【夏油傑】ハネムーンでもリバティでもない
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いつの頃からか、そんな妄想をしていたことすら忘れてしまっていたのですが、スグルと話しているうちに、その当時の気持ちが ほんのりと思い出されてきました。
幼い頃に耳で覚えた童謡を大人になって口ずさんだときと同じように、確かな意味などわからずとも、自分のどこかに、古い記憶となって結び付いているようでした。
触れているだけで、気持ちが相手に伝わるなんて。
現実にはありえないと。
今ではちゃんと分かっています。
大人ですから。
どれだけ肌を触れあわせても、喉を震わせて言葉に乗せなければ、誰にも心の奥は見てもらえないのです。
ずっと一緒に、なんてあの人には言えませんでした。
夜に逢瀬を重ねても、朝が来れば、魔法は解けて私はひとりになるのですから。
心に溜まった重さを小さな息にして吐き出すと「不思議だなぁ」とスグルが言いました。
「お姉さん、まるで、他の世界へいってたみたい」
そうよ、と私は言いました。
もう彼の首筋に寄りかかるようにして、頭を乗せてしまっていました。
「私、夢から醒めて現実にかえってきたの」
「どこに行ってきたの」
「秘密」
一度は心の奥にしまおうとしましたが、結局、感情を零すように私は白状しました。
「お付き合いしていた人の家よ」
「へえ、素敵だ」
「素敵じゃないわ。奥さんに会ったのよ。私」
一度好きになったら、相手の年齢や生い立ちなんて、関係ないと考えるのが私でした。
今でもそれは間違っていないと思います。
例え、自分と出会う前に、他の女性と結婚していたとしてもです。
『妻に勘付かれたよ。君に会いたいと言っている。今度我が家に来て欲しい』なんてドライブ中に言われた時も、軒の深い大屋根の家の前まで来た時も、私は何も怯えていませんでした。
そればかりか、昂揚感さえありました。
これで正々堂々と戦えるのだ、と勇んだ気分でいたのです。
狡猾な家庭弁護士や屈強な男の人が私を非難しようと待ち構えていたとしても、愛と若さを盾にすれば耐え抜けると踏んでいました。
「旦那に不倫された女の人って、幸薄そうで惨めな細君って感じの人か、それか怒り狂って喚き散らすような大年増のおばさんしかいないと思ってた」
私は罪悪感もなく、正直に打ち明けました。
スグルに話していたつもりはなかったのですが、私の言葉を聞いていたのは彼しかいないのも事実です。
「でも、現実ってドラマや漫画とはやっぱり違ってたわ。奥さまってものは強いのね」
迎え入れてくれたその人は、洗練された、人当たりの柔らかそうな空気に包まれた女性でした。
『あら、かわいらしいお嬢さん』
その人は私を見るなり言いました。
『いつも主人と仲良くして頂いて』
平然と、落ち着き払って。
だけど目は笑っていませんでした。
食えないお人、と言うのでしょうか。
私は拍子抜けと同時に、警戒心を飛び越えて、この人には勝てない。
と悟ることになりました。
私の膨らんだ気持ちはみるみるしぼんでしまい、はぁ、とか、まぁ、みたいな曖昧なことしか言えませんでした。
なんだか、ブランド物で着飾って来た自分が、ほんの小娘にしか思えなくなったのです。
「暖かくもてなされて、夫婦の会話を目の前で交わされて、私、入り込む隙が無かったの。この奥さまから、私の想い人を奪うのは無理だなと思ってしまったの。最後に、外で簡単にお話をして、帰って来たところなのよ」
私は一気に喋りました。
本当はもっともっと語れることは多かったのですが、そうすると日付が変わり夜が明けてしまうような気がしたので、残りは自分の中だけにとどめておくことにしました。
締めくくりとして、
「負けちゃったのよ、私」
「その割には、案外へこたれてないみたいだね」
「だって、完敗だったもの」
「失恋した女の人って、もっと泣くんだと思ってたけど」
スグルの指摘通り、私はこの道に入る前のところにあるバーで既に散々泣いていたのですが、それは高校生に教えなくても良いことでしょう。
貰った手土産のお菓子をお店で捨て鉢に食べてしまったのだけれど、手をつけなかったら運んでくれたお礼にあげられたのに、とも考えました。
傷を癒す一番効果の高いくすりは、時間なのだと私は知っています。
時の流れが、靴擦れの痛みと恋の記憶を薄めてくれるまでは、泣いたり、喚いたり、自分をやめたくなったり、他人に話を聞いてもらわなければなりません。
その月日を思うと、今はただ気が遠くなるだけでした。
目の前にある栗色の髪の毛に頬を寄せるようにして、私は問いをひとつ零しました。
それに対する返答は迷いも根拠も無いものでしたが、今の私にとっては、十分にこの先の慰めとして機能するものとなりました。
「いい女になれるかしら、私」
「なれると思うよ」