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第一部

 飼っているミツバチの巣箱から巣板を取り出し、桶状の採蜜用器具にはめる。その後、採蜜機の上部に取りつけられた取っ手を回せば、遠心力によって蜜だけを採取することができる。養蜂の技術がないこの地では、巣箱も採蜜用器具も、すべて手作りしなくてはならなかったけれど、この採蜜方法ならミツバチたちの巣を壊さずにすむ。巣板を巣箱に戻すだけでミツバチたちもすぐに蜜を集め直すことができるため、ハチミツの採取には効率がよかった。

 あたたかな木漏れ日が降り注ぐ森の中に、ミツバチたちの羽音が満ちている。マツリは指先に止まった女王蜂を見つめて微笑んだ。

「いつもありがとうね、おかげで大分溜まってきたよ」

 首から提げた小瓶を日にかざし、マツリは目を細める。小指ほどしかない瓶の三分の一を満たす琥珀色のそれは、普通のハチミツとは異なる特別なものだ。「タツマルも、もう元服していい歳だからね」

 それはマツリの故郷では「ロイヤルゼリー」と呼ばれるもので、ミツバチが女王蜂になるか働き蜂になるかを決める食べもの。かつて食が細く泣いてばかりだったタツマルに、マツリはこの食べものについて話すことで食の大切さを説いた。マツリが知る限りでは今のタツマルが泣くことはもうなかったものの、彼にとってこの世界は厳しい。元服しても強くしなやかに成長し続けてほしい――やがて大人になる彼にそんな思いを伝えたくて集めだした。

 もっとも、これは余計な世話なのだろうとも、マツリは思っている。トオイリ家に隠された真実を知らずとも、自らカガミハラ家に仕え続けようとしたシノ。ほかの何よりもタツマルを大切に思う彼がいる限り、タツマルは大丈夫だ。きっと立派な武士になる――それは確信だった。

 女王蜂を巣箱に帰し、採れたてのハチミツが入った壷を抱えて家へと戻る。すると、風とともに後を追いかけてきた一匹のミツバチがマツリの肩にとまった。陽炎のように揺らぎながら、森へと踏み入る一人の男の姿が頭に浮かぶ。

 珍しい。思わず、口の中で呟いた。まだ日も高いこんな時間に来るなんて。マツリは来訪者を出迎えるべく、風のいざなうほうへと足を向けた。

 何度も行き来しているうちに、彼はすっかりマツリが暮らす家の場所を覚えていた。「いるか」と、戸口へと呼びかける声に対し、マツリは木立の間から声を返す。

「いらっしゃい、シノ」

 笑ってその名前を呼べば戸口に立っていたシノはマツリを振り返り、かすかに目もとを緩めた。

「そこにいたか」

「奥でハチミツを採っていたからね」

 両手で壷を抱えて見せ、マツリはシノへと歩み寄る。「何か用事?」

 いつもの調子で問いかけたマツリに対して、けれど、シノはしばし黙りこんだ。目をつむり、眉間にしわを寄せる――それは、ここのところのシノがよく見せる表情だった。何かを思い悩んでいるのは明らかだったが、マツリには人の心を読むことまではできない。トオイリ家の事情を考えると、まったく見当がつかないわけではないとはいえ、シノがこうまで思い詰めた表情をする理由がわからなかった。だからこそ、マツリはこれまでふれずにいた。シノ自身の問題であるのならば、シノがそれを語ろうとしないのであれば、自分はふれるべきではないと、そう思っていた。けれど、

「あがっていきなよ、お茶を淹れるから」

 会うたび会うたび、その表情が暗くなっていくのを黙って見ていられるほど、マツリは薄情になれなかった。

「すまない」と、そう言ったシノの表情は、半ば意思を決めかけているように見えた。

 家の戸棚に並ぶ筒の中身はすべて茶の葉なのだが、どれも少しだけ種類が違う。そしてマツリはこの日、これまで客人には出さないでいた茶葉の缶を手に取った。沸かした湯を器に注ぎ、ふたをして蒸らすこと少し、甘く香る琥珀色の茶ができあがる。マツリはそこに採れたてのハチミツを少し垂らして、シノのもとへと運んだ。

「お待たせ。今日はちょっといつものとは違うお茶だよ」

「ああ……色が赤いな。香りも違う」

「いつものお茶にハチミツは合わないからね」

 一足先にマツリが茶をすすって返すと、湯呑みに口をつけていたシノがむせた。

「おまえ――ハチミツなんて――そんな高価なもんを――茶なんぞに――入れたのか」

 信じられないといった顔をするシノに、マツリは少しだけ眉を寄せた。

「心外だね、紅茶にハチミツは合うんだよ」

「まあ、たしかにうまい、が」

 それでも、茶にハチミツという組み合わせが納得いかないのか。シノは、なんとも表現しがたいような面持ちで、湯呑みを見ている。マツリはシノの横顔を見て、小さく息を吐いた。

「飲まないほうが、よっぽどもったいないよ」

「……飲まないとは言っていないだろう」

 言いながらも、シノは湯呑みに口をつけようとしない。それどころか、眉間にしわをつくって難しい顔をするばかりだ。シノがマツリの行動に困惑するのはよくあることではあったが、今のシノはやはりどこか余裕がないように感じられる。マツリは注意深くシノを見つめた。

「なぜ俺にこんな高価なものを飲ませる。タツマル様はハチミツは身体にもいいのだとおっしゃっていた」

 振り向いたシノの目が「大方おまえが教えたことだろう」と、マツリにいう。もちろん、それは事実にほかならなかったため、マツリも否定しようとは思わなかった。けれど、

「気づいていないんだね」

「何にだ」

「シノ、少しやつれたよ」

 自分の湯呑みを置き、手を伸ばす。少しこけた頬にマツリの手がふれると、シノは明らかに動揺した。揺れるその瞳をひたと見据え、マツリは口を開く。

「シノが、トオイリの真実に至ったことは知っている。三日後、トオイリの当主としばらく町を離れることも知っている。それが霊獣の力を引き出すための儀式だとも――でも、私にはシノがそんな顔をする理由がわからない」

 シノは何も言わなかった。ただ、苦しそうに顔を歪めて自らの手をマツリの手に重ねる。そうして、きつく目をつむった。まぶたが、かすかにふるえている。マツリにはわからない何かで、シノが葛藤している。だのに、マツリにはその葛藤を見守ることしかできない。やがて静かに目を開いたシノは、頬にふれるマツリの手をつかんでおろさせた。

「もういい――霊獣の世より来たりて人の世に暮らす霊獣の巫女よ。これ以上、その身を人の世に染めてくれるな」

 そのとき、マツリは自分がどんな表情をしていたのか、わからない。それでも、シノが言わんとすることだけは悟った。

 ――これは決別。別れだった。

「わかりました。さすれば、私はトオイリが留守にしている間だけ、町へ行きましょう。その身に流れる鳳凰の血が、あなたの新たな力となることを祈ります」

 シノはタツマルに対してするように恭しく頭をさげただけで、言葉を口にしない。立ち去るシノを黙って見送った後、マツリは残された湯呑みの中を見て、笑った。胸のうちにあるどうしようもない悲しみを押し隠して、笑った。「嘘つき。結局、全部飲まなかったじゃない」

 かつて、マツリは霊獣の世にいた。それはタツマルが生まれるよりも前のことで、あるいはシノが生まれるよりも前だったのかもしれない。マツリは霊獣たちと心を通わせ合い、対等な存在として暮らしていた。だからこそ、マツリは知っている。霊獣は生まれながらにして、人がもちえない強大な力をもつことを。それゆえに霊獣は人との間に距離を置こうとしていることを。

 けれど、いくら掟や言い伝えで線引きをしたところで、例外というものは現れてしまう――龍の娘が人間の男と恋に落ちたことにより、人の世と霊獣の世は保ち続けていた距離を失ってしまった。人の世へ渡った「彼女」は「彼」との間に「息子」をもうけ、そして、それがために夫である「彼」を亡くした。「彼」を殺したのは「彼女」に好意を寄せていた龍であり、霊獣たちの総意ではなかった。それでも、霊獣たちがこの事態を重く見たのもまた、事実だった。人と霊獣との距離が縮まっている、このままでは古の悲劇が繰り返される――悲劇の再来を恐れた霊獣たちは「彼女」の「息子」を殺そうとした。

 しかし、生まれた子に罪はなく、またそれを殺したところで根本的な解決にはならない。マツリは赤子の命を見逃してもらう代わりに、人と霊獣の距離を保つという役目を負った。霊獣の世から人の世へと移り、人が霊獣に出会うことがないよう、そして霊獣が人に出会うことがないよう、自らの身体そのものを人と霊獣との境界線に定めた。人の世から霊獣の世へと繋がるための鍵を、その身のうちに隠した。ゆえに、霊獣と浅からぬ縁がある者はマツリのことを「霊獣の巫女」と呼ぶ。

 マツリとの別れを決断したシノは、おそらくこう考えた。霊獣の世から来たマツリは人の世に在るべきではない、なぜならば霊獣は人の世を厭う、自分たちと関わることでマツリが人の世に染まってしまえば霊獣の世に帰ることができなくなる、そうなったら人でも霊獣でもないトオイリの祖先やタツマルと同じようにマツリもつらい目に合うかもしれない――他人を思いやるシノらしい考えだった。やさしく、気遣いに満ちていて、それでいて――残酷だ。

「馬鹿だね、私が帰る場所なんてどこにもないのに」

 今はまだ、タツマルをマツリに任せてはいるが、いずれはタツマルにもマツリとの接触を控えるよう進言するつもりなのだろう。そんなことを考えて、マツリはぼんやりと虚空を見つめた。不思議と、シノと出会ったばかりのことが思い起こされる。声をあげて泣くタツマルを背負い、町中を駆けずり回っていたシノ。乳母は見つからず、赤子のあやし方もわからず、途方に暮れていた。マツリはそんなシノに声をかけ、赤ん坊を背負ったまま走らないほうがいいと、そう真っ先に注意したものだった。

 そして、これは一部の者しか知らないことだが、このときマツリは乳母をさがすシノの願いに応じる一方で、「息子」に乳を飲ませてやりたいと願う「彼女」にも応えていた。タツマルが飲んで育った「獣の乳」は、ほかでもない彼の実母のものだった――

「おい、いるか!」

「そんな大きな声を出さずとも聞こえているよ、おちびさん」

 夕暮れ時。いつもより少し早く訪ねてきたタツマルを、マツリは縁側で出迎えた。縁側から部屋へとあげてやれば、タツマルは目ざとくシノが残していった飲みかけの湯呑みを見つけて動きを止める。

「シノが来ていたのか」

「もう大分前に帰ったけれどね」マツリは努めて平静を装い、笑った。「近いうちに彼が町を留守にするという話を聞いたよ。その間のおちびさんのことも頼まれたかな」

 すると、タツマルがマツリを見た。「本当に、それだけか」

 シノが帰ってしばらく経っても湯呑みを片づけていないマツリをいぶかっただけなのだろう。問いかけるタツマルの瞳の奥に他意はなかった。けれど、このときほどマツリが自身の心情を吐露したいと思ったことは未だかつてなく、とっさに答えを返すことができなかった。そして、タツマルもまた、そのようすを見逃してはくれない。

「何があった」

「何もないと言ったら、おちびさんは信じてくれるのかな」

「信じない」

 当然のごとく、タツマルは言った。「だが、おまえが言いたくないのなら、俺は聞かない」

 その言葉に、知らず笑みがこぼれる。目覚しいほどのタツマルの成長を感じた。

「ありがとう。ついでで悪いけれど、彼にも何も言わないでおいてくれないかな」

「ああ、わかった」

 うなずいたタツマルに、マツリはもう一度「ありがとう」と言葉を重ねた。

「――今度、おちびさんにもハチミツの採り方を教えてあげよう」

 いつ別れのときが来ても、悔いがないようにしなくてはいけない。シノが覚悟を決めたように、マツリもまた手放す覚悟をしなくてはならない。霊獣の巫女として――人と霊獣の境界線として在ると決めたときから、きっとマツリに望むことなど許されていなかった。人と霊獣の間に生まれた子らよりも、マツリはずっと異端だった。

 三日後、トオイリの当主らは予定通りに町を立った。その間、シノがマツリの前に姿を現すことは、ついぞなかった。
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