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花ほころびし、三月某日。

 事件の解決とともに、園丁のタキはモノベ邸から姿を消した。トシヒコから聞いた話では、現在その身柄は帝国議会によって拘束されており、近々、何らかの処罰がくだされるようであった。主には、超異能力によって電車を暴走させた件を咎められるのだろう。今回の事件で死傷者などは出ていないが、タキは処罰を受けることに抵抗するような素振りは一切ないという。

 キョウヤは思う。おそらく、タキは、キョウヤやチヨコを殺そうとした自分を、許すことができなかったのだろう。だからこそ、チヨコを殺したなどと、うそぶいたのだ。キョウヤたちが自分を殺し、裁いてくれるようにと。事実、トシヒコは、半ばタキを殺すつもりでいたはずだ。

 けれど、キョウヤは思うのだ。それは、とても悲しいことだと。

 超異能力の存在などは知らずとも、タキには明日を誓い合った妻がいて、チヨコという姪もいる。園丁のころに見せていたおだやかな性格を思えば、友人もそれなりにいるに違いない。帝国議会によって、その死がいかに隠蔽されようと、タキがこの世を去れば、それを嘆き悲しむ者は必ずいる。そして、それは人々の胸に深い傷をつけ、癒えてもなお消えぬしこりを残す――タキ自身が、そうであったように。例え、当人が自らの死をどう思おうとも、それは変えがたいことなのだ。

「おチヨ」

 世話をしてくれる者を失った庭園に、ぽつりとしゃがみこんだ小さな背中へと声をかける。タキがいなくなってからというもの、チヨコは見よう見まねで庭の植物を世話するようになった。無論、チヨコの知識や技術、体力では庭園を維持することなどできはしないのだが、体調が許す限り、毎日のように庭の草木に水をやっている。土まみれの手で汗を拭いながら、チヨコが振り返った。まばゆい日差しにきらめく緑の中、不思議そうな顔をしてたたずんでいる。

「もう、こんなことはないようにしておくれよ」

 タキは言っていた。チヨコは殺される覚悟をもって庭へ出ていたのだと。それを聞いたとき、キョウヤはどれほど肝を冷やしたことだろう。もとより身体が弱く、チヨコはキョウヤよりも、ずっと死を身近に感じているのかもしれない。それだからこそ、タキが殺意をもって近づいてきても、チヨコは逃げようとしなかったのかもしれない。いずれにせよ、生きている以上、死は避けることのできないものだ。けれど、だけれど、

「僕は、おチヨがいなくなるのは嫌なんだ」

 今の生活だけに満足せず、もっとたくさんの幸せを感じてほしい。もっと、さまざまなことを経験し、泣いて、笑って、生き抜いてほしい。そうして、できることなら、もっと自分と同じ時間を過ごしてほしい。

 目を伏せて、か細く胸の内を吐露するキョウヤを、チヨコは果たしてどう思ったのだろう。泥だらけになったチヨコが、キョウヤの前に立つ。そっと伸ばされた手は、しかし、汚れることを気にしてか、すぐに引っこめられてしまった。

「ごめんなさい」

 泣きそうな声で、チヨコが呟く。うつむいて声をふるわせる姿は、本当に小さく、儚げだった。たまらず、キョウヤはチヨコをかき抱く。一度はふれることをためらったチヨコも、今度はキョウヤの服にしがみついた。そうして、チヨコは涙ながらに「ごめんなさい」と繰り返す。答える代わりに、キョウヤはふるえるチヨコの身体を、ただただ、きつく抱きしめた。あるいは、タキが思いとどまっていなければ、今、キョウヤの腕の中にチヨコはいない。そう思うと、ぞっとしてたまらなかった。

 結論からいえば、キョウヤの選択は任務を果たすうえでは悪手であった。トシヒコの異能で瞬時にモノベ邸へと移動していれば、電車が暴走することはなかったであろうし、タキがチヨコと接触することさえ避けられたかもしれない。しかし、ハルオミがこれを責めることはなかった。それどころか、これでよかったのだと、そう笑っていた。これが、もっとも望ましい結末であったのだと。

 ふいに、門のほうが騒がしくなる。近づいてくる足音にキョウヤが顔をあげると、人影が一つ、歩いてくる。それはトシヒコで、キョウヤと目が合うなり目配せをよこしてきた。さらに、トシヒコの後ろにはもう二つの影が見える。キョウヤはチヨコの肩を揺すり、後ろを見るようにうながした。そうして、振り返ったチヨコの目は、大きく見開かれる。

「タキさん!」

 ぱっと駆けだしたチヨコを、ひとつの人影が、タキが抱きとめる。

「ああ」と、タキはうめくように声をもらした。「こんなに泥だらけになってしまわれて。俺がいない間、庭の面倒を見てくださっていたというのは、本当だったんですね」

「だって」と、チヨコは泣きじゃくった。「タキさんのお庭だもの。チヨの、大好きなお庭だもの」

 タキが、目頭を押さえる。「ありがとうございます、チヨコ様」

 ひしと抱き合う二人を見つめ、キョウヤは目を細める。すると、もう一つの影が紫煙をくゆらせて、かたわらに立った。

「残念だったなあ、キョウヤ。きみのかわいいおチヨは、タキに取られてしまったようだ」

 そう茶化すハルオミを、けれども、キョウヤは振り返らない。隣に並ぶトシヒコの気配を感じながら、言った。

「タキのことで、ハルオミさんが口添えをしてくれたと聞きました」

「トシヒコから聞いたのか」

 たまゆら、ハルオミの目がトシヒコへと向いたが、トシヒコは素知らぬ顔をしている。こういうときのトシヒコは、頑として口を割らない。ハルオミも、それは重々に承知しているのであろう。軽く肩をすくめて、視線を戻した。

「なに、大したことは言っちゃあいない」

「これから、タキはどうなるのです?」

「悪いようにはならないさ――そら、タキの襟もとをよく見てみるといい」

 あごでうながされ、キョウヤはチヨコと抱き合うタキの襟を見る。そして、そこに陽光を照り返して輝く徽章があることに気づいた。「あれは」と、声がこぼれる。

「だから言ったろう? これが、もっとも望ましい結末だったのさ」

 くつくつと、ハルオミが満足そうに喉を鳴らす。それは一体、誰にとって、もっとも望ましい結末であったのだろうか。ふと、キョウヤは口を開いた。

「あなたは、チヨコをどう思っているんです」

 急なキョウヤの問いかけに、しかし、ハルオミが動じたようすはなかった。ゆったりと、タバコの煙を吐き出す。

「なんだい、やぶからぼうに」

「チヨコは、あなたから線を引かれていると思っています。嫌われているのではないかと、そう言っていた」

 もとより、ハルオミはチヨコを監視する立場でもある。いつだって、ハルオミはチヨコを救ってくれてはいたが、思い返せば、彼の個人らしい感情を聞いたことはなかった。

「嫌ってはいないさ。厄介だとは思うけれどね」

 返ったのは曖昧な答えではあったが、チヨコとタキを見つめるハルオミのまなざしは、ひどくおだやかであるように思う。

「いつまでも、ああしていてほしいものだよ」

 ぽつりと呟かれた言葉は、どうしてか、ひどく耳に残った。
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