【夏油傑】さよならの粒度
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「いいなぁ……。私も、この世界に、何か残せるんでしょうか」
今は空っぽになってしまった右手を見つめる。
その手を、夏油が優しく握った。
「その星の砂は、今も宝箱の中に?」
「いいえ」
馨は目を伏せて、首を横に振った。
「いつの間にか、消えちゃいました」
「変な言い方」
夏油は笑った。
「存在が消えるなんてありえないのに」
「私が誕生日をたくさん迎えて、気付いたら、大切にしているものが入れ替わってたんです」
「よくあることだよ。きっと、机の後ろやチェストの影に落ちちゃったんだね」
「掃除をしても、出てきませんでした」
「当たり前だよ。持ち主の手を離れた物が、ずっとそこに居るわけないんだから」
夏油は立ち上がってまた窓辺に寄った。
偽のお祈りを続ける子供たちを忌々しげに見つめ、カーテンを掴んで閉める。
真っ白な部屋に再び影が差し、広がった闇の深さに合わせて「消えたんじゃなくてさ」と彼の声のボリュームも小さくなった。
「ただ目に見えないところに行ってしまっただけ。だろ?」
そして徐に靴を脱ぎだすと、静かにベッドの上に跨がり、馨と自分の身体をシーツの間に滑り込ませた。
「だめです、傑さん」
突然の侵入に馨が慌てて咎める。
「先生に見つかったら、また怒られちゃう」
押し出そうとするも、1人分の窮屈なベッドは軋むだけで、体格の良い男を吐き出そうとはしてくれない。
「回診までまだ時間はあるはずだけどな?」
と肩に手を回されて、簡単に腕の中に収まってしまった。
夏油はいつも、手つきはうんと優しいのに、言葉尻や表情の奥に有無を言わせぬ強引さがある。
けれどそこが幸せでもあった。
夏油と一緒にいると、無自覚下の幽かな欲が、知らぬうちに満たされていくのがわかる。
今だって、馨が夜眠れないのを見抜いたのだろう。
カーテンを閉めた曇りの日でも、薄い毛布を頭から被っても、昼間の光の微粒子は視界に届いて、相手の顔を映し出す。
狭い空間の中、おでこを合わせて、夏油は殆ど息だけで囁いた。
「また痩せたんじゃない?腕の力も弱くなってる」
「使わないから衰えていくんです。もう一人で外を歩くこともできません」
馨も内緒話をするように囁き返す。
「毎日自分が、死に近付いているのがわかるんです」
「怖い?」
「はい。怖いです」
「怖いはずないよ。死は新しい旅立ちだ」
「それでも、知らない世界へ行くのは嫌です」
「私と離れて、ひとりぼっちになるから?」
馨は頷いた。
夏油は目を細めて、「星の砂はどこへ行ったと思う?」と尋ねた。
そして教えてくれた。
ここからは見えない世界に、失くした物が行き着く場所があるということを。
幼い頃に使い切れなかった消しゴムの欠片。
日記帳の小さな鍵。
友達と交換した綺麗な千代紙。
いつの間にか自分の元から消えていったものたちは、この世界のひとつ隣にある場所に流れ着いているのだそうだ。
ビスマス鉱石のように幾何模様の七色を浮かべ、思い出は、蛍のように柔らかく発光し宙を漂っている。
そして自分自身が死んだ後―――肉体を抜け出した魂たちも、同じ場所へと辿り着く。
「私もそこへ行くのですか?」
「そう。生きていた頃の記憶と一緒に眠るんだ」
「傑さんとの思い出も?」
「寂しくないし、怖くもない」
「傑さんは?寂しくないのですか?」
縋るような声で尋ねると、夏油は一瞬言葉に詰まった後、馨を強く抱きしめた。
呻きのような音が彼から漏れた。
「何ですか?」
「……独りごと」
そのまま無言。
胸に押し付けられて、鼓動の音を聞きながら、なんてずるい人、と馨は思う。
情けない顔を見せたくないのだ。
この人は、弱いところを見せたくないのだ。
だから自分も、気づかないふりをしなくてはならない。
きっと、最期まで。
そっと、大きな手に自分の指を絡めた。
右手同士を重ねると、強く握り返してくれる。
この応答を、ぬくもりを、忘れたくないと思った。
いつか、ひとりになる時が来ても。
不意に重ね合わせた手に夏油がキスをした。
目を閉じて、唇を僅かに動かしている。
間近でも聞き取れない程、小さな声で何かを唱えていた。
その意味に気が付いたとき、初めて心臓が熱を帯びて、脈を打ち始めたような感覚を覚えた。
―――この人は、祈りを捧げているんだ。
感謝の言葉を。
ふたりが永遠に続くようにと。
「私たちなら離れないよ」
光を淡くした薄い毛布の下で、夏油は馨に伝えた。
「君が先に向こうへ行ったって、すぐに追いつくから。だから、安心して」
「必ず迎えにきてくださいね。ずっと、待っていますから」
愛する人が頷いたのを確認してから、馨はゆっくりと目を閉じた。
長い思い出と共に眠る時を夢見て。
その向こうにある、永遠の日々を信じて。