【七海建人】月が
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「返して」
「すみません。嫌です」
「お願い。返して」
ついてっちゃえよ、ともう1人の自分が囁く。
下心があって行くんじゃない。
これは、脅迫されて、行かざるを得なかった。
と言い訳できる状況だぞ。
一歩近づくと、七海は一歩後ずさった。
さらに一歩近づくが、距離を一定に保たれる。
思いきって飛びかかり、右手を伸ばすが避けられる。
ならばと左手を出せばひらりと軽々かわされる。
応酬はスピードを上げ、やがて人ごみをかいくぐり、逃げる七海との追いかけっこへと発展していた。
等間隔に並ぶ広告柱や、のんびり歩くサラリーマンに視界を遮られ、見え隠れする七海を息を切らして追いかける。
紺色のコートに、クソ重そうなオフィスバック。
あれを見失ったら、それこそ、私お手上げだ。
だが、見失う事もないだろう。
なぜなら、七海の髪の毛は嫌でも目立つからな。
何度も人にぶつかりそうになり、すみません、と往来を掻き分け、来たこともない階段を駆け上る。
脇腹が痛い。
空腹が気持ち悪い。
足が痛い。
やっとのことで追い付いて、腕を掴んだと思ったら、普段使わない路線の改札に辿りついていた。
暑い、と無意識に声に出した私に、七海は涼しい顔で目配せをした。
何も言わず、流れるような動作で彼はICカードを自動改札にタッチ。
通りきる前に、長い身体を伸ばして私の定期分までタッチ。
どうぞ。
と言わんばかりに向こうから右手を差し出される。
走った後で、酸欠ぎみで、私は上手く頭が回らなかった。
し、ヒールで長い距離を走ったためかジンジンと足の裏が痛み、正直早く座って休みたい。
ということにして、吸い寄せられるように改札をくぐった。
直後に目の前に何かが飛んできて、あわや顔に当たりそうになる。
取り損ねそうになりながらも両手で掴まえよく見れば、控えめなチャームのついた細身の水玉ペンケース。
言わずもがな、私の愛用の筆入れである。
こんなものまで盗っていたのか。
一体、いつ、どこで。手癖の悪さと手口の鮮やかさに、呆れ返りそうになる。
どうしよう。
七海の部屋を満たしているのが、すれ違い様の女子からスったファンシーな小物の数々だったらどうしよう。
私受け入れられるだろうか。
不安に襲われ顔を上げると、当の七海の姿はなかった。
幻のように、こつぜんと消えていた。
あれ、と一歩踏み出すが、案内板は多く、どこへ行ったかわからない。
後ろを振り返るも、一度通った改札は閉じられた門のように引き返せない。
こんなところで、一文無しのまま置いていかれても。
爪先立ちで、首を伸ばして周りを見渡す。
奥のホームへと続く階段を下りていく集団に混じって、七海らしき背中がちらりと見えた。
いや、確かにあれは七海だ。
金髪でスーツを着ている長身の男をそう簡単に見失って溜まるか。
そう思っていたらあっという間に見えなくなった。
あいつ、本当に何を考えているんだろう。
答えを出している暇がない。
息の整わないうちに走り出す。
首もとに汗が滲む。
長い長い、下りエスカレーターをひと息で駆け下りる。
ホームへ降り立つも、再び見失ってしまった七海の姿を探して途方に暮れる。
東京は人の数が多すぎる。
既に電車は両側に到着しているが、3番線と4番線、どちらに彼が乗ったのかわからない。
終わった。
もしかしてこれは、弄ばれたパターンだろうか。
疲労と空腹で、途端に惨めになる。
私のことを、端から誘う気などなかったのか。
それとも同僚の入れ知恵か。
あの会話も目配せも、あの男の手の上で行われたことかもしれない。
どこかに隠れてわたしを見て笑っているのだ。
いや、またはやっぱり、全て妄想による幻覚か。
本当は、私は今、何も無い夜の空き地に立っているのかもしれない。
「早いですね」
笑い混じりの声が聞こえた。
振り向くと、七海が隣の階段から降りてくるところだった。
わっと一気に嬉しくなる。
しかし悠々とした足取りから、いつの間にか追い越していたことに気付き顔が熱くなる。
「七海」
と、わざと咎めるような口調で向き合った。
「電車に乗っちゃったのかと思った」
「乗りますよ。これから」
右手側を指差して、さも当然といった顔をされる。
その示す先を目で追えば、電車の中、つり革に掴まる能面みたいな顔がたくさん並んでいるのが見えた。
そうか、乗るのか。
今更ながらに逃げ腰になる。
夜の電車で知らない場所へ運ばれる。
どこへ?七海の部屋に?本当に?
困ったことは、ゆっくり考える時間が与えられないことだった。
電車の発車音が鳴る。
「乗りましょうか」
七海が背中を軽く押す。
彼の大きくてごつごつした手が、指が、今、私の背中に当てられている。
その感触だけで、頭が沸騰して何も考えられなくなってしまう。
"3番線、ドアが閉まります。ご注意ください"
そのアナウンスが終わる頃には、私は電車に乗り込んでいた。
背後で扉が自動で閉まる。
後戻りできないように、来た道を順番に塞がれている気分になる。