【乙骨憂太】はるかぜとともに
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「築年数は経ってますけど、適度にリフォームされているので、見た感じは綺麗でしょう」
言われた通り、書面では私と同い年くらいのアパートだった。
けれど来てみてびっくり。
まるで新築みたい。
「エアコンや照明も、自分で好きな物を買って、取り替えて結構ですよ。ただし、退却時には復元が条件ですけど」
来たばかりなのに出ていくことなんて考えられない。
綺麗にします、完璧に元に戻します、と心の中で返事をしながら、修学旅行先のホテルでやったのと同じように、扉という扉を開けてみる。
脱衣所、三面鏡がある!
トイレ、消毒済の紙がかけられていて、真っ白。
清潔。
クローゼットは……うーん、ちょっと狭いかもしれない。
洋服全部入るかなぁ。
取っ手があれば手をかける。
素敵、空っぽの部屋。
素敵。
「良い物件ですよ」
おじさまは両手を後ろで組んでニコニコしている。
「立地の割に家賃も手頃ですし。ただ、いまは1階しか空いてなくてね」
バタバタと歩き回っていた私の動きが止まる。
1階、それだ。
それが私を悩ませていたのだ!
部屋探しを始めるまで私は知らなかったのだけど、1階の部屋って、女の子が暮らすにはあまりよろしくないらしい。
日当たりが悪い、とか、景色が良くない、とか、下着泥棒と虫が出やすい、とかなんとかかんとか。
躊躇してしまう。
どうしようかな、と迷う。
素敵な部屋だと思うけど。
1階って、そんな悪いのかな。
即決できない。
注意深く、周りを観察してみる。
少なくとも、日当たりの心配はないみたい。
だって自然光だけでこんなに部屋が明るいんだもの。
お洗濯物もきっと外に干したら良く乾く。
景色だって、私には関係無いよ。
普段から窓の外なんて眺めていないし。
でも、どうなんだろう。
自信がない。
やっぱり、お母さんに頼んで一緒に来てもらった方が良かったかなぁ。
電話して聞いてみようかな、と考える。
でも、ダメダメ。
これから私は大学生で、できるだけ自分で生活していかなくちゃいけないのに。
部屋だって、自分で選んで決めなくちゃ。
雨戸の開けられた窓からは春の風がそよそよと入り込んでくる。
外は垣根のようだ。
道路を歩く人の目線からは隠れる。
泥棒は入りにくいかも。
でも、虫かぁ。
緑が多い場所だし。
虫は嫌だな。
お化けが出るより嫌かもしれない。
むむ、と窓から外へ顔を突き出す。
その時、見つけてしまった。
猫がいる。
2匹。
隣の部屋の窓の下で、日向ぼっこをするようにごろごろしている猫がいた。
そして、それを内側から窓べりによりかかるようにして眺めている男の人も。
びっくりして固まっていると、その人が振り返った。
黒いセミロングの髪が似合う穏やかそうな顔つきで、私が凝視していることに気が付くと、驚いたように目を見開いた。
「どうかしましたか」
後ろからの声にハッとする。
振り向くと、不動産屋のおじさまが怪訝そうな顔をしていた。
「外に気になるものでも?」
入り口近くの扉から、光が差し込むこちらに向かって近付いてくる。
「あ、えっと……!」
何と説明したら良いか分からず、あたふたしている私の横に立つと、おじさまは窓の上枠に手をかけるようして外を見渡した。
「あぁ、猫ですか」
納得したような、ため息のような言葉を漏らした。
猫、っていうか、と私が視線をスライドさせると、隣の窓からあの人の姿は消えていた。
その下で、猫だけが幸せそうにじゃれ合っている。
「あ、あれ?」
「住人の誰かが餌をあげてしまうから、居付いちゃうんでしょうね。野良猫はあちこち汚して悪さするので、大抵のアパートでは追い払うようにしてるんですけど」
不動産屋のおじさまは、苦笑して部屋の中へと身を引いた。
けれど私は、何かに取り憑かれたように猫のいる風景から目を離せない。
「迷惑に感じたら、管理会社に連絡するようにしてください。猫好きなら良いんですけど、夜は煩いと感じる人もいるみたいでして―――」
流れるように話す声が意識から遠ざかっていく。
隣の窓から、そろりと男の人がまた顔を出した。
あ、と私は身を乗り出す。
その人は私に向かって、しーっ、と唇に人差し指を当てた。
優しそうなお兄さん、っていう感じの人。
私より1つか2つ年上に見えるけれど、いたずら少年みたいな目をしている。
見とれているうちに、キュ、と唇の両端が上がった。
その時、私の胸に満ちていたのは幸福感だった。
心が温泉に浸かったみたいに柔く緩んでいく。
決めた。
「迷われているなら、もう一個のアパートも見に行ってみますか?」
おじさまの提案は親切だったけれど、もう私には必要なかった。
首を横に振り、ここにします、と答える。
春風が背中を押してくれるようだった。
「ここに住みます、私」