【七海建人】月が
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「椎名さん」
そして、まるで事務的に聞こえるお願いを口にした。
「私の部屋に、来てくれませんか。これから」
「これから!?」
面喰らって、改札の向こうの、発車時刻を示す電光掲示板を見る。
もう夜の21時近い。
当り前だが、明日も仕事のため出勤しなければいけない。
何より成人した女がこれまた成人した男の家に上がり込むだなんて。
もし終電を逃したら?一緒に通勤するところを見られたら?
返事をできず、へどもどしていると「ダメですか?」と顔を覗き込まれる。
その力の込もった目元を見て、私の本心は揺らいだけれど、首は縦に振られていた。
「ごめん、これからは無理……」
「お願いします」
「いや無理だって」
「大丈夫です。一人暮らしの家なので親はいません」
「何一つ大丈夫じゃない」
こうなると意外と頑固な七海を無理やり引き剥がして、泣きそうになりながら改札へと足を動かす。
「椎名さん」
「つ、ついて来ないで」
「あの」
「そんな、いきなり言われても困る」
後を追ってくる七海は、コンビニ前で出会う野良猫のようで、どうにも振り切ることができない。
もしかしたらこれは、とんでもないチャンスなのではないか、と期待が腹部から膨らんでくるも、なけなしのプライドが邪魔をする。
当然だろう。
「来てください」と言われて「行きます」と食いつくなんて、下心が見え見えですごく間抜けじゃないか。
女の子はそういうのは望んでないんだ。
「とにかく、今日は無理だよ。また今度、日を改めてーーー」
さすがに改札の中までは入って来ないだろうとカバンの中に手を入れる。
さっさと電車に乗ってしまって、今日のところは諦めてもらって、後で謝罪のメッセージでも電波に乗せて送っておこう。
だけど改札の直前にきても、指先に求める感触がなく足が止まる。
定期入れがない。
「あ、あれ?」
定期入れは失くしやすいから、いつも鞄のポケットに入れると決めている。
なのに、どうしてかそこは空っぽだった。
スーツののポケットの中かと両手を突っ込むが、そこも空。
「あの、椎名さ……」
「~~~ッ。いい加減、しつこい」
振り返ると、七海は少し距離を置いた場所に立っていた。
視線を外して、サッカーの審判がレットカードを出すみたいに右手に何か持っている。
見慣れたソフトレザーのネイビー、長方形。
まさしく、わたしの定期入れだった。
いつの間にか落としていたのか。
「ごめん、ありがと」
そう言って受け取ろうと腕を伸ばす。
しかし、定期入れはスッと上へと移動する。
わたしの手の届かない高さに、だ。
「ん?」
七海の顔を見るが、感情が読み取れない。
背伸びをするも、また届かない場所へ離される。
無言の攻防をした後、相手の意図に気が付いて絶句した。
「……これを、返してほしかったら」
そう言って、七海は右手首を軽く振ってみせた。
「私と一緒に来てください」
「は?」
その子供染みた行動にぽかんとした後、状況を理解する。
苛立ちがふつふつ沸き上がってくる。
卑怯だ。
反面、期待に似た感情も大きくなる。
けれど頭の上に浮かんだ帰宅の2文字は消えていない。
そうだ、定期が使えなくたって、現金で切符を買えばいい。
平然を装って、鞄の中を覗く。
定期入れと同様、わたしは財布をしまう場所も決めてある。
小分けに便利な10個の内ポケットのうち、大きいほう。
すなわち、右側にいつも入って………………無い。
無言のまま鞄を漁る。
スーツの中をまさぐる。
ない、財布もない。
まさか、と七海を見ると、彼はわたしの財布も持っていた。
ババ抜きの最後の勝負といわんばかりに、定期入れと併せて扇のように持っている。
なぜ持っている。
魔法にかけられたような心地になった。
地面から足がふわふわ浮いていくようで、目をしばたかせるが、どうやら夢ではないらしい。
だがそれでも、私は意地を見せた。
「いいよ別に。歩いて帰るし」
歩いて帰る頃にはきっと23時を過ぎるだろう。
だが仕方が無い、タクシーを使うわけにもいかないし、一人暮らしの私には向けに来てくれる親もいない。
グーグルマップを開いて地図を見ながら帰ろう。
しかしそこでハッと気が付いた。
スマホを探し出すより前に、嫌な予感がじわじわと足元から侵食してくる。
七海を見る。
案の定、彼のコートのポケットから顔を覗かせている黄色の物体、あれは、私のスマホのカバーケースではないか。
やられた。
盗られたのだ。
定期入れも、財布も、外部との連絡手段も、全て七海の手の中だ。
私の帰る手段はなくなった。
タクシーも使えない。
スマホも使えない。
勘で家に帰ろうかと一瞬考えたが、現実的ではない。
すなわち、彼に従うしかなくなった。