第一部

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 キイヤスノリは、人気のない薄暗い部屋で目覚めた。身体をさいなむ痛みをこらえ、簡素な布団に横たえられていた身体を起こせば、かたわらに置かれていた鏡台が視界に入る。青白い月明かりに照らされ映しだされていたのは、手当てを施されたほかでもないヤスノリ自身の姿だった。

 覚えのない室内、覚えのない傷の手当て、反して、ひどく覚えがある自らの顔――忍として生きてきたヤスノリは、瞬間的に悟った。しくじったのだと。自身の計画は失敗に終わったのだと。鏡に映る己の顔を忌々しく睨み、ヤスノリは舌打ちをした。今再び、自身が仕えていた主の姿に化けたところで、それはもはや意味を成さない。傷の手当てをしたであろう人物は、当にヤスノリがコノマルではないと気づいている。だからこそ、ヤスノリは生きている――

 人気のない部屋の中を見渡すも、コノマルから奪った三節棍はおろか、武器になりそうなものすら見当たらない。刹那の逡巡の後、ヤスノリはそのこぶしを鏡面に叩きつけた。鏡の割れる音が、静まり返っていた室内に響き渡る。こぶしからにじんだ血に、かまっている暇などはなかった。部屋の外から聞こえた物音。ヤスノリは砕けた鏡の破片から、一際大きなものを素早く手に取った。破片を強く握りこむと同時、部屋の戸が開け放たれる。入りこんできた明かりに目が眩めど、ヤスノリの手もとが狂うはずはない。鏡の切っ先を己の喉に突き立てようとした瞬間、けれど、その手に絡みつくものがあった。

「悪いけど、死なせるわけにはいかないんだ」

 年若い女の声が、言う。ヤスノリの腕には、その動きを封じるかのように青白く光る蔦が絡まっていた。とっさに、握っていた鏡の破片を声の聞こえたほうへと投げる。しかし、それもまた蔦によって絡め取られた。宵闇に浮かぶそれは、果たしてどこから生えてきたのか。かすかに透けて見えるようすは、人の世のものではない。ヤスノリは、瞬時に布団から抜け出した。

「あんた、何なんだい」

 片腕を蔦に捕らわれたまま、ヤスノリは部屋の前に立つ人影を睨む。光に慣れたヤスノリの目に、人影の主たる若い娘の微笑みが映った。

「マツリ。ミサカキマツリだよ」

 己の正体、ひいてはこの奇妙な蔦のことを答える気など、さらさらないのだろう。静かに微笑み続ける娘のようすに、ヤスノリは目を眇めた。「ふうん、そうかい」

 気のない相づちを打つように見せながら、ヤスノリは腕に力をこめる。けれど、ヤスノリがどれだけ力をこめても、腕の蔦を引きちぎることができない。内心、苦虫でも噛み潰したような気分だった。

 ヤスノリは武士ではなく、忍だ。目的が果たせるのならば形振りはかまわないが、たかが娘ひとりに手こずるというのは不名誉だと感じるだけの誇りはある。ヤスノリは自由が利く手を床にさまよわせながら、近づいてくる娘を探るように見た。

「ところで、俺にはなんの用なのかな。ただの村娘にしては、おかしな術を使うようだけれど」

 だが、娘の表情が変わる気配はない。そこからヤスノリが知り得ることなど、そう多くはなかった。
 と、そのとき。ふいに、あわただしい足音のようなものが聞こえた。娘の意識がわずかに逸れ、床を這うヤスノリの指先が鋭いものにふれた。

 床に散った鏡の破片を再び手にし、ヤスノリはそれを娘に振りかぶる。瞬間、ふいをつかれた娘は呆けたような顔でヤスノリを見た。それはまるで、何が起こっているのかがわかっていないような顔――あどけなさを感じさせるその表情に、ヤスノリは今はいない幼い主の顔を重ねてしまった。

 振りおろした切っ先を寸でのところで止め、娘の腹に蹴りを入れる。すると、娘の身体は呆気ないほどに容易く、部屋のすみまで吹き飛んだ。青白く光る蔦が、闇に溶けるように消える。床に倒れた娘が、小さく呻いた。

「だめ、死んでは」

 あるいは、この娘はヤスノリの敵ではなかったのかもしれない。ちらと、そんな思いが頭を過ぎった。目的があったわけではなく、悪意があったわけでもなく、ただの善意だけでヤスノリを助けたのかもしれない。けれども、仮にそうであったとしても、所詮ヤスノリは南雲に生まれた人ならざる者なのだ。

「悪いけれど、東雲の人間に生かされるわけにはいかないんだよ」

 娘に笑いかけ、ヤスノリは鋭利な破片を己に向けた。南雲の民として、霊獣の血を引く者として、そして何よりも――

「ヤスノリ!」

 呼ばれ慣れた名前と、耳に馴染んだ声とに、ヤスノリの手もとが狂った。首を裂こうとした凶器は、その皮膚を薄く切るだけに留まる。ヤスノリが驚愕して振り返れば、そこにいたのは、先刻までヤスノリが化けていた相手がいた。手から、鏡の破片が滑り落ちる。「コノマル様」と、かすれた声で、その名前を口にしていた。

 見間違えるはずもない。ヤスノリが守り仕え、だまし、森に置き去りにしたはずの、幼き主だった。

 南雲を立つ前は、ヤスノリの存在を見とめようものならば、稽古中であろうと真っ直ぐに飛んできていたコノマルだったが、今はヤスノリが蹴り飛ばした娘のかたわらから離れようとしない。ヤスノリに、近づこうとしない。怒りに満ちた眼で、ヤスノリを睨む。

 だが、それもいたしかたのないことだった。ヤスノリとて、それは承知の上だった。だからこそ、ヤスノリはコノマルを謀った。決して自分が死んでもコノマルが未練に思わないようにと、手ひどく裏切った。そのようにふるまった。その、はずだった。

「ヤスノリ、か弱い女子を蹴るとは何事だ! ましてや、マツリは命の恩人。小生やそなたを助けてくれたのだぞ!」

 咎められる覚悟はあった。罵詈雑言を浴びせられる覚悟もあった。しかし、それは女を蹴り飛ばしたことに関してではない。ヤスノリは、想定外のことに困惑した。そして、その気配が伝わったのだろう。伏していた娘が身体を起こしながら言った。

「ヤスノリ、あなたが助かったのはコノマルのおかげなんだよ」

「コノマル様の?」

 問い返せば、娘は床に座って「そう」と、うなずいた。「彼の手に巻かれた包帯には気づいてる?」

 言われて確認してみたところ、たしかにコノマルの両手には白い布が巻かれている。血がにじんでいるようなことはないが、よもや怪我をしたのか。知らず、ヤスノリの目は細くなった。

「何が、あったんだい」

 その問いかけが、コノマルに対してだったのか、それとも、この見知らぬ娘に対してだったのか。ヤスノリ自身にもわからない。けれど、未だ憤慨しているコノマルは口を開こうとはしない。答えたのは、娘のほうだった。

 いわく、ヤスノリは数人の屍に紛れて倒れており、そのかたわらにコノマルがいた。両の手を真っ赤に腫れあがらせて、それでもなお、ひたすらに雪を掘りながら「ない、ない」と泣いていた。ただならぬようすに娘が声をかけると、コノマルは言った。ヤスノリがひどい怪我をしておるのだ、しかし小生は薬を持ってはおらぬ、せめて薬草で手当てをしてやりたいのだ――

 南雲の冬は東雲ほど厳しいものではないが、それでも冬になれば草木は眠る。そんなことは、コノマルとて十二分に知っているはずだった。だのに、コノマルは雪の下に薬草が隠れてはいないかと探していた。冷たさを感じることさえできなくなっていたその手は、凍傷になる寸前だった。

「どうして、そうまでして」

 低く、呟くように問うていた。娘に助けられるのが少しでも遅れていたら、コノマルの両の手は腐り落ちていたかもしれないのだ。もっとも、南雲から出ることのなかったコノマルに、凍傷の恐ろしさなどわかるはずもないのだが、それでもヤスノリは問わざるを得なかった。すると、コノマルは怒っていたことも忘れて、目を瞬かせる。

「そなたは小生のただ一人の配下であろう。主が配下を助けようとすることの何がおかしいのだ」

「俺が裏切ったとは、思わなかったのかい」

「思わぬ」

 ヤスノリは知っている。コノマルは嘘を吐くことができない。嘘を吐けば目が泳ぎ、声はうわずり、態度も忙しなくなる。だからこそ、そのときのヤスノリは言葉をなくした。今、ヤスノリの前に立つ主は、平素となんら変わりがなかった。コノマルの目も、声も、態度も、ヤスノリを疑ってなどいないのだと――信じてやまないのだと、そう物語っている。

「小生には、難しいことはわからぬ。しかし、己の目を疑うつもりは毛頭ない」

 と、コノマルは言った。

「疑うのはヤスノリ、そなたの役目であろう?」

 さも当然のことであるかのように、コノマルはヤスノリを見る。しかし、それは決して考えなしでの言葉ではなかった。疑わないことが、この時勢でどれだけ危ういことであるかを理解しているからこその言葉だった。どこまでも愚直で幼い主は、あろうことか、武士ですらない、たった一人の忍にその命を預けるという――ヤスノリは手で目もとを覆い、笑った。

「コノマル様は、忍使いが荒い。ほかの忍では、お付きなんて務まらないだろうね」

「うむ、さようだ」

 と、コノマルは無邪気に笑う。忍でありながら、ヤスノリの頬を伝ったそれを、見咎める者はそこにはいなかった。

 マツリという娘は、何も聞かなかった。ヤスノリが忍だと知り、コノマルがその主であると知っても、これといって態度が変わることはなかった。ただ、傷が癒えるまでここにいればいいと、そう言って笑っていた。南雲に属する忍として、東雲の民の世話になることへの危機感を拭うことはできなかったが、コノマルはマツリによく懐いており、ヤスノリ自身もまた満足に動けるような状態ではない。ヤスノリは現状に甘んじて、療養に専念することを決めた。

 その間、コノマルはマツリから薬草や薬の調合についてを教わり、両手の包帯が取れると、ヤスノリのために手ずから薬を用意した。表舞台に立つ武士とは異なり、裏で暗躍する忍は使い捨ての駒とされることが多い。ましてや、それが間者として敵地に潜り、人を欺いては要人を暗殺するという汚れ仕事ばかりをしているとなれば、人は良い感情を抱かない。義を重んじる武家の者であれば、なおさらのことだった。ヤスノリとて、コノマルがそういった類の人間ではないと知ってはいるものの、マツリとともに世話を焼いてくるその姿を見ていると、妙に調子が狂う。

「普段なら俺が世話を焼くところなんだけどね」

 包帯を洗ってくると、そう言って部屋を出て行ったコノマルを見送り、ヤスノリはぼやいた。「まさか、包帯を替えるのにコノマル様の手を借りることになるとは思いもしなかったよ」

 すると、薬を片づけていたマツリが、くすくすと笑う。

「気にすることはないよ。ヤスノリは怪我人なんだから」

「そうは言われてもね」

 と、ヤスノリは頭をかいた。手の焼ける主に世話を焼かれるというのは、ヤスノリにとっては、やはり違和感しかない。ふいに、マツリの手が止まった。

「今の自分にはこれくらいしかできないから」

 コノマルの出て行った戸を見つめて、マツリがぽつりと言った。振り返れば、マツリはヤスノリを見て、にこりとする。「コノマルは、そう言っていたよ」

 おそらく、コノマルはヤスノリが怪我を負ったことに対して責任を感じているのだろう。本来、キイヤスノリという存在はそのためだけにあるというのに、あのお人好しなコノマルがそれで納得するはずもない。ゆえに、ヤスノリはこの命が尽きるまでそばで仕えていたいと思う。ゆえに、その障害となり得るものは早々に摘み取ってしまいたい。

「マツリ」と、かたわらに座る東雲の娘の名を呼ぶ。

「なあに」と、やや間延びした緊張感のない声が返った。自分とは縁も所縁もないような人間を家にあげて手当てをしているのだから、大概この娘もお人好しなのだろう。だが、どうにも引っかかるところがある。

「あんた、何も思わないのかい」

「何が?」

「俺が倒れていた場所には、亡骸もあったんだろう?」

 ヤスノリが続けると、きょとりとしていたマツリもすぐに目を伏せた。そこに物言わぬ屍があったということは、そこで人殺しがあったということでもある。そして、それはヤスノリとコノマルを惨劇の生き残りと取ることができる一方で、その逆と取ることもできる状況だった。これはマツリが知る由もないことではあるのだが、ヤスノリの首が討ち取られていなかったことを考えるのならば、あの追手たちを返り討ちにしたのは、おそらく――

 ヤスノリはマツリに注視した。返答次第では、その命を奪うよりほかない。例え、それが恩人であろうとも、未だ幼い主を守るためならば、ヤスノリが躊躇する理由はない。果たして、マツリは言った。

「たぶん、ヤスノリが考えているようなことは何もないよ」

 まるで世間話でもしているかのような調子で、マツリは止めていた手を再び動かし始める。「彼らを殺したのが誰であれ、私がその人をどうこうすることはないよ。生きている者が死んでしまった人たちにしてあげられるのは、弔うことくらいだからね」

 実際、あの場にあったすべての亡骸を、マツリは弔っている。この時期に花は咲かないからと、色紙でつくった花を墓に供えていた――そう、コノマルは言っていた。その行動には、死者を悼む気持ちがあふれている。けれど、今この瞬間のマツリの反応は、あまりにも淡白なもののように思えた。

「死者の無念を晴らそうとは思わないのかい」

 ヤスノリが意外に思って問うと、マツリは薄く笑う。「死んだ人たちが無念だったかなんて、どうしてわかるの?」

 一瞬、ヤスノリは言葉に詰まった。けれど、マツリは微笑をたたえたまま、無邪気な子どものように問いかけてくる。

「仮に死んでしまった人が無念だったとして、生きている人がどうやってそれを晴らすの? 仇を討っても、また人の命が失われるだけなのに」

 失われた命のために誰かが殺されて、また失われた誰かの命のために誰かが殺して、誰かに殺される――まるでいたちごっこだと、マツリは呟く。そして、続けるのだ。人には死人の思いなどわからない、だからしてやれることもない、と。

「だけど、生きている人たちにしてあげられることは、たくさんある」

 物を与えること、知識を与えること、安らぎを与えること、そのほかにも数えきれないほどのことがある――

「それだったら、私は生きている人たちのために何かをしたいんだよ」

 顔をあげたマツリの表情は、それが彼女の真実であることを何よりも強く物語っている。少なくとも、ヤスノリの目にはそのように映った。屈託のない笑みを見つめ、ヤスノリは膝に頬杖をついた。そうして、小さく嘆息する。

「やれやれだよ。あんたも、相当なお人好しだね」

「このご時世だからね」

「普通は逆だと思うんだけどねえ」

 呆れた声で言いながら、ヤスノリは胸を撫でおろしている自分自身に気づかないふりをした。
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