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夏油傑には、大事に思っていた女性がいた。
3つ年下の女性が。
彼女との出会いはまるで少女漫画のように最悪だった。
「変な前髪じゃ」と夏油を見て彼女はそう言った。
「変な喋り方じゃ」と夏油は彼女の喋り方を真似た。
はじめこそ喧嘩ばかりをしていた。
いや、喧嘩と言うよりはじゃれ合いに近いだろう。
必然とでもいうべきか。
二人はいつしかお互いに惹かれあい、そして付き合いはじめ同棲も始めた。
休みの日は一緒に映画を観たりデートをしたりした。
仕事がある日でも必ず朝食と夕飯は一緒に食べることを欠かさなかった。
そんなごく普通のありふれた幸せを、二人の時間を過ごしていた。
でも、そんな幸せは長続きはしなかった。
言ってしまえば簡単なことだ。
彼女は許せなかった。
夏油が夏油自身の犯した過ちを許せない夏油を許せなかった、嫌気がさした。
ただ、それだけのこと。
お互いに言いだすまでもなく察していた。
「それじゃあ」「うん」と、たったそれだけの受け答えで二人は他人になった。
「別れたんですか?」
「なるべくしてなったっていった感じだよ。お互いにそれがショックってこともなかったしね。……ただ、無性に家にはいたくなかった」
洗濯物が少ないとか、お風呂上りにすぐにお湯の栓を抜いてしまうとか。
部屋で一人でいることを感じる、それを気にしている自分が嫌だった。
だから。
「2,3日旅行に行こうと思ってね」
「どこに行ったんですか」
「さぁ。どこに行ったんだろう。どこでもよかった。ぼーっとできる場所さえあれば。結局、全然ボーっとできずに旅行の途中で帰って来てしまった」
家に帰って部屋に入ろうとしたとき、夏油は気が付いた。
部屋の鍵が開いているということに。
夏油が驚いて突っ立っていたら玄関の扉がゆっくりと開いた。
姿を見せたのは、部屋を出て行った彼女だった。
照れくさそうに笑う彼女はたった一言「お帰りなさい」って言った。
「びっくりした……。何してんの?」
「料理をしていたのじゃ。もうすぐできるぞ」
「だって私達……」
「とりあえず中へ入るのじゃ」
ニコニコと彼女は笑って、夏油の腕を引いた。
部屋の中を漂う臭いに鼻を引く尽かせた。
それに気づいた彼女はにやりと口角を上げる。
「オマエの好きな蕎麦を作っておるぞ!!しかも手打ちじゃ!!」
「………」
「蕎麦湯も作るからな!!」
「……理子」
「あとは……トッピング何がいいかわからなかったが、とろろ、納豆、のり、胡麻、柚子胡椒、好きなの選んでくれ!!」
「理子!!」
夏油の声に、彼女―――天内理子は下を向いて唇を噛んだ。
そして声を震わせ、ゆっくりと夏油を見上げる。
「……ごめんなさい。私、戻って来ちゃった……っ」
いつもの高尚な喋り方ではなく、ごく普通の喋り方で謝る天内。
こういう時、こんな喋り方をするのは本当に反省をしている時だと夏油は知っている。
だから、夏油はその小さな身体を力強く抱きしめた。
天内の温もりを確かめるように、ここに天内がいると言うことを確認するように。
お互いに身体を離し、見つめ合い、静かに顔を近づけ、唇と唇が重なり合うその時。
天内はまるで泡のようにその姿を消した。
突然目の前で姿を消す天内を夏油はただ茫然と見つめていた。
そしてぽつりと。
「……夢だったんだ」
「夢?」
「帰りの電車の中でうとうとと眠ってしまっていたようなんだ。実際家に着いてみると、部屋は綺麗に掃除してあった。洗濯物も物干し竿にちゃんと干してあった。ドアのポストに外から入れたんだろう、部屋のスペアキーが玄関に転がっていたよ。……ただ、玄関の鍵は開けっぱなしだった」
「駄目じゃないか、それ……」
「……部屋の中にポツンといることに、ああ、これが現実なんだなってそう思ったよ」
がっかりが半分、どこかほっとしたのが半分。
夏油はそう言った。
これで本当に終わりなのだと。
「平気だと思っていたが、どうやら弱かったようだ。体調は悪くなるし仕事も手につかない。結局、無気力状態。生きていながら私は死んでいた。他にやることなんでもあったのに、他にやることがなんにもなかった。なんだかそんな感じがしたんだ。生きていて空しかった。それで……」
言葉尻を濁した。
"何か"は彼の顔を窺うように覗き込み「自殺、したんですか?」と問いかけた。
夏油はその問いかけに小さく笑みを零すと首を左右に振った。
「立ち続けることを諦めたんだ」
「そうですか」
「もういいだろう、私の話はここまでだ」
これ以上話すことは何もないと。
これ以上何かを聞いてくるのはやめろと。
そういう牽制をした。
それに夏油にはやるべきことがあった。
これから夏油はどうするべきなのかを考えなくてはいけなかった。
超えてはいけない扉を超えるべきなのか、今来たもうなくなっている道を戻るべきなのか。
それを考えなくては。
しかし、"何か"がその手を拒んだ。
夏油の手を引いて「アナタの話はまだ終わってません」と真っ黒な表情でそう言ってきた。
吸い込まれそうになるその真っ黒い顔に、夏油は思わず目を背ける。
それを感じてか"何か"は夏油の手を放し、まるで無邪気な子供のように彼の周りをくるくると回った。
「ひとつ、ヒントをあげましょう」
くるくると回っていた"何か"は、夏油の顔にその顔を近づける。
あと数ミリでキスしてしまいそうなその近距離に、思わず"何か"を突き飛ばした。
尻餅をついた"何か"は痛がる様子もなく、お尻をついた状態で夏油を見上げた。
「流転、という言葉をご存じですか?」
「流転?」
「じゃあ、輪廻という言葉は?」
「それなら知っているよ。生まれ変わりという意味でしょう」
"何か"は言った。
「霊魂は不滅」というインドでの考え方だと。
だが仏教では、三界六道に永遠に生死をくり返して永遠に苦しむと唱えている。
そう、言った。
「それが何?」
"何か"が何を言いたいのかが分からない夏油は眉間に皺を寄せた。
「もう一つ。"チャート占い"をご存じですか」
チャート占い。
誰でも一度はやったことがあるかもしれない。
「YES」の矢印に分岐していく占いのこと。
「簡単にいうと、アナタはチャートの上を輪廻しているんです」
「は?」
「アナタの答えは今まで"NO"しかなかった。"NO"の答えがチャートの上を輪廻しているんです。アナタは永遠に"NO"を選び続ける。永遠にゴールには辿りつけない。どこかで"YES"を選ばない限り、アナタはずっと流転を続けるんです」
"何か"の言葉に、夏油は何を思うのか。
真っ黒い顔の"何か"を見つめる。
一体目の前のこいつはなんなのか。
何度も思った疑問が、先ほどまでよりもずっと色も重さも増した。
「さぁ、もうわかっただろう。君は一体どちらを選ぶんだい」
「オマエは一体……」
「私は君の中にある"真理のYES"。これでわかっただろう」
「…………いや、何もわからないんだが」
「本当に?本当に何もわからないのかい?」
真っ黒な"何か"の表情が、少しずつゆっくりと霧が晴れていくかのように剥がれていく。
その間にも"何か"は夏油に語り続ける。
「まだ気づかないのかい。忘れちゃったのかな。それともとぼけているのかい。私が君をここまで連れてきてやったのに。真実を認めずに立ち続ける君を。私がここまで導いてあげたんだ。私の名前は――――――」
"何か"の表情があと少しで見える。
その瞬間、眩い光が夏油を照らした。
あまりの眩しさに目を瞑る夏油。
次に目を開いた時、"何か"の表情はまた黒くなっていた。
「さぁ、選んでください。君はどちらを選ぶんだい?」
"何か"は、夏油の後ろにあった扉のノブに手を掛け勢いよく開けた。
扉の向こうには、一脚の椅子が鎮座していた。
4本の足が、夏油を見つめている。
「扉の向こうには何が見えますか。見つめてください」
夏油はゆっくりと振り返り、椅子を見つめる。
立ち続けるのか、それとも座るのか。
どちらの気持ちを選ぶのか。
それを選択するのは夏油自身。
そして、夏油が選んだ選択は――――――。
「アナタはやっと境界を越えました。また、立ち続けてください。アナタはまた"YES"を選ばなかった。また、ここからはじめてください」
それだけを言って、"何か"は夏油の前から姿を消した。
一人の残される夏油は、扉の向こうにある椅子を見つめる。
そしてゆっくりと扉に近づき、扉を静かに閉めた。
数年前、男は立ち続けることを諦めて苦しみの鎖から解き放たれた。
心地よい痛みが男の心中の痛みを和らげてくれた。
目の前には白い煙がたちこめ、気付くと男は階段を上っていた。
どこまでも続く階段をどこまでも上っていった。
不思議と疲れはなく、そして男はこの行動を理解していた。
そのうち階段にも終わりが見えだし、男の前に扉が現れた。
男はまた、この場所に戻って来ていた。
扉の向こうには椅子がある。
――――――男はまた、立ち続けていく。