【七海建人】月が
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年齢が1つ下の七海の"片付けられない症候群"は、去年の夏頃から問題として浮上していた。
最初に彼の部屋に「宅飲みでもしよう」と無理に押し掛けて行った彼の同期の子の「よくわかンねーの」との報告を受け、野次馬の男子たちが週代わりで訪問者となり、そして翌日には皆気まずそうに目配せをし合い苦笑した。
からかいもフォローもないその真意を図りかねた私達女子OLによる緊急会議が開かれたのは、そうか、もう1年以上前なのか。
更に、年末の大掃除。
会社の人間全員でオフィス内を綺麗にする恒例行事。
恒例というか法律で決まっているらしかった。
そのことを知ったのは会社に就職した時だ。
年の瀬独特の厳かな空気が満ちる中、なぜか掃除前よりとっ散らかっていた一画があった。
七海が担当したスペースだ。
「整頓しました」と本人は言ってのけたが、どう見ても超絶雑然ブラックホール。
その矛盾が我々に与えた衝撃は大きく、その箇所の名前をもって"備品棚とその上および裏側事変"と今もなお、当時の惨状は誇張を巻き込みながら語り継がれ続けている。
日本人顔負けの美しい容姿に、淀みなく上司や先輩以上の仕事をこなす姿からは想像がつかないが、どうやら掃除下手は紛れも無い事実のようで「すみません」と七海はそのことが話題に上る度に、少しだけしゅんとなって謝罪を繰り返す。
「治します。治したいです」と自身の欠陥を認めていながら、どうにもできていない様子に同情して、私たちも掃除のコツを調べては彼に伝授していた。"好きな人を部屋に招待する"というのも、おそらく、その中の1つにすぎない。
確かに、来客があれば誰だって掃除する。
幻滅されたくない相手なら、徹夜してでもするだろう。
だけど肝心のアドバイスの発言者は誰だ?
好きな人だなんて、からかっているとしか思えない。
でも、真剣に悩んでいる七海が、やってみる価値ありと判断する可能性も十分にある。
それで、もし、自分に声がかかったら?
駅の看板の下を通るとき、ふと頭によぎって、わっ!と声が出そうになる。
私なにを考えてんの。
そんなことある訳ない。
恋人同士でもないのに、先輩を連れ込む男子がどこにいる?
そもそも私は七海のことが好きか?
確かに好みだ。
しかし、意識したことはない。
今日、目が合うまでは。
違う、違うと反論しながら打ち消していく。
違う違う。
早まるな、まだ何一つ事実は確定していない。
期待すると傷つくぞ。
今までだってそうだったじゃないか。
決めつけるのは危険だ。
無欲になれ。
煩悩を消せ。
人混みの中、改札へと向かいながら、マフラーの中で「あ~~~」と息の続く限り唸っていた。
人間は1つのことしか思考できないから、同じ音をずっと伸ばし続けていれば、余計なことは考えなくなると聞いたことがあるからだ。
そう、これでいい。
今日はもう何も考えずに電車に乗って家へ帰って、ご飯を食べてお風呂に入って寝る。
寝れば全部忘れる。
七海のことは考えない。
七海のことは考えない。
と考え続けていたら、「椎名さん」と小声で呼び止められた。
驚いて振り返る。
しかしそこには行き交う人の波があるだけで、そう、幻聴だ。
七海の使う路線は自分とは違うので、この場にいるはずなんてなかった。
こうなると、いよいよ自分の脳が心配になってくる。
プライドがすり切れる前に、早く自室に籠るべきだろう。
頭を振って再び前に向き直ると、すぐ目の前に壁ができていた。
ぶつかる寸でのところで止まると、「大丈夫ですか?」と頭上から声がする。
「さっきから、すごくフラフラ歩いてますけど……」
整った顔立ちと、7対3に分けられた金色の髪、深い海の色の瞳。
七海だった。
おっと違うか、七海の幻覚でした。
見えるはずの無い幽霊を相手どるようにすり抜けようと思ったら、紺色のコートに盛大に鼻先がぶつかった。
そうか、実在しない虚像にも痛覚が働くのか。
なんて万能な私の脳。
「あの、無視しないでください」
鼻を押さえて右回りに迂回しようとしたところ、肩を遠慮気味に掴まれた。
私は彼と話をする選択肢に気がついて、何か言おうと口を開いて、息を吸う。
けれど驚きすぎて、上手い言葉が出て来ず、暫く固まる。
やっと出てきた台詞は、「……本物の七海?」だった。
「たぶん、」
七海は、ひくりと頬を動かして視線を外し、たっぷり数秒黙った後に「そうだと思います」と頷くように視線を合わせた。
「なんで、ここにいるの?」
「椎名さんに、頼みたいことがあって」
「"俺の部屋に来てください"とか?」
「え」
私の言葉に、七海は驚いた顔をした。
けれど動揺は示さなかった。
数回の瞬きをする間に、彼の中で積み上げていた算段を一度崩して組立て直したようで、すぐに「話が早くて良かった」と臆面もなく開き直った。