【七海建人】月が
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電車が発車した途端、七海は急に静かになった。
元から口数の多いタイプでは無いが、心ここにあらずと言った感じに、ドアによりかかるように立っている。
帰宅ラッシュの時間帯。
つり革に掴まれたらラッキーといった感じの混み具合。
どうして、ここまでして、私を部屋に?
質問したいが、やっと会話ができる状況になったというのに、窓の外をぼうっと見ている彼の邪魔をしてはいけないのではと、側で棒立ちになることしかできなかった。
電車はすでに3駅を通過していた。
沈黙を守るついでに本当に七海の家に行くんだろうか、と考える。
先ほどの話を思い出せば、七海は一人暮らし。
ということは、2人きり。
ヤバくないだろうか。
私と七海で、2人きりで夜を明かす?
さっき頭の中で考えていたことがリフレインし悶々と、あれやこれやが浮かんで消える。
朝帰りなんてしいたら、七海と一緒にいる所を見られたら、会社の人たちに一体なんて言われるんだろう。
会社の中での七海の人気はものすごく高い。
特に年下の女の子たちからは「彼氏にしたい」という黄色い声が毎日のように聞こえてくる。
もし、その子達に今の状況を見られたら私は殺されるんじゃないだろうか。
男どもも変に七海をからかって揶揄するんじゃないだろうか。
そういうの、七海が嫌いなのを知りながらからかうんじゃないだろうか。
男の影がない私と、女の影がない七海。
その構図を面白がったりいじったり嫉妬したり嫌がらせをしたり、そう言うことになったりしないだろうか。
ダメだ、帰ろう。
せめて、終電までには。
最悪、財布が戻ってこなかったとしても歩いて帰る。
不幸中の幸いなのは、私も一人暮らしだということだ。
親が心配することもない。
そのことに安堵のため息をはいた。
だが、まぁとりあえす。
スマホは取り返したい。
終電の時間を調べたい。
七海の部屋へ行く行かないは二の次にして、まずはスマホを取り返そう。
改札前で見た、黄色いカバーの私のスマホ。
七海のコートのポケットにいた、あの子をまずは奪還しよう。
ちらりと様子を伺いながら、そろそろと七海に身体を寄せる。
右手をゆっくり動かして、時間をたっぷり使って、隣の上着へ指を這わせる。
考え事でもしているのか、ぼうっとしている七海に気付かれることなく、私の指は彼のポケットの中へ侵入していく。
奥へ、奥へ。
体温の伝わる、狭くて温かい空間に右手を挿し入れていく。
緊張で腕以外の部位を動かせないが、七海が振り向く気配はない。
背徳感と罪悪感とスリル。
思いがけず、興奮している自分がいた。
布越しにお腹を撫でれそうなくらい奥まで到達しても、何か入っている感じはしなかった。
もしかして反対側のポケットだったかしら、と思った時、指先にツンと何かが当たった。
スマホの感触ではなかったが、思わず握って引き抜いた。
鍵だ。
冷たさとサイズ感でそう確信した。
背後に隠すようにしてこっそり握りこぶしを開いて見たら、大正解で鍵だった。
ごくごく平凡な、普通の鍵だ。
緑系の珠が5つほど連なった簡素なストラップが、申し訳程度についている。
これは七海の家の、その、例の掃除の不可能な部屋へと繋がる、玄関扉の鍵だろうか。
それとも、他の誰かの―――?
「ちっとも動きませんね」
七海が口を開いた。
心臓がどきりと跳ねて、咄嗟に自分のポケットの中に右手を突っ込む。
未だ外を見続けている七海に、「はぁ、動きませんね?」とおうむ返しに呟いてから、その意味を考えた。
電車は依然、走り続けている。
「何が動かないの?」
「月です」
コツン、と七海が指先でガラスを叩いた。
夜を映して鏡のようになった窓に、空を見上げる七海と、きょとんとした顔の私の姿が浮かんでいた。
近寄って見ると確かに、窓枠の右上で、月が冴え冴えと輝いている。
外の世界の夜空で、満月より少し端が闇に溶け出した、どちらかというと楕円に近い月だった。
目の前を電線やビルの影が駆け抜けていく遥か上空で、しっとりと濡れているようなその月だけが、同じ位置から動かない。
「こんなに速い電車に乗ってるのに」
七海の声は物憂げで、空気の中にすうっと溶けた。
「周りの景色は走り去っても、月だけはずっと変わらない」
「そりゃあ、遥か遠くにあるからね」
色気が無さすぎる受け答えだ、とすぐに反省する。
けれど七海は、「そうですか」と曖昧に相槌を打った。
そこにはいつもの引き締まった表情は無く、存在自体が、ぼやけて、薄まってしまっているようだった。
その状態で「宇宙には」と月を見つめて、息を吐き出すように喋っている。
「宇宙ごみがたくさんあるんです」
「宇宙ごみ?」
「昔に打ち上げた、人工衛星とか、ロケットの破片。宇宙飛行士の落とし物。手袋、工具……地球の周りで、ぐるぐると回ってるんです」
そう言って窓ガラスの上で、ずるずると指先を滑らせていた。
「綺麗に見える宇宙にだって、ゴミが漂っています。だったら私の部屋だって、別に変じゃない。そう思いませんか」