【夏油傑】ハネムーンでもリバティでもない
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その日、私はひどく酔っぱらって夜道を歩いていました。
男の人と、お別れしてきたのです。
バイバイ、また明日ね、ではありません。
はっきりとは言われなかったものの、もうこの人から連絡など来ないのだろうな、と思われるお別れでした。
遠くまで続く辺鄙な道はきらびやかな大通りの喧騒を遠ざげ、頭上には濃紺の闇を払う白い半月が浮かんでいる。
そんな夜です。
高貴な姫君を隠す御簾のようにむら雲が上弦の月をとり巻いており、私は磨かれたプレセリブルーの石を思い出していました。
薄くなった雲の端は輝きに染められ、その夢幻的な光景が気なぐさみをくれるので、散々バーで泣き腫らした目の周りを、またじんと熱くして。
かつて あの人にねだって買ってもらった、ツートンカラーの小さなバッグを指で振り子にしてぞんざいに扱いながら、ひとり道行く私の足取りは よたよたと疑わしいものでした。
それは自棄になって煽ったショットグラスのせいでもありましたが、一番の原因は両足のかかとが痛くてしょうがなかったからでしょう。
私は新しい靴を履くと、必ずと言っていいほど靴擦れを起こす女なのでした。
それを分かっていながら、同じことを繰り返すのです。
傷ついて、痛みに泣いて、忘れた頃にまた新しいものを求めて。
恋の別れも靴擦れも、いつの間にかお馴染みのものになっていましたが、慣れることはこの先もずっとないでしょう。
末端が美しい女性は幸せになれる、と、いつか大人に教えてもらったことがあります。
まだ私が少女の頃です。
髪の毛、靴、指の先。
自分の足を傷つけない高級な靴を買うほどの余裕は持っていませんでしたが、それでもおまじないのように言いつけに従って、綺麗の魔法を自分にかけてきたつもりです。
でも、私、幸せに選ばれなかった。
意地の悪い女の子の苛めにも似たチクチクと刺す針のような靴擦れの痛みに耐えて、もうだいぶ歩いていました。
遠くで愛想なく疎らに光っているアパートたちの明かりを頼りに、スウェード地のパンプスから両足のかかとを外し、つま先だけて歩くようにして私の寝室がある方角へと向かいます。
もしこの時、何も知らない人が近くにいたら、(私の気が付かなかっただけで、実際、ほんのすぐ後ろにひとりいたのですが)私の姿が、極夜に星を目指して歩く間抜けなペンギンに見えたかもしれません。
私はただ、全部忘れて、全部を心の火にくべて、ふわふわの雲の中 眠りに就きたいだけの純粋な心でいました。
けれど赤く滲むような足の痛みは、私が私を辞めることなど許してくれそうにありません。
そのうち、アルコールの力も借りて、もう靴なんて、という頭になるまで、時間はそうかかりませんでした。
靴なんて、何の意味があるんだろう。
私は考えました。
だって、ちっとも前に進まないのです。
痛い思いをして歩いているのに。
靴なんて、いらない。
置いていこう。
私には健やかな足がある。
そうして、私は冷たい夜のアスファルトの上を、ストッキングのままで歩いてゆくことを選びました。
ほとんど素足の裏で地面を確かめ、案外どうってことなく、一歩一歩を紡ぎます。
男の子に背中をつつかれたのは、そのすぐ後のことでした。
「足、だいじょうぶ、ですか?」
男の子、という表現は少し誤解を生むかもしれません。
どちらかと言うと、青年に近い外見でした。
見たことのない制服に身を包んだ、少し変わった髪型をした背の高い人が私を見下ろしていたのです。
細長い切れ長の目で、唇に弧を湛えているその表情は、少しだけの幼さと少しだけの大人びた雰囲気があり、彼のことを男の子と呼べばいいのか青年と呼べばいいのか戸惑ってしまいました。
びっくりしちゃった、と態とらしく言うその人は、片手に私の靴を提げていました。
「前を歩いてた人が、突然靴を置いてったから。どこのシンデレラかと思ったよ」
そうして肩をすくめてみせます。
「あいにくだけど、」
私は左足にクロスさせるように右足を後ろに引き、視線をずらして返事をしました。
「それ、私の足にはぴったりじゃないのよ」
できるだけ、親しみ難い子の印象を与えるように、ガラスの靴じゃあるまいし、と呟いてもみせました。
だって、とても他人と話すような気分ではなかったからです。
けれど相手はお構い無く、「わぁ、本当、痛そう」と呑気に私の足元に目を向けました。
私のかかとを覆っていたのは30デニールという心許ない単位だけでしたから、形の合わない靴に擦れて水ぶくれができてしまっているのが月明かりでもよく見えました。
赤紫色が大きく広がり、剥がれた皮の下にある未熟な組織から、正体の判らぬ液体が染みだしていて、思わず顔をしかめます。