【吉野順平】寂しさを口ずさむ
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それからどのくらいの時間が経っただろうか。
吉野君は学校を休むようになった。
私がピアノを弾くときに限って音楽室へと来て、静かに私の隣でその音色を聴いている。
どこで何をしているのか。
聞き出していいものか、わからなかった。
「今日は、私の弾きたい曲を弾いてもいいかな」
吉野君のリクエスト曲を弾き終えた私は、彼の顔を覗き込むように尋ねる。
一瞬だけ驚いたような顔をした吉野君は前髪をいじって小さくうなづいた。
「君も知っている曲だよ。口ずさんでもいい」
「え……?」
私は鍵盤に手を置いて、ゆっくりと音を奏でる。
「これ……」
「そう。きらきら星」
誰もが知っている童謡。
きらきら星だなんて。日本語訳した人は一体誰なんだろうね。
元は、1750年代のフランスで流行した作曲者不詳のシャンソンなのに。
それを モーツアルトが、そのメロディから変奏曲を作ったものなのに。
元の題名は"ああ、お母さん、あなたに申しましょう"だと言うことを知っている人は一体どれ程いるのだろう。
「Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are」
「英語版ですか」
「そう。日本語より好きなんだよね、私」
「それ、なんかわかるかも」
「一緒に歌うかい?」
「え⁉」
目をまん丸にした後、彼はしどろもどろになった。
思わず声を上げて笑えば顔を真っ赤にして「なんで笑うんですか」と抗議をしてきて、それがまた面白くて笑った。
「学校、来なよ。授業に出なくていい、放課後だけでいい。こうして一緒にピアノでも弾いて歌おうじゃないか」
「…………」
何も言わずに俯く吉野君。
椅子から立ち上がって、私は彼の頬に手を添えて触れるだけのキスをした。
凪いだ水面のように穏やかで、熱く、短い優しいキス。
リップ音と共に重なっていた唇を離した。
「ふふ、茹蛸みたいだ」
「な、なんで……」
「さぁ、なんでだろうね。考えてみなよ。考えて、そして、私の所にきて吉野君の回答を聞かせて」
それだけ言って、私は彼の右目に隠れる痛々しい跡に優しく触れ音楽室を後にした。
そして数日後。
全校集会で体育館に集まっていた生徒たちは急に苦しみだし床に倒れた。
私もそのうちの一人。
苦し紛れに見た最後の光景は。
憎悪や嫌悪にまみれた表情をした吉野君の姿だった。
そのまま意識はブラックアウトし、気づいた時には病院にいた。
病室のベッドに横たわり、ただ、窓から見える空に恋焦がれる。
吉野君の担任だという太った男が私の病室を訪れた。
私が以前から彼と親交があったことを誰かから聞いたのかもしれない。
男は、吉野君がいじめに遭っていたことを知っていた。
知っていながら知らないふりをした。
それを悔いて、罪を背負うだのなんだのと懺悔を私に言ってきた。
「……それを私に言ってなんになるんです?吉野君に言うべきでしょう」
「それも、そうだな」
「人のこと言えませんけどね、私も」
「え?」
「聞きたくないことばかり聞こえる世界だから、私は聞かないように耳を塞いだ。見たくないものばかり見える世界だから、私は見ないように目を瞑った。それだけです」
救えると思っていた。
あんなキス一つで。
彼の中に残る心の傷を。
そんなわけ、ないだろうに。
担任の先生は、吉野君はどこか遠くの場所へ引っ越したと言った。
どこへ引っ越したのか、それは教えてくれなかったけど。
もう二度と会えないんだろうなということだけはなんとなくわかった。
誰もいなくなった病室。
私は真っ青な空を眺めながら口ずさんだ。
「Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are」
きらめく、きらめく、小さな星よ。あなたは一体何者なの?
吉野君。
"好き"の反対は"寂しい"だって言った事、覚えているかい。
だったら、"寂しい"の反対は何なんだろうね。
やっぱり"好き"なのかな。
どうなんだろう。
どう思う?
吉野君。
「さびしいよ」
君の回答、私はずっと待っているよ。