【虎杖悠仁】そよめきなりしひたむきなり
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スナフキンみたいね、と誰かが言った。
ちょうど、虎杖悠仁によって繰り返されているカントリー・ソングが、3度目のスタートを切った時だった。
スナフキン。
スヌス・ムムリク。
ムーミン谷の、自由と孤独と音楽を愛する旅人。
その例えは他ならぬ、教室の後ろから3番目の窓。
開け放たれたその枠の下に腰を寄りかからせて、アコースティックギターを弾いている虎杖のことを茶化しているのだ。
親愛と、少しばかりの賛辞を込めて。
誰かあいつのこと、窓から突き落としてやりなさいよ、と忍び笑う声を背中に受けて、椎名馨は5日後に迫った定期テストの試験範囲プリントから目を上げた。
そのまま左の方を向く。
彼女と虎杖の間には、空いた机が2つ並んでいるだけだった。
3階からの青い空を背景に、ピンク色の細い髪と半袖のワイシャツから伸びる腕。
身体の重心を真ん中から少しずらして、彼は試験も、時間も、焦燥からも一時的に離れた場所で、一人で歌を唄っている。
三白眼の瞳はピックを持つ美しい指に向けられいて、伏せた睫毛は憂いの一歩手前の影を落とした。
シンプルで、緩やかで、陽気さとある種の郷愁を感じさせる、糸がほどけるような洋楽。
この放課後の教室に居残っている、歌い手を除く10人ばかりの生徒が誰ひとりとしてタイトルを口にすることができない、英語の曲。
大学受験の山場と言われる夏休みを目前にした教室内で、楽器を抱える彼の存在は極めて奇特であると言えた。
しかし、かといってそこには気紛れを演じる人間にしばしば見受けられる、本人だけは自身を疑おうとしない浮つき、いわゆる"痛い人間"の空気は片鱗もない。
なぜならひとり外れた彼は場違いどころか、この空間を支配している張本人だからである。
その証拠に、カサつきのある間延びした声とチューニングの甘いギターの音を、勉強の邪魔だの弾き語りなんて気障だのと囃し立てる者は出てこない。
彼によって奏でられる音楽は、偏差値や大学ブランドなんかに振り回されるリトたちクラスメイトを、どこか遠くの外国の田舎道をのんびり進む、藁を目一杯積んだ荷馬車に揺られている気分にさせていた。
もちろん神経質で計画的なタイプの人間は既に自習の場を他へと移してしまっているという事実もあるが。
なんにせよ、今、現在、ここ3年2組に居残っている"やるべきことを目の前にすると急に退屈に襲われる性質"を備えた男女は全員、このゆったりと弛緩していく空気の共有を心地よく思い、またその流れに身を置くことを自ら選んだ生徒たちである。
その中の1人である椎名馨は、単語帳の試験範囲に付箋を貼る作業をしていた手を止めて、暫し彼の歌声に耳を傾けていた。
そして考えていた。
この人はこんなに、英語の発音が良かっただろうか、と。
彼女の記憶している限りの、授業中に教科書本文を読み上げる彼の英語は、お世辞にも流暢とは言いがたい出来のはずだった。
なのにどういうわけだか、ここ10分ばかりの、その薄い唇の間から零れ出てくるフレーズは驚くほどに滑らかである。
まるで文章・段落・文そして文節へとぶつ切りにして息の根の止まった単語1つ1つの、発音表記やアクセントの位置に執心している同窓生を、くだらないっスね、と言わんばかりに。