【吉野順平】メビウスの輪舞曲
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「あ……、待って」
「ひぇ!」
突然腕を掴まれた。
変な声が出た。
何この人やる気なさそうな顔してるのにすごい握力!怖!男の子!!
「それさ、"くく"じゃなくて、"きく"じゃないかな?」
「は?」
「キクノアン」
おずおずと言った感じで、目の前にスマホを突きつけられた。
地図アプリが起動されていた。
赤いマーカーのついた画面に出ている文字は。
「菊ノ庵」
声に出して読み上げる。
顔を上げると、カチンと視線が交わった。
「探してるのって、緑の暖簾の店、だったりする?」
相変わらずの無表情。
「いかにも老舗ですって感じの」
けれど超至近距離で見る彼の目は、謎が解けました、と少し嬉しそうだった。
「暖簾も見た目もわかんないけど……そうかも。くくの庵じゃなくて、菊ノ庵ってお店かも」
色々と勘違いしていた自分が恥ずかしくなり、顔が熱くなってきた。
「おばあちゃん,モゴモゴ喋るから聞き取りづらくて」
「高齢者の滑舌はしょうがないよ。年齢で舌の筋肉は衰えるから」
なんとも微妙なフォローをした後で、その人は「道、分かる?」と落ち着いた声で聞いてきた。
黙って首を横に振ると「あっち」と彼の右手が水平に持ち上がった。
真っ直ぐ前を指差した後、ついと内側へ手首を曲げた。
「たしか……駅の裏側」
「……!」
なんか、この人あれかもしれない。
「僕も、時々しかこの駅には来ないから、うろ覚えだけ……」
「ありがと!」
「!」
人は見かけによらないってやつだ。
思わず身を乗り出すと、彼は圧倒したように背中を僅かに反らした。
「……結構、歩くけど。ここから」
「平気!」
「正確な場所もわか」
「近くにいる人に聞く!」
「……頑張って」
ふっ、と彼が微笑んだのであわや卒倒しそうになった。
神だ。
見慣れた制服を着たこの人は私を導く神様だったのだ。
深々とお辞儀をして別れた後、ヘルメースくん、と名も知らぬ彼にあだ名をつけた。
ギリシャ神話に出てくる、正しく導く案内人のヘルメース。
今日の美術の授業で石膏デッサンやらされたのだ。
菊ノ庵緑、の暖簾の和菓子屋。
うぐいす餅。
おつかいは無事果たせそうでよかったよかった。
まったく、うちのひいおばあちゃんも大概にしてほしいよね。
いくら思い出のお菓子っつってもさー、こんなびっちょびちょの寒い日にひ孫をパシりに使わなくてもいいじゃんね?
しかもお店の名前間違ってるしね?
こちとら課題があるんだっつーの。
はー、早く帰ってコタツ入りた―――。
「待っ!てください!」
突然もの凄い力で肩を掴まれた。
ひいぃ!と叫んで振り返ると、先ほど私と逆方向へ歩いて行ったはずのヘルメースくんが息を切らして立っていた。
「え?え?え?何?」
「良かった、間に合っ……!」
両膝に手をついて、軽く咳込み、弾んだ息を整えていた。
濡れていく制服を見て私が慌てて傘を差し出すと、彼はパッと顔を上げた。
「さっき、教えた店」
「菊ノ庵?」
そう、と彼は頷いた。
「廃業、してて……。当主だったおじいさんが亡くなって」
「え」
マジ?もうないの?と驚くと、また彼は頷いた。
「久しぶりにきたから忘れてた。思い出すのに時間がかかちゃった……」
「それを教えるために、わざわざ追っかけてきてくれたの?」
「もう遅い時間だし、寒いし、女の子だし、歩き回らせたら悪いと思って」
猫背の姿勢のまま、視線は泳いで、困ったような表情で話すヘルメースくんを、私はまじまじと眺めてしまった。
走ってきてくれた?
みぞれが降っててこんなにも寒いのに?
傘もささずに?
汚れる制服も気にも留めず?
「力になれなくてごめん。和菓子屋ならこの辺……」
そこで彼は台詞を止めた。
顔をしかめて鼻を触ったと思ったら、くしゅんとくしゃみを1つした。
その仕草は上品で。
彼は軽くすんと鼻を鳴らして、あー、と脱力した声を漏らした後に、和菓子屋ならこの辺いっぱいあるから、と少し恥ずかしそうにに話を続けた。
「どこかで買って早く帰ったほうがいいよ」
「あ、ちょっ……」
一方的に話し終えたと思ったら、さっと背を向けて駅の方へと行ってしまった。
用事があるのか、急いでいるのか判断がつけられず、私は人混みの中へと消える彼を呼び止めることを躊躇してしまった。
「なんか、すみませんでした……」
もう届かないであろう言葉を小さく呟いた後で私は、急にどっと疲れてしまって、はー、と白い息を吐き出した。
格好良かった。
顔は前髪のせいで分からないけど多分普通、身長は成長期の男にしては低い。
だけど、格好良かった。
格好良かったのである。
ヘルメースくん。
名前ちゃんと聞いときゃよかった。
里桜にあんな人がいたなんて全然、全然知らなかった。
人数が多い学校だから、同じ学年でも出会わない人いっぱいいるけど。
もしかしたら先輩かも。
やば、私ちゃんと敬語喋ってた?
待った。
コートを着てるから、きっとあの人は私が同じ高校だってことすらわからなかったかもしれない。
ラッキー、なのか?
なんにせよ、この21世紀に生きる紳士な男子との出会いに嬉しくなった。
そしてひいおばあちゃんにめっちゃ感謝した。
ここまでが、1月の初めの頃の私の記憶。