【伏黒恵】2万5000分の1のキミヘ
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【1、伏黒恵という名前】
伏黒恵という自分の名前は、別に好きなわけでも嫌いなわけではなかった。
こんな大人になってほしい、と、生まれてもいない我が子に適当に名前をつけたであろう親の願いを、変にプレッシャーに感じることもなく背負うことができる。
たとえ、親の願いを背負ったところで顔も声も何一つ覚えていないため、プレッシャーに感じることはないから、どのみち同じことだ。
それに、意外とこの名前は気に入っている。
正確に言えば、気に入るようになってきた、と言った方が気持ちのニュアンスには近い。
だからだろうか。
名前の文字だけで、響きだけで、性別を間違われるのは、あまりいい気分のものではない。
いや、誰でも名前を間違われたり、名前だけで性別を判断されたりするのは嫌に決まっている。
「伏黒くんさ、さっきの授業……」
「うん。間違えられてたね、性別」
休み時間、最前列の席に座る伏黒の耳が、2種類の声をひろった。
自分の名前について話していると気付いて目線を向けると、黒板の端に2人の女子が立っていた。
「『次の問題……伏黒恵"さん"』」
そう言って、"日直"と書かれた文字の下に貼られたネームプレートをなぞっている。
あぁ、そうか、と思い出して伏黒は席を立った。
「訂正しなかったよね。伏黒くん」
「きっと面倒なんだよ。4月から、いろんな先生に間違えられてるから」
「でも字の響きが素敵だよね。恵って文字だけ見ると本当に……」
「女じゃないから、俺」
思わず口に出していた。
えっ、と小さい声が飛んでくる。
だけど視線を合わせずに、黒板消しを右手で掴み、白い文字を乱雑に消していく。
うん、知ってるよ、と訂正された女子が笑った。
「いい名前だね。伏黒くん」
「………」
伏黒は何も言わずに、黙って右手を動かした。
2人の女子が去った後、入れ替わるように別の女子がやってきた。
制服のポケットに両手を突っ込んだ彼女は、黒板の横に貼ってある学年報を眺めていた。
おそらく今月の行事を確認しているのだろう。
やがて伏黒を横目に自分の席に戻ろうとして、ふと気が付いたように黒板の端まで戻ってきた。
"日直"の文字の下に貼られた、伏黒のネームプレート。
それをじっと見つめていた。
伏黒は黒板を消しながら、今度はこいつか、と思った。
どうせまた、音の響きがかわいいとかそんなくだらない価値観を押し付けて、良い名前だと言うのだろう。
「りんごあめ」
「はっ?」
聞こえてきたその言葉に、右手を止めて横を向いた。
「うん。りんごあめだ」
彼女はネームプレートを見つめたまま、独り言のように呟いた。
「いい名前だね。伏黒くん」
そして伏黒本人には目もくれずに、馨は自分の席へと戻っていった。