、ひたとコノマルの目を見据えた。

「効くかはわからないけど、ひとつだけ心当たりがある。コノマル様も手伝ってくれるかい」

「無論だ」

 しかとヤスノリを見つめ返してきたコノマルの双眸に宿る、力強い意思。そこには、人を殺めたことに苦悩しながらも、それでも他者のために強くあろうとするコノマルの姿勢が見て取れた。自身よりも幼い主の成長を目の当たりにし、ヤスノリは密かにうれしく思う。つりあがる口の端はそのままに、ヤスノリはマツリの身体を抱きかかえた。

 病床にあったとはいえ、ヤスノリは忍だ。こうなる以前からマツリの体調がすぐれないことも、コノマルが何かを焦っていることも、すべて気づいていた。これらを不審に思い、直接マツリに尋ねたこともある。しかして、マツリはかぶりを振るだけだった。

「もう少しだけ、待ってほしいんだ。大丈夫、何も危険なことはないから」

 このとき、マツリは普段見せているものと変わらない微笑を浮かべていたのだが、ヤスノリはその顔が気に食わなかった。マツリは凪いだ湖面のように静かな娘だ。その言動はいつでも他人の内心を見透かしているようで、ヤスノリにとっては居心地が悪い。なぜなら、忍は他人に心情を悟られてはならず、ヤスノリは常に緊張の糸を張っていなくてはならないような、そんな気にさせられるのだ。だから、ヤスノリは少々意地悪く返した。

「危険なことにならないのはコノマル様かい、それとも、あんた?」

 さりとて、そんな嘲笑じみた問いかけにも、マツリの表情が崩れることはなく、ヤスノリは内心でつまらない女だと嘆息したものだった。よもや、二日経った今になって、こんなことになるとは思いもしなかった。

 傷はなく、病らしい症状もなく、急激に衰弱したマツリ。口にしていたものもヤスノリやコノマルと変わりはなく、食事は常に三人そろって大皿から取って食べていた。ヤスノリは順調に回復し、日を追うごとに表情が険しくなるコノマルでさえ体調そのものに異常は見られなかった。その中で、家主のマツリだけに疲労の色が濃く表れていた。

 慣れない看病に疲れているというようすはなかった。それどころか、看病をするときの手際はとてもよく、医者には勝らずともただの村娘とは思えないものだった。実際、薬草や薬の調合に関する知識も深いところから、何かそういった経験があったとしてもおかしくはない。けれど、そうであればあるほど、なおさらマツリの体調の変化は奇妙に思えた。医者の不摂生という言葉はあれど、マツリが不摂生をしているようには見えなかったのだ。

 ともすれば。と、ヤスノリは思う。マツリの衰弱は一般的な要因とは関係がないのではないか。ヤスノリが思うに、おそらくマツリは普通の人間ではない。ヤスノリが初めてマツリの存在を認識した日、マツリは妙な術を使っていた。この世のものではないだろう青白く光る植物を自在に操っていた――

 ヤスノリは忍の里にある古い文献から、自らの身体に流れる霊獣の血についてを知り、ほかの霊獣らがもつ特異な力についても学んだ。文献上では植物を直接的に操る霊獣やその子孫は記されてはおらず、もっともそれに近しい力をもつのが豊穣をもたらす九尾狐の血筋だった。しかし、人の手によって記された書物ゆえに、霊獣のもつ力すべてが記録されているとは限らない。ヤスノリは、あるいはマツリは自分やコノマルと同じか、そうでなくとも似たような存在なのではないかと、そう考えていた。霊獣の血を引いた者でなくとも人がもち得ない強大な力をもった存在、人ならざる者。そうでなければ、コノマルが暴走させていたあの強大な力を抑えこむことなどできるはずはないのだ。刹那、ヤスノリでさえも部屋に踏み入ることを躊躇してしまうほどの獰猛な獣の力――

「俺の勘が、鈍ってなければいいんだけれどね」

 ヤスノリの考えが外れていれば、もはや打つ手はない。マツリ自身の生命力に任せるよりほかはない。しかし、それでは心許ないのだ。より確かに、確実に、マツリを生かす術が欲しい。マツリの底をうかがうことのできない目は嫌いでも、守るべき主によく似たお人好しなその性格は嫌いではないのだ。ヤスノリは自分に用意されていた布団へとマツリを横たえ、その額に手を当てた。

「借りは返す主義なんだ」

 だから、あんたは生きるんだ。
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