【七海建人】月が
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月が。
追いかけてくる。
夜空に浮かんだ月が追いかけてくる。
緩く上がったボールが。
そのまま宙に留まってしまったような。
丸くて孤独な月が。
どこで夜空を見上げても。
同じ位置にぽっかり浮かんで。
此方をじっと見つめてくる。
逃げても逃げても。
追いかけてくる。
それが何故だか目に余るので。
ならばと。
月に向かって歩いていくと。
今度は月が逃げていく、ように感じる。
こちらが追いかけると。
月は逃げて。
追いかけても、追いかけても。
一向に距離が縮まる気配はなくて。
どうして。
此処まで気になるのかと。
どうして。
近づくことも 逃げることも許されないのかと。
夜道で独り藻掻いた後に。
月は、ここから酷く酷く。
遠い場所にあるのだと。
気付いたのです。
でも。
◆◆◆
"自分の部屋を手っ取り早く片付けたいなら、好きな人に遊びに来てもらえばいい "
仕事場から駅へと向かう夜道もすがら、耳に残った台詞を独り歩きながら思い出す。
『好きな子にだらし無いトコ見られたくないだろ?さすがに見栄はって掃除するわ』
そんな持論を仕事の休憩中に展開したのは、同じ時期に入ってきた年上の同僚だけれど、その男は今は関係ない。
代わりに執拗に思い返している光景は、彼の話し相手になっていた七海のリアクションだった。
柔らかく温かみを感じるベージュのスーツ姿で、「それは一理あるかもしれないですね」と神妙な顔つきで相槌を打った七海は、顎に手を当て「好きな人、ですか」としばし宙を見て考える様子を見せた後、こちらにチラと視線を寄越した。
いや、気のせいだったのかもしれないけど。
1秒にも満たない時間の、きわめて些細なその出来事。
あの時、すぐに逸らされたけど、あれは一瞬、目が合ったのではないか。
特に意図はなかったのかもしれない。
あるいは、私の後ろで騒音を立てていた上司の声に気をとられていたのかも。
でも、もしかしたら ―――。
遠くの電車が走り去る音と共に、冬の匂いのする夜風が吹いてくる。
カジュアルスーツの上に巻いたブラウンチェックのマフラーに口元を埋めるように首を縮めて、あぁ、馬鹿みたいだと白くて重い息を吐き出した。
たったこれだけのことで頭が一杯になるなんて。
心無しか、浮き足立っている自分がいるなんて。
吐き気がする。
なんというか、愚の骨頂って感じだ。
目が合っただけで期待するなんて、それこそ中学生レベルの勘違いではないか。
『多分、オマエはゴミをゴミだと認識できないんだろうな』
あの時、私は知らない振りを決め込んで、意味もなくボールペンをひたすらカチカチし、作成する資料もないのにパソコンのキーボードをカタカタと叩いていたけれど、耳だけはちゃっかり同僚の声を拾っていた。
『七海もさ、いっぺん好きな女子でも部屋に呼んで、どん引きされたほうが効果あるんじゃねーの?ショック療法的な?』
そんな意地の悪いアドバイスに対して、七海は何と答えていた?
そうだ、「わかりました」と素直に応じていたはずだ。
殊勝に頷きながら、一体、頭の中に誰を浮かべていたんだろう。