【七海建人】月が
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そこから更に2駅通過した頃、「椎名さん」と久しぶりに名前を呼ばれた。
指体操を中断させて、「なに?」と顔を上げると、「……財布とか」と七海はこちらを向く。
「すみませんでした」
と頭を軽く下げられる。
忘れていた用事を確認された時と同じように、「あぁ、うん」と私はコクコクと頷いた。
その話ね、知ってる知ってる。
「こうでもしないと、来てくれないと思ったんです」
「いつ、とったの?」
「仕事中に。仕事の相談をしながら、貴方の目を盗んで」
淡々と懺悔され、逆にこちらが「あ、そう、なんか、あれだね」と、面食らって歯切れが悪くなる。
「なんというか、その、すごく」
と言いよどむ。
「スタンダードだね、手口が」
「はぁ。それ、褒めてるんですか」
「わ、わかんない」
「椎名さん、怒ってますよね?」
「怒ってはない、と思う。多分」
「分からないんですか?自分のことなのに」
「うーん……謝ってくれたし。定期入れも財布もスマホも、全部無事に返してくれるなら、許すよ。誰にも言わない」
「もし今、返したら」
縋り付くようにドアに両手をつく七海は、普段と違って、酷くぎこちなく動いていた。
「返したら椎名さん、家に帰りますか?」
「……七海は」
と少し驚いて、私は尋ねる。
「本当に、部屋に入れたいの?私を」
「……わからないです」
「分からないの?自分のことなのに」
「さっきまでは、椎名さんに来てほしいと思っていました。私の部屋って、何やっても綺麗にならないらしくて、その、いろんな人が協力してくれるんですけど、どうしてもダメで。それで、椎名さんだったら、もっと良い方法が分かるんじゃないか、って、木村さんが、いや、木村さんのせいにするわけじゃないんですけど」
喋りながら自分に呆れているのかその声のトーンは酷く低い。
少しの間が空いて、深く息を吸った七海は小さな声で「怖くなりました」と零した。
「怖い?どうして」
「部屋を見せたら、椎名さんに嫌われるかもしれない」
「……そんなにヤバいの?」
「わかりません」
七海は首を振った。
「私にはわからないんです。最初に言われたのは、中学2年生の時でした。クラスの友人でした。田沢は6人目です。その次は木村さん。あの人たちが言うには、"普通の"汚い部屋と、私の散らかった部屋は何かが違うらしいんです。片付けたいのに、片付け方がさっぱり浮かばないと。でも、私には何が変なのかが分からないんです。物は少し多いかもしれませんが、快適な普通の部屋です。でも、親も、会社のみんなも、私の部屋を見ると、呆れたような、諦めたような、困った顔をするんです。椎名さんにまで、あの顔をされたらと考えたら、とんでもなく怖くなりました。なんでですかね。どうしてこんなに、悩まなきゃいけないんですかね。私の空間なのに」
普段、声を荒らげる事もない七海が取り乱したように声を上げた。
その直後、電車が止まった。
何番目かの停車駅だった。
はっとして、「すみません」と小声で謝ったかと思ったら、右手に持っていた鞄から私の財布たちを引っぱり出して、私にぐいと押し付けてきた。
「本当に申し訳ありません」
震える声でそう言って、七海は電車から降りた。
「また明日、会社で」
え、と呆気にとられていると、発車音が鳴り響く。
しんとした、夜のホームの空気が揺れる。
開いたドアの向こうに立つ七海は、大きく呼吸を繰り返していた。奥歯を噛み締めるその後ろで、月が青白く輝いていた。
胃のあたりから迫り上がってくる何かをせき止めるかのように唾を飲み込み、「私は」と悔しそうに言葉が押し出された。
発車を告げるアナウンスが鳴る。
助けてほしい、と目が訴えていた。
「私は、異常なのかもしれません」
不安げに揺れる瞳を見て、私の全身の庇護欲が掻き立てられた。
おそらく、誰かに弱みを打ち明けたのは初めてだったのだろう。
ずっと一人で悩んでいたのだろう。
これ以上、この人を孤独にさせてはならない。
考える時間はなかった。
むしろ時間など必要なかった。
ドアが閉まり始めるより早く、足が動いて、電車とホームの間を跨いだ。
◆◆◆
「……本当に、来るんですか」
改札を出た直後、七海が戸惑いの声を上げた。
つい数分前まで他人の目を気にしていた私だったが、それがどうした。
他人の目なんかどうだっていい。
言いたい奴には言わせておけばいいんだ。
「大丈夫、腹はくくった」
「私はまだくくれてないです」
「ここまで来て何言ってるの」
「じゃあ、お願いです。私の部屋がどんな有様でも、逃げないでください」
「逆に聞くけど、どんな有様なの?」
「普通です。私にとっては」
「大丈夫。どんな状態でも、私は受け入れて綺麗にするよ」
「はい……いやでもやっぱダメですよ。冷静に考えたらヤバいじゃないですか。付き合ってもいない先輩が、1人で私の部屋に来るなんて」
「それさ、30分前に気付いてほしかったよね」
急に愚図りだした七海を見て、ええいと鞄を無理やり奪った。
ずしりと肩に重みが乗っかり、身体が傾く。
バランスを保つように反対側に重心を移動させると、
「何するんですか」
と怒り出す彼に人差し指を1本立てる。
「この鞄を返して欲しかったら」
駅の外へと繋がる階段の上で、私は立ち止まる。
「家に連れていきなさい。今すぐ」
七海は、ぽかんとした顔をして、それからすぐに「あの、」と呆れたような顔をした。
「脅迫のつもりですか」
「そうです」
「私の家の場所すら知らないくせに」
「じゃあ、これならどう?」
スーツのポケットの中のものを取り出して目の前に掲げてみせる。銀色の鍵と、ストラップがぶつかり合ってかちゃりと軽い音がする。
「えっ……」
七海は低い声を出し、コートの中をまさぐり始める。
その隙に私は階段を駆け下りていく。
もちろん、彼の重い荷物を肩に背負って。
「ちょっと!」
背後、いや頭上近くから声がする。
「待たないからね!」
踏み足のリズムを調節しながら叫び返すと、一瞬の間の後に「降りたら右に行ってくださいよ!?」と、指示が飛んできた。
私を追いかけてくる足音は、心なしか、軽く聞こえる。