第一部

 カガミハラマサタミ――幼名タツマルは、純粋な人の子ではない。武家に生まれた男と、「りゅう」という霊獣れいじゅうとの間にもうけられた、角をもつ子であった。

 異なる種族でありながら、惹かれあったという二人の愛のカタチを、タツマルは知らない。しかし、天上に住まう霊獣たちの間で、それが禁忌とされていたらしいということだけは、よく知っていた。

 ゆえに、タツマルに母親はいない――仲間の龍たちに、連れ戻されて。ゆえに、タツマルの父親は死んだ――天より降り注いだ、いかずちの雨に撃たれて。生まれて間もないタツマルに遺されたのは、父親が継いだカガミハラの家と、その家臣たちだけだった。

 しかして、家臣たちは龍の逆鱗にふれることをおそれたのだろう。タツマルの物心がついたときには、ただ一人の男を除いて、とうにカガミハラの家を去っていた。

 ほかの家臣たちがおそれをなす中。父母を失ったタツマルの世話役を買ってでたのは、当時、まだ元服したばかりのトオイリシノという男だった。町民の噂によれば、トオイリ家の嫡子であるシノは、赤子であったタツマルの世話をよく焼いてくれていたという。そのかいがいしさを見た町民たちの間では、カガミハラの家をのっとる算段ではないかという話が、まことしやかにささやかれるほどだった。

 だが、このシノという男は、そういった類の輩ではない。幼くして、タツマルはそのことを確信していた。

 無愛想ながら、人一倍義理人情に厚く、そのうえ口まで堅いシノは、タツマルが問うても当時の多くを語りはしない。家を去らず、今もなお世話を焼くその理由を「先代からの恩」と語るものの、生まれながらにして多くを失ったタツマルを、不憫に思う気持ちは少なからずあったのだろう。親恋しさにタツマルが泣くと、シノは決まって沈痛な面持ちをしていた。

 シノがタツマルに尽くす一方で、タツマルもまた、シノに全幅の信頼を寄せた。武士になるべく教えられたことは、すべて覚えて実践したし、進んでトオイリ家の剣舞を教わることもあった。厳しくも優しく、父か兄かのように接してくるシノを、タツマルは家臣以上の存在として慕っていた。

 けれど、否、だからこそ。タツマルは五つにもなると、夜な夜な屋敷を抜け出すようになった。シノにも町民にも気づかれぬよう、人目を忍び、町外れにある森へと行く。そうして、森の茂みへ隠れるようにしてうずくまると、決まってタツマルは声を殺して泣いた。シノがタツマルの涙を痛々しく見つめるのと同じように、タツマルもまた、シノの沈んだ顔を見るのがつらかった。かといって、親のいない悲しみや町民に疎まれる悲しみに耐えられるほど、タツマルは成熟していなかった。それが、理由だった。

 よもや、そのようすを見ている人間がいたなどとは、ついぞ、タツマルは思いもしなかったのである。

「どうしたんだい、おちびさん」

 ある晩。常のように、ひそりと泣いていたタツマルへと語りかけてきたのは、覚えのない女の声だった。タツマルは肩をふるわせて、声のしたほうを振り返った。知らぬ間に、風呂敷包みを持った娘の姿が、近くの木立に浮かびあがっている。

 こんな夜ふけに、若い娘が一人で森にいるというのは、妙なことだった。たまゆら、幽霊か物の怪の類かと疑った。忍ばせていた短刀に手を伸ばしかける。しっかりと地につけた足で、娘はタツマルのもとへと歩いてくる。

「何か、悲しいことでもあったのかな」

 問われて、タツマルはようやく、今の今まで自分が泣いていたことを思い出した。落ちぶれても、タツマルはカガミハラ家の次期当主であり、男だ。得体の知れぬ女に、涙を見られて気遣われるなど、なんと情けないことか。自分がこんなありさまだから、シノにまで、あんなつらそうな顔をさせてしまうのだ――そう思うと、タツマルは自身の不甲斐なさが悔しくてたまらなかった。

 タツマルの手は、短刀の柄をつかむことも忘れた。こみあげる涙を、着物の袖で乱暴にぬぐう。とたん、伸ばされた白く細い指に、手首を捕らわれた。肩がはねる。背筋が凍えた。タツマルは、とっさに手を振りほどこうとしたが、娘の手はびくともしない。決してほどけぬ力でタツマルの手をつかんだまま、娘の唇が言葉をかたちづくる。

「泣いてもいいんだよ」

 するりと、手首が放された。娘が、タツマルの前にかがみこむ。だのに、どうしてか、タツマルは動けない。ただ、あまりにも、娘の声はおだやかだった。瞳はひどく凪いでいて、その微笑みは、タツマルが未だかつて見たことがないほどに、やわらかだった。

「男の子だって、声をあげて泣いてもいいんだよ」

 娘の手が、そっとタツマルの頭にふれる。それは、町で見かける母子の間で行われるものであって、家臣であるシノは絶対にすることのない行為だった。涙が、勢いよくあふれ出した。

「母上様」

 違うとわかっているはずなのに、口からこぼれ落ちた言葉。しかし、娘は何も言わなかった。聞こうともしなかった。ただ、タツマルの頭を抱きしめて、とんとんと背を叩く。

 タツマルの、顔も覚えていない母への思慕が、急激にふくれあがってゆく。母の胸は、腕は、目は、声は、これほどまでにあたたかいものなのだろうか、これほどまでに、やさしく包みこんでくれるものなのだろうか――

 もはや、娘の正体など、どうでもよかった。タツマルの胸のうち、溜まりにたまった想いが、堰を切ってあふれ出す。わあわあと、赤子のように声をあげて泣きだしたタツマルを、けれども、娘は黙ってあやし続けていた。

「ずいぶんと目元が腫れてしまったね。これでお冷やし」

 散々に泣いたタツマルが落ち着くと、おもむろに娘は言った。タツマルの目元に、ぬれた手ぬぐいがふれる。ひりひりとした皮膚の痛みに、手ぬぐいの冷たさが心地よい。しばしの間、タツマルはその心地よさに身をゆだねていた。

 だが、赤の他人の――それも、女の胸で泣いていたのだと気づいたとたん、タツマルはとてつもない羞恥心に駆られた。あわてて、娘の手ぬぐいをひったくる。おどろいたらしい娘が「おや」と、目を瞬かせて、タツマルを見た。タツマルの頭に、シノの言葉が思い起こされる。武士たるものは礼節を重んじねばならない――他人であろうと女であろうと、タツマルの取った行動は、自分に尽くしてくれた者へするようなことではなかった。

 すぐに、タツマルは己のおこないを恥じた。うつむきながらも、娘に謝らねばと思い、口を開く。だのに、口の中は妙に渇いていて、喉が閉じてしまったかのように声が出ない。それが、先刻まで声をあげて泣いていたせいだと思えるほど、タツマルはおろかではなかった。

 恥に恥を重ねたあまり、声も出せずにいるタツマルのようすを、娘はどう思ったのだろうか。膝にのせていた風呂敷包みを地面へとおろしながら、こう問うた。

「甘いものは、お好きかな」

 何ゆえ、そのような言葉が娘の口から出てきたのか。タツマルには、とんと見当がつかなかった。おどろいた拍子に顔をあげれば、娘はおだやかな笑みをたたえている。シノがもつそれとは違う、娘のやわらかな空気に、タツマルはすっかりのまれていた。おずおずと、うなずいたタツマルを見るや否や、娘はうれしそうに笑みを濃くした。

「よかった。もし嫌いだなんて言われたら、ほかに、どうしていいのかわからなくなるところだった」

 まるで、このために何かを用意していた、というような口ぶりだった。タツマルが怪訝に思ったところ、それが顔に出ていたのだろう。娘は、いたずらっぽく言った。

「おちびさんは、いつも泣いている。たまには笑った顔が見たくてね」

 この娘は、いつからかはわからないが、もう長いこと、タツマルが一人で泣いていることを知っていたのだ。

 理解したとたん、タツマルの耳は熱くなる。その一方で、何か言い知れない感情が胸のうちで熱をもった。胸を焦がすような、それではない。かじかんだ心を温めるような、そんな熱だった。しかし、生まれて初めて抱いたその熱の名など、未だ幼いタツマルにはわからない。不思議な気持ちで、胸のあたりを押さえた。

 果実の皮でもむくかのように、娘の手が一枚一枚、風呂敷包みを開いていく。あらわになったのは、ふたつ並んだ竹の水筒と、小さな壷だった。

「これはね、ハチミツなんだよ」

 壷のふたを開けながら、娘が言う。タツマルは、目を丸くした。「おまえ、なんでそんなものを持ってる」

 以前、タツマルはシノから聞いたことがある。ハチミツは、ミツバチという虫が花の蜜を集めたものであって、とても甘くうまいが、滅多に手に入るものではないのだと。そのために、ハチミツには大変な高値がつき、甘味好きで有名な東雲の領主とて、年に一度か二度ほどしか口にできないという。

 それがどうして、一見ただの村娘にしか見えない人間の手にあるのか。かすれた声で問えば、娘は自らの唇に指を押し当てた。

「ミツバチたちから、少し分けてもらったんだ。だけど、領主様には内緒にしておいてほしいな。今回は特別、おちびさんのためにと分けてもらったものだから」

 言葉も通じない虫が、集めた蜜を人間に分けるだなんて、そんなことがあるのだろうか。タツマルは疑問に思ったのだが、どうしてか、その娘を見ていると、それが真実であるように感じられる。ひとつ、タツマルがうなずいたら、娘はまたにこりとして、壷の中に匙を入れた。ハチミツだという、とろりとした液体をすくいあげ、それをタツマルの口元へと運ぶ。

「口をあけてごらん」

 うながされ、タツマルは少し躊躇した。けれども、娘はおかまいなしに「ハチミツが垂れてしまうよ」と、急かす。思いきって口を開けば、ハチミツをからめた匙が差しこまれた。舌の上で蜜がとろけ、濃厚な甘みをともなって口いっぱいに広がる。鼻を抜けた甘い香りは、草花の放つそれとよく似ていた。

「お味はいかがかな」

「うまい」

 タツマルは即答していた。染みこんだ蜜さえも惜しい。匙をしゃぶるタツマルを見つめ、娘は「それはよかった」と微笑んだ。

「ハチミツは甘くておいしいだけじゃなく、栄養も豊富なんだ。中でも特に栄養のある蜜があってね、それは普通のミツバチたちも口にすることは難しい」

 娘は、ハチミツの入った壷をタツマルの手にのせて、言葉を続ける。

「人の暮らす世界と同じように、ミツバチにも強いものと弱いものがいるのだけど、おちびさんはその違いを知っているかい」

「知らない」

 タツマルはしゃぶっていた匙を蜜壷に沈めながら、正直に答えた。そして、再びハチミツをからめた匙をしゃぶる。

「親が違うのか」

「いいや、彼らの親はほとんど同じだよ」

「なら、生まれつきなのか」

「多少はあるかもしれないけれど、それも決定的な違いではないかな」

「じゃあ、強いのと弱いのとはどう違うんだ」

 タツマルの問いかけに、娘は意味深に微笑んだまま答えた。

「食べているものの違いなんだよ。子供のころは、みんな同じだけれど、さっき言った――特に栄養のある蜜を与えられた子だけが強い蜂になれる」

 その答えは、タツマルにとって思ってもみないものだった。思わず、タツマルは娘をまじまじと見つめる。

「そうなのか?」

 本当に、ただ食べるものが違うだけで、強さとは変わるものなのか。問うたタツマルを見つめ返す娘は、笑みを絶やすことなく、ゆるりとうなずいた。

「そう。食べものはね、大切なんだ。私のいた國にはショクイクという言葉もあるほどでね――」

 娘が、そう言いかけたときだった。タツマルの耳に、聞き慣れた声が届く。

「タツマル様! こちらにいらしたか!」

「シノ」

 藪をかきわけながら駆けてくる家臣の姿を見つけ、タツマルは立ち上がった。続くようにして、娘も立ち上がる。シノは見慣れぬ娘の姿に困惑したようだったが、タツマルの顔を見て表情を変えた。

「タツマル様、その目はどうなされた! まさか、きさま!」

 手ぬぐいで冷やしたとはいえ、あれだけ泣いたのだ。タツマルの目元は、さぞかし、ひどいことになっていたのだろう。娘をねめつけたシノが、腰に差した刀に手をかける。刹那、ぴりぴりとした何かがタツマルの全身を駆け巡った。

「シノ、やめろ」

 かすれてはいたが、常よりもずっと低い声がタツマルの口から出る。シノが、おどろいたようにタツマルを見た。

「タツマル様、しかし」

「シノ!」

「も、申しわけございません」

 語気を強めたタツマルに、シノは急いで刀から手を離す。深く頭をさげたシノの姿を見つめ、タツマルは高ぶる気を鎮めようと目をつぶった。

 知らなかったとはいえ、家臣であるシノが、恩人とも呼べる娘に刀を向けようとした――丸腰の民に刃が向けられることは、死と同義だ。きっと、こわい思いをさせてしまったに違いない。なればこそ、タツマルは今度こそ娘に謝罪しなければならない。

 ところが、タツマルの振り返った先。そこに立つ娘からは、怯えたようすを見て取ることはできなかった。それどころか、目を細めてすらいる。娘は、タツマルと目が合うと、また笑った。

「お迎えのようだね」

 おどけたように言い、ちらと頭をさげたままのシノを見やる。それだけで、不思議とタツマルの胸は軽くなった。

「すまない。世話になった」

 口から出た、素直な詫びと感謝の気持ち。娘は微笑みを絶やさずに、ただ、ただずむだけだった。

 後ろ髪引かれる思いを振りきり、タツマルはきびすを返す。すぐに、シノが後に続いた。しずしずとついてくるシノの気配を感じながら、タツマルは振り返ることなく口を開く。

「シノ、俺は強くなる」
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