【加茂憲紀】まだ間に合うからジュリエット
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加茂の指摘通り、私はそういう時期なのかもしれない。
けれどホルモンなんて目に見えない物質にご機嫌が左右されるなんて思いたくもなかった。
バカか、ともう一度呟いてシンクに寄りかかるようにした。
無造作に置いた手が、フライパンに触れた。
「熱ッ!」
思わず叫ぶ。
最悪だ。
手の甲に、染みるような痛みが広がった。
親指の付け根。
みるみるうちに赤くなってくる。
最悪だ。
涙が滲む。
最悪だ。
泣きたい。
「馨」
ドアがまた開いた。
シャワーを浴びて来いと言ったのに。
汗だくのままキッチンに入ってきてほしくはない。
今度は一体何なんだ。
あぁ、バスタオルが無いのか。
子どもか。
「ベランダに干してるから」
鼻をすすりながら先に言う。
「もう乾いてると思う」
「火傷をしたのか」
ずい、と加茂が隣まで歩み寄ってきた。
「『熱い』と聞こえた」
「別に」
「どこだ」
渋々右手を差し出す。
手首を掴まれて、そのまま蛇口の水に当てられた。
少しだけ驚いて身じろぎしたが、右手はびくともしなかった。
熱を持った傷口が冷やされて、痛みが次第に和らいでいく。
「火傷をしたら、 すぐに冷やせ」
加茂の口調は、軍隊の隊長のようだった。
危なくなったら、すぐに撤退しろ。
負傷兵は置いていけ。
それから私の顔を覗きこむようにして、「泣くほど痛むのか」と聞いてきた。
「そうだよ」と私は答えて、また鼻をすすった。
涙がボロボロと出ていた。
火傷のせいではなくて、加茂が好きなのに嫌いなごちゃごちゃのせいで泣いてるんだ、と言っても多分、わかってもらえないだろう。
火傷の痛みにかこつけて、泣くのだ、私は。
「シャワー浴びてきてって言ったじゃん」
「少し考え事をしていた」
「加茂も何か考えるんだ」
「当たり前だ」
冷たい水道水が手の上を滑って排水口へ吸い込まれていく。
重ねるようにして押さえている加茂の手の上にも、水が流れて、滑って、シンクの穴に吸い込まれていく。
流れて、滑って、吸い込まれて。
改めて見ると、私たちは手の大きさが全然違う。
指先に感覚がなくなってきた。
「もういいよ」と引っ込めようとしたけれど、「まだだ」と余計に強く握られた。
「3分以上は冷やす必要がある」
「いいよ、加茂も冷たいでしょう?」
「平気だ」
「水道代が勿体無いよ」
「そのくらい気にするな」
いつもと変わらない口調だった。
「きちんと冷やさなければ、馨の手に火傷の痕が残ってしまう」
その時になって初めて、私の腰に手が回されていることに気が付いた。
火傷の痕が残ってしまう、火傷の痕。
それを気にしてそんなに真剣な顔をしているのか。
涙がぽろっと零れた。
加茂が私の顔を覗き込み、な、と少し動揺した素振りを見せた。
「何故ニヤニヤしている」
「してないよ」
と私は言ったけれど、自信はなかった。
「ニヤニヤしてるの?私」
「している。泣きながら笑っている」
そんな、と、自分でも頬の筋肉が動くのが分かった。
「そんな変な人、いないよ」
◆◆◆
タオルで手を拭いていると、加茂がフライパンの中身を覗いていた。
僅かながら、表情が明るくなるのが読み取れた。
「牛肉と玉ねぎとマッシュルームを炒めたの」
と私は説明をする。
トマト煮込みを作っている途中だった。
「あとは水とトマト缶を入れて煮込めば……」
「ハヤシライスじゃないのか?」
「え?」
「ハヤシライスじゃないのか?」
加茂が、蓋を持ったままこちらを見た。
ハヤシライスというのは、初めて私が彼のために作った料理だ。
珍しく、私にお伺いを立てているようだった。
「今ならまだ間に合うぞ」
その言葉に噴き出しそうになった。
子どもか、と言いたくなる。
口元を押さえる振りをして、できたばかりの火傷に唇を当てた。
そうだね、と私は頷いた。
「水とルーを入れて煮込めば、出来上がりだね」