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寄せ集め短編集

 ペットのフェネックが死んだ。

 享年十四歳。人間のそれで換算すれば、御歳八十以上。大往生だった。

 今年で二十四歳になる私にとって、「彼」は、人生の半分以上をともに過ごした兄弟のようなものだった。

 私の十の誕生日に迎えられた彼は、黒くぬれた丸っこい瞳と大きな三角耳が特徴的な、好奇心のかたまりだった。何を見ても、瞳をかがやかせ、その大きな耳をぴんとまっすぐに立てていた。もっとも、晩年の彼はふてぶてしくも図太い性格へと変わり、掃除機でつつかれたって、お気に入りのクッションの上で昼寝をしていたものだったけれど。

 そんな彼の名前は「スマリ」といった。由来は、日本の首都東京から遠く離れた北の先住民族『アイヌ』の言葉。そして、その意は「キツネ」である。

 至極安直なネーミングセンスだなんて言わないでほしい。そもそも、これは私がつけたものではない上に、本来ならきちんとした名前ですらなかったのだから。

 というのも、私の先祖は北海道の開拓民で、先住民族であるアイヌの人たちと親交があったのである。当時、病弱で友人の少なかった私のためにとスマリを譲ってくれたブリーダーさんは、そのアイヌの血を引いていた。

 アイヌは文字を持たない民族で、その言葉の多くは現代に残っていないという。自身の身体に流れる血を誇りに思っていた彼女は、アイヌの言葉――アイヌ語が滅びてしまうことを恐れていた。そのため、普段からアイヌ語を日常生活で使っていたのである。つまり、彼女は彼のことを「スマリ」と呼んでいたのだ。

 おかげで、自分の名前をすっかり「スマリ」だと思いこんでしまった彼は、当時の私が一生懸命考えて決めた名前では、振り向いてくれることすらなかったのである。

 そして、それはずっと変わらなかった。時折フェイクをかけ、彼を呼ぶときに私が決めた名前を混ぜたこともあったのだけれど、そういうときの彼は決まって不思議そうに私を見るだけだった。

 今際の際、私が泣きながら「スマリ」と呼ぶと、彼は残る力を振り絞るようにして耳を動かし、小さく鳴いた。結局、最期のときまでスマリは「スマリ」のままだった。

 スマリは冷たく、硬くなって、私の生活から姿を消した。部屋に染み着いたにおいも、日を追う毎に薄れていく。なのに、私はどうしてもスマリの使っていた物を片付けることができなかった。アカシアの木を削って作られた餌入れ、白い陶器の水入れ、寝床になっていた籐の籠――そうして、それらが目に留まる度に、ぽろぽろと涙があふれてくるのだ。

 スマリは死んだ。死んでしまった。もういない。

 そんなことはしっかりと理解しているし、スマリが生きものであった以上はしかたのないことだとも思っている。これは自然の摂理だ。命の定めだ。だのに、私は何をしているのだろう。好きで始めたはずの仕事にも、まるで身が入らない。

 自分で選んだ仕事ひとつ、まともにできないなんて情けない――そう愚痴をこぼした私に対して、五つ年上の兄は言った。

「お前とスマリはいつも一緒だったから、しかたないんじゃないの」

 今は一人暮らしをしている兄は昔から面倒見がよく、職場でも部下や後輩たちに好かれる。おまけに趣味が料理ときたものだから、実家にいたころは職場の人たちを連れてきては、手料理を振る舞うこともしょっちゅうだった。

 この日だって、兄の住んでいるアパートに連絡もなしに転がりこんできた私を、嫌な顔ひとつせずに迎え入れてくれた。身内の贔屓目だと言われるかもしれないけれど、こんな兄が三十路を前にして未だ結婚できないというのは、世のお姉さん方の審美眼を疑うところである。

「でも、周りの人に迷惑ばっかりかけてさ」

 兄が用意してくれたハチミツミルクをちびりと飲んで、私はうつむいた。

「今だって、兄さんに甘えて」

 改めて言葉にすると、ますます自分がどうしようもない人間に思えてくる。情けなさに視界がぼやけて、思わず唇を噛みしめた。それに気づいたのだろう、兄は小さく息を吐く。

「考えすぎなんだよ、チカは。別に俺はなんとも思ってはいないし、お前とスマリの仲なんて公認だったでしょ」
「兄さん、その言い方は語弊があると思うんだ」
「わかってるよ、半分は冗談」

 ココアの入ったマグカップで口もとを隠し、兄は喉で笑った。「半分は冗談」ということは、残りの「半分」は本気なのだろうか。

 もっとも、私のことをよく知る兄が、そう茶化してくるのも無理はない。なにしろ、これまでの私ときたら、恋人たちが浮き足立つバレンタインにはスマリの食べられるおやつを考え、休みがあればスマリを連れて外へと出かけ、友人たちから長期旅行に誘われた際には「スマリの世話があるから」と断り続けてきたくらいだ。おかげで、生まれてこの方、彼氏ができたことは一度もない。

 けれども、私がスマリに対してこうまで過保護だったのには、ちゃんと理由があるのだ。

 実は、フェネックという動物は、イヌ科のキツネ属なのである。つまり、犬の仲間ということだ。ところが、フェネックはペットとしては珍しい部類に入り、犬猫のような専用のおやつもなければ、面倒を見てくれるペットホテルもほぼ存在しない。そうなると、必然的に世話ができるのは飼い主である私だけということになる――

 この事実に気づいたとき、私はまだほんの小学生だったわけなのだけれども、それでも立派に母性本能というものは備わっていたらしい。私は、自分こそがスマリを守らなくてはならないという使命感に駆られ、生涯スマリの面倒を見ると心に決めたのである。

 身体が弱いのにと心配する母の声も聞かず、毎日スマリを散歩へ連れていった。熱を出して学校を休んでも、スマリの世話だけは欠かさなかった。思えば、私の生活はスマリを中心にして回っていたのかもしれない。

 だからこそ、なのだろう。スマリがいなくなった今、私は自分がどうして生きているのかさえわからない。

「チカ、お前にとってのスマリは、とても大切な存在だった。家族同然で、手のかかる弟みたいなものだった――わかるよ、お前の気持ちは。俺にだって妹がいるんだから」

 手にしていたマグカップを机に置いて、兄は言った。

「けどね、俺はそろそろ、お前自身を大切にしてほしいんだよ」

 スーツのネクタイを緩めた兄の手が、ぽんと私の頭を叩く。

「お前は俺と違って自営業だろう? しばらく休みをつくって、失くしたものを埋める時間を作ったらいいんじゃないかな。他の誰でもない、お前自身のために」

 北海道にある父さんの実家を覚えてるか、夏休みに帰省する度、お前はスマリを連れて裏のフキ畑で遊んでいたよね――


   ※


 空港に降り立った私を出迎えてくれたのは、父方の親戚であるサチさんと、その旦那さんのソウジロウさんだった。

「いらっしゃい、チカちゃん。ずいぶんと大きくなって」

 サチさんの笑顔を見ると、自然と肩から力が抜ける。私はつられるようにして笑い、改めて二人に頭をさげた。

「お久しぶりです。また、お世話になります」
「ああ、いいともいいとも。さあ、荷物を貸して」

 朗らかに笑うソウジロウさんが、私のキャリーケースを引いてくれる。かと思ったら、彼はとたんにおどろいたような顔をして、

「おやチカちゃん、きみは身体が弱いのに、こんなにも重いものを持ってきたのかい」

 その言葉を聞いた私は、思わず吹き出してしまった。

「いやだな、ソウジロウさん。私の身体が弱かったのは、中学生までのことですよ」
「そうですよ、あなた。チカちゃんは中学校にあがってから、とたんに元気になって。裏の畑だけじゃなく、山のほうにまで遊びに行っていたじゃありませんか」

 サチさんにまで言われ、ソウジロウさんは「ああ、ああ、そうだったね」と、なんだか少し恥ずかしそうに笑う。

「けれどもお前、わかるだろう? こうして一人で来てくれたチカちゃんを見ていると、どうにも昔のことを思い出してしまうんだよ」

 初めて会う私たちの前で、産まれたての小鹿みたいに震えていたあの日のことを――

 それはまだ、私とスマリが出会う前。私の身体が今ほど丈夫ではなく、喘息を患っていたころのことだった。療養のために親もとを離れ、私はたった一人で、この北の大地を訪れた。

 学校は休みがちで友達もおらず、ひどく内気だった当時の私にとって、それがどれだけ心細いことだったか。きっと、サチさんとソウジロウさんは、よくよくわかっているだろう。

 二人が営む民宿の一室に引きこもり、私は朝も夜もなく泣いていた。二人は仕事の合間に私の世話を焼いてくれていたというのに、ろくに口さえ利かなかった記憶がある。今になって思い返してみると、あのころの私は本当に礼を欠いた子どもだった。

 それでも、二人が私を見捨てることなんてなくて。今だって、こうして私のことを気にかけてくれている――死んでしまったスマリのことを口にしないのが、何よりの証拠だ。

 けれど、だからこそ、そこに違和感が生まれる。

 私がスマリと出会ったのは、そもそも、二人がブリーダーさんにかけ合ってくれたおかげで。二人だって、スマリをとても可愛がってくれていて。私がスマリを連れて遊びに来るときは、スマリのためのおやつを用意してくれていたくらいだったのに。なのに、今は誰もスマリのことを口にしない。最初からスマリなんていなかったみたいに、知らないみたいに、彼のことが話題にのぼることはない。

 ああ、本当にスマリは死んでしまったんだな。なんて、今さらになって、そう思った。

「そういえば、いつからだったんでしょう」

 ソウジロウさんの運転する車の後部座席で揺られながら、私はふと呟いた。

「私が、サチさんやソウジロウさんと、こうして話をするようになったのって」

 記憶の中にいる私は、部屋にこもって泣いているか、笑顔で二人のそばにいるかのどちらかで、間を繋ぎ合わせる記憶だけが、すっぽりと抜け落ちている。

 すると、二人はおおらかに笑って言った。

「さあ、どうだったかしら。私も、もう忘れてしまったけれど」
「記憶なんて薄れていくものだからね。でもきっと何か、ちょっとしたきっかけがあったんだろうさ」
「そうですよね」

 私は小さく笑ってうなずいたものの、どうしてか、なにかが引っかかる。仮に何か、ソウジロウさんの言うような「きっかけ」があったとするのなら、それは一体なんだったのだろう――

 いくら考えてみたところで、答えは出ない。けれど、思い出せないようなことなら、きっとそれはそう大した事柄ではないのだろう。私は考えるのを放棄して、空港で手に取った観光パンフレットを広げた。

 ここ北海道には、たくさんの観光地がある。富良野にはラベンダー畑があり、美瑛にはパッチワークの丘や青い池があり、世界遺産にも認定された知床には知床五湖やカムイワッカ湯の滝がある。少し趣を変えるなら、函館も世界三大夜景として有名だ。

 けれども、今回の旅行で、私がそういった場所へ行くことはない。

「ごめんなさいね。今、うちには下宿に来ている子がいるものだから」

 本当は観光地に連れていってあげたいのだけれど。と、申しわけなさそうに言うサチさんの言葉に、私は「そんなことないですよ」と、かぶりを振った。

「民宿がある白金温泉だって美瑛の立派な観光地ですし……それに、私は別に観光が目的じゃないですから」

 その言葉だけで、サチさんもソウジロウさんも、私の思いを察してくれたのだろう。二人は一瞬だけ口をつぐんで、それならゆっくりしていきなさいと、そう言ってくれた。

 北海道へ行くことを勧めてくれた兄が何を意図していたのかなんて、私は知らない。それでも、私はスマリとの思い出を辿りたいと思ったのだ。

 かくして、私たちの乗る車が民宿に着いたのは、ちょうどお昼時。車を降りれば、懐かしい木造二階建ての建物が、少しも昔と変わらない姿で、そこにあった。

「今も、フキ畑はあるんですか?」

 車のトランクからキャリーケースを出すソウジロウさんを手伝いながら、私は少しだけ落ち着かない気持ちで問いかける。すると、ソウジロウさんはきょとんと目を丸くした。

「フキ畑?」
「ほら。民宿の裏手にある畑ですよ。以前は、大きなフキがいっぱいあったじゃないですか」
「ああ、あのフキか」

 得心したようすを見せたソウジロウさんは、けれども、どこか困ったように笑った。

「あれはね、畑ではないんだよ。昔から自生していたフキでね、私たちで育てていたわけではないんだ」
「じゃあ、今は」
「数は大分減ってしまったけれど、まだいくらか自生しているよ」

 気になるなら先に見てくるかい、と。そう聞かれて、私はとっさにうなずいていた。

 無言でキャリーケースを預かってくれたサチさんの厚意に甘え、私は駆け足で車から離れる。そうして、私が民宿の裏手へと回った瞬間、反対から歩いてきていたらしい人と鉢合わせになってしまった。勢いあまってぶつかりそうになる私を、けれども、相手は軽く半身をそらして避けてくれる。

 私は、数歩ほど、たたらを踏んだ。あわてて、ぶつかりそうになった相手を振り返る。すみません――ただ、そう謝るつもりだった。

 だのに、喉もとまで出かかっていたその言葉は、相手の姿を目にしたとたんに、泡のように消えてしまった。

 そこにいたのは、一人の青年だった。不思議な幾何学模様が描かれたアイヌの民族衣装をまとい、葉柄が一メートルほどはあるだろうフキを、まるで傘のようにして手に持っている――

 そのとき、私の脳裏に浮かんだのは、アイヌのコロポックル伝説だった。その伝承に登場するのは、アイヌ語で「フキの下に住む人」という意味を持つ、妖精のような小さな人々。

 目の前にいる青年の姿が、見たこともないはずのそれと重なった気がした。

「ぼくの顔に、何かついてるかい?」

 知らず、まじまじと青年の顔を見つめてしまっていたのだろう。小さな笑みを浮かべて問われ、私ははっと我に返った。

「あ、いえ、す――すみません」
「いいよ、気にしていない。ぼくの服装も、珍しいだろうからね」

 青年は大きなフキの葉柄を肩に乗せて、からからと笑った。

「それよりきみ、今日この民宿に来るっていう本州の人だろう? 名前は、チカだったね?」
「私のこと、知ってるんですか」

 私が目を丸くして瞬きをすると、青年は軽く首をかたむける。

「あれ、ソウジロウさんたちから聞いていないかい? 民宿に下宿しているヤツがいるって」

 たちまち、私は合点がいった。そうか、サチさんの言っていた「下宿している子」というのは、彼のことだったのか。

 そして、そんな私の思いは表情に出ていたのだろう。下宿をしているという民族衣装の青年は、にこにことして言った。

「ぼくは、アイノネ。会えてうれしいよ、チカ」

 ――アイノネ。

 聞き慣れない響きの名前だった。でも、その名前が持つ独特な響きは、どことなく覚えがある。

「もしかして、あなたはアイヌの?」
「うん、まあそんなところかな」

 私の問いかけに対して、アイノネは軽くうなずいてみせた。

 どうりで聞かない名前だと思ったと、そう正直に私が言えば、彼は「アイヌの言葉だからね」と、機嫌よさそうに答える。

「人からはよく珍しがられるよ。でも、ぼくはこの名前が気に入っているんだ」
「何か特別な意味でもあるんですか?」

 私が首をかしげて問うと、アイノネは「さあ、どうだろう」と、意味深に笑った。

「それより、この先には畑と山しかないはずだけど、何か用でもあったのかい」
「まあ、少し。フキを確認しに行こうと思って」

 今度は、アイノネが首をかしげる番だった。「フキを?」

 彼の反応は当然なのだろう。遥々、本州からやってきておいて、いの一番にフキを見に来るだなんて、そんな観光客はそうそういない。だけど、

「私がここに来たのは、フキを見るためだから」

 目を伏せて、私はそう返す。すると、アイノネはしばし沈黙して、息を吐くような相づちを打った。

「はあ、変わっているね。フキが見たいなら、足寄のラワンブキでも見に行ったほうがいいだろうに。あそこのフキは日本一大きいって、聞いたことないかい?」
「ううん、ここじゃないと、だめなの。スマリと一緒に遊んだここじゃないと」

 かぶりを振った私に、アイノネは再び首をかしぐ。

「スマリ? キツネのこと?」
「あ、違――いや、違わないんだけど、私が飼っていたフェネックの名前で」
「フェネック」
「北アフリカとか、砂漠地帯に住んでいるキツネの仲間なの」

 私はアイノネに軽く説明をして、かつて、この先に広がっていた景色を思った。トウモロコシやトマトが植えられた畑の一角。そこを埋め尽くしていた丸い大きな葉っぱ――

「もう死んでしまったけど、スマリとはよくここのフキ畑で一緒に遊んでいたから」

 だから、ここにはスマリとの思い出が、たくさん残っているはずなのだ。私はそれを探して、拾い集めて、このぽっかりと穴が空いてしまった胸を埋めなくてはいけない。だって、そうしなくては、きっと私は動けない。仕事だって手に付かないままで、またみんなに迷惑をかけてしまう。

 小さいころと同じ。身体が弱くて、いつも両親や兄に心配をかけていたあのころと、何も変わらない。

 そんなことを思って、私は密かに自嘲する。

 けれど、ふと気がついた。アイノネが、妙に静かだった。私が顔をあげると、彼はどこか憮然とした顔で、こちらを見ていた。

「何も、変わらないんだね」

 と、小さな声で呟く。かと思えば、アイノネは私の横をすり抜けて、民宿の入り口へと歩いて行ってしまった。

 突然、一人取り残されるかたちになってしまった私は、わけもわからず、呆然とする。しばらくの間、その場に立ち尽くしていることしかできなかった。


 その後、何年かぶりに私が訪れた民宿裏の畑は、ずいぶんと様変わりしてしまっていた。きれいに整えられた畑に育つ野菜は日の光の下で瑞々しい青葉を広げる一方で、あのころ、たくさん茂っていたフキは、山のふもとの日陰に、ひそりと残るだけとなっていた。


   ※


「荷物は部屋に運んでおいたから、食事ができるまで、チカちゃんは休んでいたらどうかしら」

 民宿の厨房から顔を覗かせたサチさんは私を見て、やさしく微笑んだ。労るような、そんな微笑みかただった。

 私はサチさんの気遣いに感謝しながら、「ありがとうございます」と、お礼を口にする。彼女が着ている服に目が留まったのは、そのときだった。さっきまで、落ち着いた色合いのワンピースを着ていたはずの彼女は、今はどういうわけかアイヌの民族衣装を着ていた。

「サチさん、その服」
「ふふ、素敵でしょう? うちの民宿、今はこの民族衣装が制服みたいになっているの」

 口もとに手を当て、サチさんは上品に微笑む。私の脳裏に、先ほど出会った青年のことが浮かんだ。

「もしかして、下宿している彼がアイヌの民族衣装を着ていたのも?」

 あらもう彼に会っていたのね――サチさんに言われ、私はフキを見にいく途中で偶然会って話をしたのだと伝える。けれど、会話の途中で彼が急に機嫌を悪くしてしまったことだけは、口にすることはできなかった。民宿に戻っただろう彼が、どこで聞いているかもわからなかったし、何よりもこれからお世話になるサチさんやソウジロウさんに心配をかけたくはなかった。

 そして、そんな私の思いを露とも知らず、サチさんは言葉を続ける。彼には民宿の仕事を手伝ってもらっているの、あまり笑わない子だけれどとても良い子なのよ、歳はチカちゃんと同じくらいだと思うから仲良くしてあげて――

 サチさんから渡された部屋の鍵を手に、私は内心で首をかしいだ。

 笑わない? 彼が――アイノネが?

 私は、ほんの数分前に出会った彼のことを頭に思い浮かべる。だけれど、彼が去り際に見せた表情を除けば、アイノネは始終笑っていたように思えた。

 少々怪訝に感じる。でも、今の私にとっては、それも大した問題ではなかった。あてがわれた懐かしい部屋へと足を踏み入れる。部屋の片すみに置かれたキャリーケースの横を素通りし、二階にあるその部屋の窓を開け放つ。東京のそれよりも幾分かからりとして冷たい風が、私の頬を撫でた。私は窓のふちに顔を伏せ、小さくうめく。

「私は、どうしたらいいの」

 ここに来れば、スマリとの思い出に浸ることができると思ったのに。そうすれば、病気が治ったときと同じように、また元気が出て、以前のように生活できると思ったのに。誰にも、迷惑をかけずにすむと思ったのに。

 そのとき、頭の中で誰かのささやくような声が聞こえた気がしたけれど、それは私の心には届かない。あのフキ畑がなくなってしまったことが、よほどショックだったのだろうか。それまでは微塵も感じていなかった疲労感が、どっと押し寄せてくる。

 サチさんは今ごろ昼食を作っているだろう。きっと、半刻もしない内に食事はできあがる。そんなことはわかっているはずなのに、私の意識は疲労感に蝕まれていく。押し寄せてくるのは、抗いがたいほどの睡魔。

 眠ってはだめ、と。何度も、うわごとのように繰り返した。だのに、その抵抗も虚しく、気がつけば私は深い眠りへと落ちていた。

 そうしてみたのは、まだ私が幼いころの――喘息を患って、この民宿に預けられていたころの夢だった。

 時刻は深夜。月明かりだけが差しこむ部屋の中で、「私」は風邪薬の入った小瓶を握りしめていた。きつく閉まっていた瓶のふたを開け、おもむろにゴミ箱の上でひっくり返す。たちまち、瓶の中にあった錠剤は、ばらばらとゴミ箱の中へと落ちた。けれど、「私」以外に人のいない部屋では、この暴挙を咎める者もいない。「私」は空になった瓶を確認するや否や、今度はこんぺいとうが詰められた袋をポケットから引っぱり出した。そして、その一粒一粒を、丁寧に小瓶へと移す。小さな瓶は、すぐにこんぺいとうでいっぱいになり、「私」はこんぺいとうの詰まった小瓶を満足げに見つめる。高鳴る胸を小さな手で押さえながら、そっと部屋の外へ出た。寝静まった民宿を抜け出して、向かう先は――

「チカ」

 ふと、誰かの呼ぶ声がして、意識が浮上しかける。遠くのほうで、サチさんの声が聞こえた。けれど、続いたのは、それを制するような小さな息の音。

「疲れているんだ。休ませてあげよう」

 そう言ったのは、誰だったのだろう。顔を確認しようとしても、まぶたが重くて持ちあがらない。少し浮きかけた意識とは反対に、私の身体は未だ深いまどろみの底にいる。まるで、ゆりかごに揺られているような気分だった。

 身体が柔らかなものに横たえられて、あたたかなものに包まれる。とても、心地よいと思った。とんとんと、規則正しいリズムで、かすかな振動が伝わってくる。誰かが、子どもをあやすみたいにして、布団を叩いている――

「おやすみ、チカ」

 ひどくやさしい、ささやくような声を最後に、私の意識は再びまどろみへと沈んだ。


   ※


 目が覚めたとき、私は民宿の布団で横になっていた。壁の時計に目をやれば、午後四時を示している――私はぎょっとして飛び起きた。どうやら三時間以上も眠ってしまっていたらしい。あわてて布団から抜け出そうとして、そこではたと気がついた。枕もとに、何かが置かれている。

 それは、古びた小瓶だった。ふたの塗装ははがれかけていて、すっかり変色したラベルには風邪薬の文字。そして、そんな瓶いっぱいに詰められているのは、

「こんぺいとう……?」

 夢でみた遠い日のできごとが、私の頭によみがえる。気づけば、私は民宿の裏口へと足を運んでいた。


 茜色に染まる畑の中を歩く。山のふもとに残った小さなフキの群生地には、先客がいた。アイノネだった。けれど、彼は私に一瞥を寄こしただけで、すぐにまた土いじりを始める。

 少しの間、私はその背中をながめていた。スマリと出会うよりも前の――今の今まで、すっかり忘れていた遠い記憶が、陽炎のように揺らいでいる。私は、アイノネの近くに腰をおろして、口を開いた。

「ねえ、コロポックルって知ってる?」

 アイノネは、答えない。けれど、私はかまわずに続けた。

「昔、サチさんからもらった本に書いてあったんだけど、彼らはフキの下に住んでいて、心を許した人にしか姿を見せなかったんだって。だから、アイヌの人たちは、彼らに贈りものをするとき、いつも夜にこっそりと置いていたって」

 相変わらず、アイノネは黙っている。無視をされているのか、それほどまでに嫌われてしまったのか、私にはわからない。ただ、不思議とこわいとは思わなかった。

「私ね、それを読んでから、コロポックルに会ってみたくてしかたなかったんだ。だから、まだここがフキ畑だったころ、瓶にこんぺいとうを詰めて、フキの葉の下に置いたことがあった」

 そう言って、私は枕もとにあった小瓶をアイノネの前に置く。休むことなく土をいじっていた手が、ようやく止まった。

「思い出したの?」

 静かな声で問われて、私はうなずく。

「うん、思い出したよ。コロポックルさん」

 ――あなた、コロポックルなの?

 遠く過ぎ去ってしまった、あの日。小瓶のようすを見に、再び、フキ畑を訪れた私は、小瓶を手にたたずむ彼を見て、そう問いかけていた。

 当時、私よりも少し背の高い少年だった彼は、肯定もしなければ、否定もしなかった。ただ黙ったまま、小瓶を持ちあげて見せるので、私は言った。

「あげる。全部、あなたにあげる」

 彼は一言、「ありがとう」としか言わなかった。フキ畑に座りこんで、こんぺいとうを食べながら、ずっとそっぽを向いていた。

 けれど、そのようすをながめる私を追い払おうとはしなかったし、ぽつりぽつりと不思議な物語を口ずさむように語って聞かせてくれた。今になって思えば、あれはきっと「ユーカラ」という、アイヌに伝わる叙事詩だったのだろう。

 ともあれ、その日から、私はフキ畑に入りびたるようになった。物知りで、やさしい「コロポックル」に――彼に会って、話をしたい。ただ、それだけだった。彼の迷惑なんて少しも考えないで、無邪気に笑っていた。

「あのときは、ごめんなさい。あなたにも、いろいろあったはずなのに、帰り際には必ずまた会う約束までつけて」

 だのに、アイノネは首を横に振った。

「謝ることなんてない。ぼくは、それで良かったんだ」

 そうして、彼は言った。あの日、民宿裏のフキ畑で出会うよりも前から、彼は私のことを知っていたのだ、と。

 いわく、もともと彼の家はソウジロウさんやサチさんと頻繁に交流があって、私が民宿に来たばかりのときも、姿を見かけていたらしい。当時、サチさんがくれたアイヌ伝承の本は、もとを辿るとアイノネからの贈りものであって、スマリを譲ってくれたブリーダーも、彼が紹介してくれたのだという。

「どうして、そこまでしてくれたの?」
「一目惚れだよ」

 アイノネは、そっぽを向いたまま言った。

「放っておけないと思ったんだ。ずっと暗い顔をしてるから、笑った顔が見たかった」

 思ってもみなかった言葉に、私は瞬きも忘れて彼の横顔を見る。そして、おもむろに彼は私を振り返った。びっくりするくらいに、まっすぐな目だった。

「きみは、自分を疎かにしすぎだ。ぼくが、どんなに大事にしたって、きみはきみ自身をぞんざいに扱う。今だって、そうだろう? きみが考えているのは、自分の心を癒やすことじゃない。周りの人間に迷惑をかけないことだけだ」

 彼の言うとおりだった。返す言葉なんてなかった。そのはずなのに、私の口は必死に逃げ道をさがす。

「でも、だって私なんて」
「そういうの、いい加減にしてくれないかい。きみは何度、ぼくの気持ちを踏みにじれば気がすむのさ」

 容赦ない言葉が突き刺さるようだった。胸が、痛くて、たまらない。耳をふさいで逃げだしたいのに、アイノネの真剣な目が、私をとらえて放さない。

「きみがそんなだから、ぼくはいつまでも、コロポックルのふりをしていなくちゃならないんだ。唯一、きみが自分自身をさらけ出せる相手でいられるように、物知りでやさしい妖精でいなくちゃならない」

 アイノネは言った。

「ねえ、チカ。俺はそろそろコロポックルから、人間になってもいいかい? アイノネという名前のとおりに、一人の人間になっても、かまわないかい? 俺という人間に、本当のきみを見せてよ。それとも、きみ一人も支えられないくらい、俺は頼りなく見えるのかい?」

 言葉は、出なかった。代わりに、あふれ出した大きな感情が、涙になってこぼれ落ちる。うれしいのか、かなしいのか、もうしわけないのか、それすらもわからない。ただ声もなく泣く私の涙を、アイノネはそっと服の袖で拭ってくれた。


   ※


 本州へと帰る日、アイノネは空港まで見送りに来てくれた。

「もう、大丈夫かい?」

 問われて、私は笑顔でうなずく。

「もう大丈夫だよ」

 けれど、アイノネの表情は変わらない。心配性なのか、はたまた私の信用がないのか、彼は質問を繰り返す。

「スマリがいなくても?」
「うん」
「コロポックルがいなくても?」
「うん」
「俺が、いなくても?」
「それは、大丈夫じゃないかなあ」

 私が苦笑いになると、ようやくアイノネは満足そうに笑った。

「そう、それならよかった」

 私よりも二つは年上であるらしいのに、その顔は屈託ない子どものそれそのものだと、そう思う。なんとなく、私もつられるようにして笑ってから、ふと呟いた。

「そういえば、ソウジロウさんもサチさんも、遅いね。トイレ混んでるのかな」

 空港まで車で送ってくれたのは、迎えのときと同じく、ソウジロウさんとサチさんだ。アイノネは車が苦手だそうで、そもそも免許を取っていないらしい。都会に住んでいるならまだしも、広大な北海道の片田舎で、車なしに生活するなんて大変なのではないか。そう思ったのだけれど、当の本人はけろりとして「遠くへ行くときは近所の人に送ってもらうから」などと言っていた。

「あの二人なら、帰ったよ」

 唐突に、アイノネが言った。「は?」なんて、思わず間の抜けた声が出る。

「なにそれ、それどういう」
「あとはお若いお二人で、だってさ」

 ひょいと肩をすくめてみせるアイノネに、私の顔は一気に熱を持った。

「か、からかわないでよ」
「からかってないよ」

 と、アイノネは至極真面目な顔をする。

「でも、そうだな。せっかく二人がくれた機会だから」

 にこりとして、アイノネが唇を寄せた。かすかにふれた熱だったのに、私の顔は、発火直前である。酸欠の金魚よろしく口をぱくぱくとさせるしかない私を見て、アイノネは喉を鳴らして笑っている。

 乙女の純情をもてあそぶなんて、ひどい男だ。内心で、そう憤慨していれば、ふいに彼の悪戯っ子がなりを潜めた。

「俺、手紙書くから」
「うん、私も書くよ。必ず」

 このご時世に手紙なんて、少々古風じゃないかと思わなくもないけれど、彼の機械音痴っぷりを目の当たりにした今となっては、もはや何も言うつもりはない。

「アイノネのフキ畑、楽しみにしてるからね」
「足寄のフキには負けるだろうけど、がんばるさ。チカとスマリだけじゃない、俺にとっても大切な思い出の場所だからね」
「うん、それじゃあ――また、夏に」
「また、夏に。あのフキの下で」

 さびしさを胸に笑いかければ、まるで鏡でも見ているかのように、さびしげな笑みが返ってくる。それがなんだかおかしくて、でも、少しだけ安心する。今回の旅行では、スマリを亡くしたさびしさを癒やすどころか、大切な人と離れる寂しさまで増えたというのに、おかしな話だ。

 でも、きっと、こうして人は生きていくのだろう。良いことも、悪いことも、少しずつ積み重ねて、人生という地層をつくっていく。そして、その上にまた、新しい時代を生きる人たちの地層が重なっていくのだ。私が今、「彼」のつくりあげた地層の上に立とうとしているように。

 閉じたまぶたに、小さな影が浮かんで見える。影は、心配そうに、何度も何度もこちらを振り返っていた。どこかへ行こうとしているはずなのに、私を見ては足を止めている。

 ――もう大丈夫だよ。

 胸の内で、私は影に語りかける。

 ――私はもう、大丈夫だよ。

 投げかける言葉には、抱えきれないほどの感謝をこめた。すると、それまでためらっていた「彼」の足が、動く。一歩、また一歩と、前へと進む。やがて、一目散に駆けだした「彼」の向こうに、よく似た影がいくつか見えた。そうか、と思う。「彼」には、待たせている相手がいたのだ。

 ――スマリ、お前も飼い主に似て気にしいだね。

 そう小さく笑えば、「彼」は高く鳴いて応えた。あなたほどじゃないよと、そう言われたような、そんな気がした。
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