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大正二十七年、二月某日。

 モノベ邸では、仕えている下女や家令よりも早く、チヨコが玄関へと姿を見せた。淡い色合いの生地であつらえられた夜会服のすそを揺らしながら、小走りに駆けてくる。その姿に、キョウヤもトシヒコもぎょっとした。けれど、チヨコはすぐに足をもつれさせる。

「チヨコ!」

 真っ先に、トシヒコが飛び出した。トシヒコがチヨコの身体を抱きとめ、キョウヤも、すぐに駆け寄る。「怪我はないか」気遣うように問いかけたトシヒコに対し、何度か瞬きを繰り返したチヨコは、くすくすと笑った。

「みんなみたいに走るのは、やっぱりむずかしいね」

 よく見ると、チヨコの額には汗の玉が浮かび、頬も赤く上気している。ここまで無理をして走ってきたのだろう。キョウヤはチヨコの顔をのぞきこんで、眉を寄せた。

「だめだろう、そんな無理をしては」

 チヨコが走りたがっていたことはもう重々にわかっているし、欲しいと望んでいた自転車を買ってやることも、結局キョウヤにはできなかった。しかし、だからといって、チヨコの身体に負担がかかるようなことを、黙って見過ごすわけにはいかない。言葉にこそ出さないが、トシヒコの表情もチヨコを咎めるものへと変わっている。トシヒコの腕の中で、チヨコが身じろぎをした。

「違うよ」

「違わないだろう」

 わずか、トシヒコの口調がきつくなる。ふいに、奇妙な感覚がキョウヤを襲った。この光景を、やりとりを、キョウヤは知っている。

「あなたは本当に身体が弱いのだから、部屋で大人しくしているべきだ」

 トシヒコがチヨコの手を引き、その場に立たせる。チヨコは何も言わなかった。口を閉ざし、ただうつむくだけだ。けれど、チヨコのその姿を見つめて、キョウヤは口を開く。

「トシヒコ、少し待ってくれないか」

「キョウヤ?」

 意外な言葉だったのだろう。おどろいたふうのトシヒコが振り返る。それをよそに、キョウヤはゆっくりと膝をついた。チヨコと目線を合わせ、つぶさに顔色をうかがう。汗をかき、頬もすっかり赤くなってはいるけれど、そこに疲弊の色はない。そして、周囲をかすかに漂う、チヨコからはするはずのない知ったにおい。

「おチヨ。もしかして、ハルオミさんに会ったのかい?」

 チヨコは、これにおずおずとうなずいた。

「どういうことだ?」トシヒコが怪訝な声をあげた。「ハルオミさんは、今日の夜会には来ないと言っていたはず」

 この時期、モノベ邸で開かれる夜会。チヨコの誕生を祝うそれは、夜会と呼ぶにはあまりにも小さく、ささやかなものだ。異能の力を生まれもっただけならまだしも、身体が弱く、肉親さえも亡くしているチヨコ。外界から隔絶された世界に生きるしかないチヨコの存在を知る者など、数えるほどしかいない。ましてや、夜会に招くことのできる人物となれば、さらに少なくなる。トシヒコやハルオミは、その数少ない招待客だった。

 いくらささやかであるとはいえ、名家の夜会である。事ある毎にミルクホールやフルーツパーラー、カフェーへと出かけてゆくハルオミが、望んで招待を断るはずもなかった。事実、ハルオミが夜会の招待を断ったことなど、これまで一度もない。ところが、今回に限っては、どうにもハルオミの都合が悪い――少なくとも、キョウヤとトシヒコはハルオミ自身から、そう聞かされていた。

 それだというのに、屋敷にいたはずのチヨコは、ハルオミに会っているという。どういうことなのだとキョウヤたちが困惑していれば、チヨコはぽつぽつと説明を始めた。

 先日、チヨコが異能の力を暴走させた日。ハルオミは、キョウヤたちをおびき寄せるため、チヨコをさらった。このとき、ハルオミは負の感情が部屋に残留するようにと、チヨコをわざと脅かしていたのである。

 意外なことにも、ハルオミはこのことを気に病んでいたらしい。得意とする瞬間移動でモノベ邸を訪れたハルオミは、手土産をたずさえていた。貴族院を納得させるためとはいえチヨコ嬢には怖い思いをさせてしまったからなあ、詫びも兼ねてきみの願いを叶えてあげようと思ってね――

 首にさげていた巾着袋を服の下から引っぱり出して、チヨコは言った。

「特別な、お薬なんだって。飲んだらね、とっても身体が楽になるの」

 頻繁に外へ出るのはまだ難しいだろうけれど、少しずつ体力をつければ、それも無理なことではない。小学校へだって、きっと自分の足で通えるようになる。

「それに、キョウヤとトシヒコが自転車を買うのは、まだむずかしいからって」

「あの人は、また余計なことを」

 ぼやいたキョウヤを見つめ、チヨコは首をかしげた。

「でも、本当のことなのでしょ」

「そうなのだけれどね」

「キョウヤは自分の口から、きちんとチヨコに説明したかったんだ」

 チヨコの頭を撫でて、トシヒコも身をかがめた。

「そのために、今日は一風変わったものを用意していた。なあ、そうだろう?」

 にやりとしたトシヒコにうながされ、キョウヤはじっとトンビの中に隠していた両の手を見せた。かじかみ、赤くなった手の上にあるのは、白く丸みをおびたもの。庭木の葉でこしらえた耳の根もとで、赤い瞳がきらりと光る。

「雪ウサギ!」

 チヨコが明るい声をあげた。

「これ、キョウヤが作ったの?」

「おおよそはね。耳と目は位置が悪いと、トシヒコに直された」

「しかたがない。おまえが不器用だから」

「そんなことあるものか」

 むっとしてトシヒコに言い返せば、鈴を転がすようにチヨコは笑った。

「楽しそう」

 走ることや、雪で遊ぶだけではない。キョウヤとトシヒコの他愛のないやりとりさえもが、チヨコにとってはあこがれなのだろう。キョウヤが留守にしている間のチヨコは、ほとんど部屋に一人きりなのだから、無理もない。哀れに思うと同時、キョウヤの胸には慈しみの情が湧く。努めておだやかに笑い、キョウヤは言った。

「さ、手を出してごらん」

 ぎこちなく差し出されたチヨコの手のひらに、雪でできたウサギをそっと移してやる。「冷たい」と、チヨコはうれしそうに言葉をこぼした。瞳をかがやかせながら雪ウサギを見つめ、かわいい、かわいいと、しきりに呟く。キョウヤは、チヨコには気づかれないよう、冷えきった両手をポケットに押しこんだ。異能の火で温めることもできなくはないのだが、チヨコは異能の力に敏感だ。気取られてしまうくらいならば、時間はかかっても自身の体温でぬくめることをキョウヤは選んだ。

 トシヒコとそろって立ちあがり、チヨコのようすを微笑んで見守る。夢中になって雪ウサギと目を合わせていたチヨコは、やがて、ふと表情を変えた。

「ねえキョウヤ、トシヒコ。この子の目って」

 キョウヤはトシヒコと顔を見合わせ、にやりとする。「きれいだろう」と、目を細めた。「耳飾りだよ」

 この耳飾りの存在を、キョウヤが知ったのは偶然。タバコ屋のハナコから、どこそこで売られている耳飾りがきれいなのだと、聞かされたためだった。空いた時間で、ふらりと見に行けば、なるほど澄んだ紅色がうつくしい耳飾りだった。

 しかし、自転車ほどではないにしろ、それなりに値が張る。そこで、キョウヤはトシヒコに相談をもちかけた。すると、トシヒコもちょうどチヨコへの贈りものに悩んでいたらしい。学生の身分では自転車に代わるようなものなど、そう容易く都合できはしないのだから、無理もない。結果、キョウヤとトシヒコは互いの持ち合わせを出し合い、この一対の耳飾りを買ったのである。

 もっとも、思いつきでこれを雪ウサギの目にすると言ったときは、トシヒコも大層おどろいたようだった。だけれど、雪は溶けるものだ。チヨコに届けたところで、きっと翌日には跡形もなくなっているだろう。それは、あまりにもさみしいことだと、キョウヤは思う。いかに自然の摂理であろうとも、刹那の思い出にしてしまうことが、キョウヤはおそろしいと感じる。だからこそ、雪でウサギを作ったのだ。その身のほとんどが溶けようとも、瞳に埋めこまれた耳飾りだけは、カタチとして残るようにと。

 ようやく、手がぬくまってきた。雪ウサギを手にしたまま、目を丸くしているチヨコの頬へ、キョウヤは手を伸ばす。誕生日おめでとう――



 帝国議会により結成された、超異能力特務隊。その存在は、決して一般大衆に知らされることはなかったが、以降、帝都トウキョウでは集められた超異能力者たちが暗躍するようになる。

 これは大正二十七年、細雪がちらつく二月某日のことであった。
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