【乙骨憂太】はるかぜとともに
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私が急に声を出したから、向こうもびっくりした顔をして、「え?どうも……」と困惑気味に会釈をした。
そのまま、自室へ入ろうとする。
「猫の人だ」
私が呟くと、その人の足が止まった。
まじまじとこちらを見て、あぁ、と思い出したかのように言った。
「ひょっとして、この前の」
「はい、えっと、今日、隣に越してきました、よ、よろしくお願いします」
少し無言が続いた。
ピンときていないような反応をされたので、私は慌てて自分の髪を少しつまんだ。
「か、髪、染めたんです!あの後。長さも少し切って」
印象は変わったかもしれないけれど、私です、椎名馨です、と必死に説明をしているうちに、なんだか変な気分になってくる。
会話をするのはこれが初めてなのに。
「椎名さん、ね。僕は乙骨憂太。よろしく」
柔らかい表情だったけれど、なんだか笑いをこらえているようにも見えた。
「ここに引っ越してきたんだ」
「はい。今年から大学生で!あの、ここの近くの、大学に」
乙骨さんは、向き合うと背が高かった。
何かのスポーツをしているのかなと思ったけど、体格を見るとそうでもないのかな?
私の言葉に、へぇ、と相槌を打った後、「余計なお世話かもしれないけど」と視線をドアに向けた。
「女の子が、そんなペラペラ個人情報しゃべるのは不用心だと思うよ」
確かに。
顔が熱くなる。
恥ずかしい。
私すごい世間知らずみたいだ。
「……以後、気をつけます」
「あっ、そうだ。あのこと、誰にも言ってないよね?」
あのこと?と私は顔を上げた。
猫のことだろうか。
猫のことだろうな。
頷きながら、頼りなく眉を下げている不動産屋のおじさまを思い出す。
「内緒にしてます。ただ、誰かが餌付けしてるってことはバレてるみたいで、」
「だよねぇ」
駄目だってことはわかってるんだけど、と乙骨さんは首の後ろに右手を回して「お腹空いてるのって、しんどいから。猫も同じかと思うとほっとけなかったんだ」と弱った風に笑った。
ほわん、と、あの時と同じ、私の心は柔く緩んだ。
この人、優しいんだ、と思った。
手にとるように伝わった。
「もし、猫に関して迷惑に感じたら、僕に直接言ってくれないかな。ご飯をやるのは止めるから。でも、それまでは見逃して欲しい……かな」
「私、知らない振りします。猫好きだし」
「ごめんね。ありがとう。その代わり、って言っていいか分かんないけど、なんか困ったことがあったら協力するよ。僕と同じ大学だろうし」
「本当ですか⁉」
「ここら辺で大学って、他にないでしょ?」
まさか引っ越し初日で頼れる人ができるなんて。
バンザーイ!と両手を上げたい気持ちになった。
お隣さん、かっこいい人、同じ大学!
まるでアラビアン・ナイトの大海原でシンドバッドに巡り会えたみたい、アイアムノットロンリー!
とにかく、心強かった。
じゃ、じゃあ、と早速いちばんの心配事を尋ねた。
「ここ、虫は出ますか⁉」
この質問は、どうも乙骨さんにとっては予想外だったみたいで、「虫?え、虫?......まあ、時々?出るか?出たかな?」とたくさんの疑問符を並べて口元に手を当てた。
「頻繁に、出ますか?あの……」
それ以上は言葉にしづらくて、私はもごもごと口を動かした。
乙骨さんはそれも聞き取ってくれて「ゴキブリ?」とわざわざ大きな声で繰り返した。
「僕の部屋では出会ったことはないけど……。あぁ、そういえばムカデだったら去年」
「えっ!?」
「1回だけ」
「あ、あ……、」
言葉を失う。
「苦手?」
と訊かれ、全力で首を縦に振る。
何が面白いのか、乙骨さんは、目じりを下げてくすくすと笑った。
「そっか。じゃあ、困ったら呼んでよ。すぐ叩きに行くから」
ひ弱そうな腕でガッツポーズを作って、「あ、僕見たいテレビあるから、それじゃ!」とケロリとした様子で乙骨さんは部屋の中へ引っ込んだ。
コンビニで晩ご飯を調達して帰ってきた時、春の夜空に背中を向けて、私は自分の部屋のドアに手を合わせて祈りを捧げた。
虫さんたち、出てこい。
いや、やっぱり出ないで。