ジャンサン 新⬆旧⬇
給湯室。
それは味気ない職場において、大事なコミュニケーションの憩いの場となる非常に重要な要塞だった。
特に、2人っきりの職場で、雇い主でもある上司と四六時中顔を突き合わせて置かなければならないわたしにとって、ささやかすぎる精神の安らぎを求める場なのである。
わたしが勤める法律事務所が入るビルには、他にも7軒の行政書士事務所や会計事務所そうして法律事務所が入っている。
それこそ、大手の法律事務所から独立した新進気鋭の若手弁護士や、金融事件にめっぽう強い弁護士など強豪がひしめいている。が、だいたいはうちと同じ経営体制(つまり先生一人、事務員一人ないし二人の独立事務所)で、世知辛い世の中、細々した事件や事案で食いつなぐ。それゆえ事務員どうし、仲はかなり良好なのである。
お昼になれば、先生が在室していれば電話番をお任せして事務所を空けられる者同士でランチに行ったり、休日に旅行に行けばお裾分けと評してお菓子をくばったりあったり、アフターファイブにディナーに行ってお互いの仕事の愚痴を言い合ったり。
この関係、実は仕事にもかなり直結していて、うちの先生の専門じゃない(ちなみにうちは元検事だけあって刑事事件にはめっぽう強いし、検察にも少しばかりコネが効くので勝訴は多い)たとえば民事とか民事とか民事とか!を持ち込まれた時に、依頼人から概要を聞いて、そっと同じビルに入る別の先生を紹介したり、逆に刑法に絡む事件なら紹介してもらったりとなかなかに融通が効くのである。
持つべきものは、コミュニケーションを取れる隣人の事務員だ!とは、座右の銘に印したいくらいなのである。
その事務所の事務員が一同に会するのが、ビルの3階にのみ設置された給湯室で、朝、始業前にポットにお湯を入れに行く時は必ず全員が集合し、情報を綿密に交換するのである。だからその憩いの場で、まさかあんなことが待ち受けていたなんて思いもしなかったのである。
「ちょっと!ヨンヒさん!!おたくの先生!!」
「え、うちの先生が何か?」
月の変わった気怠い月曜日の朝八時三十分。
ビルの三階に唯一ある給湯室で、和やかに二階の会計事務所のミンファさんとお茶をしていた私は、同じ階のチェ法律事務所のカンさんが給湯室に駆け込んできたときに、そのあまりの剣幕に思わずあとずざりをしてしまった。
カンさんは、私より三個上で事務員としても先輩で、同じ階にある事務所同士つるむ頻度も最も高い。直ぐにカッとなったり思ったことをすぐに口に出す私とは違い、どちらかというと思慮深くて普段なら突拍子も無い(たとえば奇声を発しながら離婚訴訟を訴えたりするような)依頼人がきても、眉ひとつ動かすことなく(という感じがする)冷静に対処する彼女が、あからさまな動揺を携えて現れ出たことに、私も、会計事務所のカンさんも何事かと身構えたのは許して欲しい。
というかうちの先生?
「ウ先生! ウ・ジャンフンせんせ、指輪! 指輪してたんだって! 左手の! 薬指!!」
「は?!」
「わっ!ヨンヒさんおめでとうございます〜〜」
驚きのあまり手にしていたポットを危うく落としそうになり、慌てて両手に力を込める。年下でのんびりとした性格の会計事務所のカンさんの、私に言われてもな、な祝辞に曖昧な顔を返しつつ、走り込んできたミンさんの顔を凝視した。何だって!?!
ほんとに……?と思ったことが零れた呟いた私に、ミンさんは「さっきすれ違った時に四度見したから間違いない」と確信をもって言ってくれたものだから、さらに動揺は加速する。先週金曜日にはなかったものだ。
「金曜日は、なかったのに……」
「なかったですね〜! お土産の台湾のマンゴーケーキほう張ってる時は着いてなかったですもんね」
ほら、午後から持っていったじゃないですか〜とのほほんと合いの手を入れるカンさんに、実はこの人侮れない人だなと、評価を新たにする。その間にそれで?と、ずいと距離を詰めてきたミンさんが口を開いた。
「相手は?」
「知らないですよ〜そんな人。だいたい最近は午前様まで仕事してたし、そんなカノジョと逢い引きするようなヒマはなかったハズですしね〜」
「ウ先生、元警官で、元検事じゃない?その頃から付き合ってる彼女とかいないの?!」
「あの女っ気のない先生に?いやいやまさか!そんな話、したことありませんし、友だちだって、………」
と、そこまで言って、私ははたと気がついた。
──煙草の匂いがした、今日の事務所。
いつでもどこでもスパスパしていた警察や検事の感覚が抜けないのか、気がついたら先生も口に煙草を銜えて火を点けようとするのだから、最初わたしがこの事務所に来た時に口を酸っぱくして注意したのだ。私がかなり臭いに敏感で嫌な顔をし続けるものだから、いつしか先生も屋上に吸いにいってくれるようになった。わたしが居る前では。
しかし私が帰ったあと事務所で作業する時は、出不精をするらしく、次の朝来ると出不精をするらしく事務所に臭いが篭ったままになっているのだ。
今日篭ったままになっていた臭いは、先生の煙草だけでなく、別の臭いも混ざっていたことを思い出す。
ブルガリのプールオム。
フレグランスなどにまったく興味のない先生からその匂いが香ったことはなく、あれは、そう半年前くらいから突如事務所に出没するようになった、先生の腐れ縁である彼が好んでつける香りだ。初めて彼がこの事務所を訪れた時に、その派手な身なりと相俟って、品のいいのをつけてるのだなと思った記憶があたったし、今までも何度か事務所に来た時に、その香りをさせていたではないか。
彼──アンサングさんが事務所に現れると、書類仕事にトゲトゲしていた先生の雰囲気が途端柔らかくなり、纏っている空気もなんだか甘くなる。長年の親友というよりも近い距離で、熟年の夫婦のように楽しげに笑い合う彼らを見るのはなんだかくすぐったくて堪らなかった。
そう、彼なら、サングさんなら……。
「え! そんなのアンさん以外いないじゃないですか!!ふたりめちゃくちゃ仲良いし!!」
第四の事務員、一階のファン法律事務所のリミンさんがさも当然という顔で話に割って入ってきて、私は殴られたような衝撃を受けた。ですよね。思ったこと代弁していただきありがとうございます。というかみなさんほんとにほんとに鋭すぎて言葉が出ない。
「金曜日も来られてましたよね??その日遅くなって二十三時くらいに帰り支度してたら黒塗りのいかにもな高級車停まってましたもん」
表通りに車待たせて小躍りでこっちくる赤色のスーツめちゃくちゃ強烈で、うちの先生ビビり倒してましたよ、とさらにリミンさんは続ける。まったくどこに目があるから分かったものじゃない。
「なるほどアン・サングか〜〜。今でも事務所顔出すの?」
「まぁ、二ヶ月に一回くらいですかね」
「世紀の汚職事件の内部者と内通者ですもんね〜〜。わたしあの時のアンさんの会見ビデオ撮ってて今でもちょくちょく見直すんですけど、ほんとに男前だな〜って未だに画面ガン見しちゃいますもんね〜」
上からカンさん、私、ヨンファさんの順である。ヨンファさん、まじでつよい。
「アンさんなら仕方ないですね」
「わかる。あれは惚れるんでしょうね〜」
「ヨンヒさん、またウ先生にお祝い何がいいかそれとなーく聞いといてください〜〜」
うんうん頷きながら自分たちの結論に納得したのか各々自分の事務所に帰っていく諸事務員達の後ろ姿を見ながら、たぶんこの会話を先生に聞かれでもしたら、先生は憤死してしまうかもしれない、とひそかに思った。
というか、個人情報べらべらに、回ってるのこわっと思いながら、私も噂の出元を確かめるため、ウジャンフン法律事務所に戻ることにしたのである。
結果として、黒だった。いや、真っ黒すぎて先生しっかりして!と思わず叫びそうになった。また給湯室の話題の人になれますよ!!
カンさんが四度見したというシルバーのシンプルなリングは、朝日に反射しキラキラと輝き、先生の左手の薬指に今までもずーっとそこにあったと言わんばかりに鎮座していて、私は一瞬目眩を覚えた。
「おはよう」
「おはようございます。先生今日は十三時にお約束が一件入ってます」
「パク建設か?」
「です」
「…………了解」
上着を脱ぎながら、少しばかり嫌な顔したのはそのお約束の相手が、先生の苦手とするパク建設の社長だからだろう。社内の連続窃盗事件を解決した際に先生に好感を抱いたらしく一人娘となんとか結婚させようと画策していて細々とした事案を携えて頻繁に事務所に来るのだ。
「イ・ジョクン検事から必要書類できらからまた取りに来て欲しいってお電話入ってます。強盗強姦のやつで」
「パク社長のがおわったら検察庁行ってくるわ」
「お願いします」
必要事項を伝えると先生はすぐにパソコンに視線を落とす。口を開くと罵詈雑言ばかりが飛び出すが、たしかに黙ってるとこの人も充分男前なんだよな、おやつの時にでもそれとなく話を振ってみようと思いながら私も領収書の整理をすべく机に戻った。
事件は、案外早くに起こった。
わたしがランチから帰ってきて(諸事務員の方々に詰め寄られたが詰めはまだだと返しておいた)十三時のお茶の準備をしていた十二時五十分。トイレから返ってきた先生とすれ違った瞬間だった。
(────!!)
それに気がついた瞬間、息が止まったと思う。
というか変な呼吸になって鼻からぴ、っと息が漏れた。
それに気が付かなかったのは、わたしがいつも先生を見つめる左側ではなく、先生の右側にあったからだと弁解したい。指輪指輪に気を取られて見落としていただけかもしれないけれど。
清潔そうな薄いブルーのカッターシャツの襟と短く切られた黒髪のちょうど襟足のちょうど間。
カッターシャツの襟の隠れるか隠れないか(いや隠れてはないんだけども)のギリギリの場所に浮かぶにぽつりと残された赤い跡。
この時期虫刺されには少し早い。先生はとくにアトピーなどもないし、そもそもそんなところに赤い跡がひとつきり付くなんてどう考えてもあれしかなかった。──そう、キスマーク。
指輪、指輪渡したから盛り上がっちゃったか〜なんて逃避した思考に陥るが、十三時からのお約束を思い出し、わたしは多いに慌てた。こんなぽやぽやしている先生を自分の娘の婿にと先生に手ぐすね引く社長の前に出してはならない……。指輪でさえも決定打なのに、そんな先生のプライベートに触れることを吹聴してやる必要も無い相手にである。
私は決意すると、すぐさま自分の席に戻り、黒いメイクポーチを引っつかむ。その中からスティックタイプのコンシーラーを取り出して、あくまに自然な感じを先生の前に躍り出た。
落ち着け、落ち着け。十三時まであと五分。時間はせまっているが落ち着くのだ。
「先生あの〜……すこぉ〜しお話がありまして……」
「給料アップは無理や」
「そんな現実的な話は今は置いときます。ではなく、これを」
と彼の前にコンシーラーを差し出した。ぱちぱちと驚きでか瞬きするのがなんだか可愛くて、ゆるみそうになる頬に精一杯力を込める。
「なん、何やこれリップ……?」
「コンシーラーです。女性の天敵シミクマを撃退するための」
「は? うん? なんで……」
「ウ先生。大変、大変申し上げにくいんですが、付いてるんですよ」
ここに、と私のクビの右後ろを指さした。
くび……?といいながら先生は自分の右後ろをに手をやった。そうして私の言った意味を理解したのかつぎの瞬間、ボンっと音がするんじゃないかという勢いでリンゴのように真っ赤になり、ばちんと叩くようにして手でそれを慌てて隠した。
「〜〜〜〜ッッッ!!!シーバル、くっそあいつ……!!!」
おお、と思わず思ってしまった。この人の元で働き始めてからは初めて見る表情だった。
少しは怒りが混ざっているのかもしれないが、そこには照れと驚きと、そして純粋な愛情が浮かんでいるのだからこちらが見てはいけないものを見てしまった気になる。
──きらきら光り輝いているというか、素直に羨ましかった。
恋をしているのだ。
生真面目な先生に、こんないたずらを仕掛けるようなそんな可愛らしい一面を持つ人と。
「っ、すまん。見苦しいところを……」
「いえいえ〜ささっパク社長来られる前にちゃちゃっと塗っちゃってください」
真っ赤に染った頬が可愛いなと、もはや緩みっぱなしで笑顔しか浮かばない頭で考えつつ、先生をせっつく。
わたしが塗っても良かったが、それは先生と先生の大切な人の間に割って入ってしまう気がしてぐっと堪えた。
出入口の姿見まで走っていった先生が慣れない様子でコンシーラーを襟足に塗りたくるのを見守りながら、お茶の準備を再開する。
「ヨンヒさん、これでどない?」
「んんー」
振り向いた先生は首を逸らして、赤い跡があった場所を見せてくれた。うむ。後はすっかり隠れているし、コンシーラーの浮きもなさげで自然に馴染んでいる。
「大丈夫だと思いますよ〜ただ擦っちゃダメです」
「助かった。すまなかったよ。ほんとにありがとう」
心底ほっとした顔をうかべる先生に、また御相手のこと教えて下さいね〜なんて言いながら、役目を果たしたコンシーラーを受け取ったのだった。
その日の夕方。
目ざとく先生の指輪を見つけたパク社長にさんざん根掘り葉掘り聞かれた先生は、げっそりとした顔して予定より一時間あとに検察庁に出かけていった。もう直帰するからと言い残し。
終業時間をまわり、洗い物をするために給湯室に向かった私は、朝の事務員三人に目ざとく捕まる。
「で、お相手は?」
「今日はもう先生帰られたんです?なんかすんごい剣幕で『ウ先生が結婚したなんて!』っていいながらオカエリになるご老人にもすれ違いましたよ〜」
「いやもう、それどころじゃなくて、」
キスマークが、と口走りそうになったとき、はたと違う足音に気がついた。
「あ、サングさん」
わたしがペコりと頭を下げると、事務員たちはいっせいに彼を見た。見られることに慣れているのか、そんな視線はモロトモせずに、今日はいつか見た生成色したスーツを着た彼がふわりと笑う。
「どうしたんです? 先生今日はもう直帰されましたよ」
「いや、今日は、お嬢ちゃんにご迷惑おかけしたお礼を、ってね」
そう言って差し出されたのは、わたしの愛用のデパコスの速攻で売り切れて買い逃してしまった福袋セットだった。
え、と想わず声が出る。
ナンデ、サングさんが、私にこれを??
「怒られたんだよ。怒りの電話がかかってきてよ。俺のせいでとんだ迷惑をかけちまったって」
「??」
本気で分からない私にサングさんは、悪戯っぽく笑うと、トントンっと左手で自分の首元を叩いた。ちょうど先生が四苦八苦してコンシーラーで跡を隠した襟首の当たりを。
しかも薬指に指輪のはまった左手である。
それを、見て、天啓のように今日の出来事が全てつながる。ああ、なんだそうなんだ。と不思議とオドロキよりも安堵が、かけめぐる。
事務所にかすかに残っていたフレグランスの香りは、間違いなく今彼が着けているブルガリのプールオムだし、指輪は先生と同じシルバーのシンプルなもの。ああ、だから、それで。
「次からは気をつくるようにするからよ」
「ほんとにそうして下さいよ。あとパク社長には先生がちゃんとお断りいれてらしたからご心配なく」
あとちゃんと夜換気してくださいよ〜と返すと、目をぱちくりさせたカレが今度は口を開けてあどけなく笑った。構えることのないすんだ笑み。
「そうする。じゃあ!」
「お幸せに〜」
要件は住んだとばかりに颯爽と去っていく彼を見つめた。
あぁ、恋をしているのだ。
お互いに惹かれ合いながら、彼らは恋をしているのだ。
さっきのは誰だとトタンに詰め寄られるなか、わたしは妙に清々しい気持ちで黙秘することにさたのである。
それは味気ない職場において、大事なコミュニケーションの憩いの場となる非常に重要な要塞だった。
特に、2人っきりの職場で、雇い主でもある上司と四六時中顔を突き合わせて置かなければならないわたしにとって、ささやかすぎる精神の安らぎを求める場なのである。
わたしが勤める法律事務所が入るビルには、他にも7軒の行政書士事務所や会計事務所そうして法律事務所が入っている。
それこそ、大手の法律事務所から独立した新進気鋭の若手弁護士や、金融事件にめっぽう強い弁護士など強豪がひしめいている。が、だいたいはうちと同じ経営体制(つまり先生一人、事務員一人ないし二人の独立事務所)で、世知辛い世の中、細々した事件や事案で食いつなぐ。それゆえ事務員どうし、仲はかなり良好なのである。
お昼になれば、先生が在室していれば電話番をお任せして事務所を空けられる者同士でランチに行ったり、休日に旅行に行けばお裾分けと評してお菓子をくばったりあったり、アフターファイブにディナーに行ってお互いの仕事の愚痴を言い合ったり。
この関係、実は仕事にもかなり直結していて、うちの先生の専門じゃない(ちなみにうちは元検事だけあって刑事事件にはめっぽう強いし、検察にも少しばかりコネが効くので勝訴は多い)たとえば民事とか民事とか民事とか!を持ち込まれた時に、依頼人から概要を聞いて、そっと同じビルに入る別の先生を紹介したり、逆に刑法に絡む事件なら紹介してもらったりとなかなかに融通が効くのである。
持つべきものは、コミュニケーションを取れる隣人の事務員だ!とは、座右の銘に印したいくらいなのである。
その事務所の事務員が一同に会するのが、ビルの3階にのみ設置された給湯室で、朝、始業前にポットにお湯を入れに行く時は必ず全員が集合し、情報を綿密に交換するのである。だからその憩いの場で、まさかあんなことが待ち受けていたなんて思いもしなかったのである。
「ちょっと!ヨンヒさん!!おたくの先生!!」
「え、うちの先生が何か?」
月の変わった気怠い月曜日の朝八時三十分。
ビルの三階に唯一ある給湯室で、和やかに二階の会計事務所のミンファさんとお茶をしていた私は、同じ階のチェ法律事務所のカンさんが給湯室に駆け込んできたときに、そのあまりの剣幕に思わずあとずざりをしてしまった。
カンさんは、私より三個上で事務員としても先輩で、同じ階にある事務所同士つるむ頻度も最も高い。直ぐにカッとなったり思ったことをすぐに口に出す私とは違い、どちらかというと思慮深くて普段なら突拍子も無い(たとえば奇声を発しながら離婚訴訟を訴えたりするような)依頼人がきても、眉ひとつ動かすことなく(という感じがする)冷静に対処する彼女が、あからさまな動揺を携えて現れ出たことに、私も、会計事務所のカンさんも何事かと身構えたのは許して欲しい。
というかうちの先生?
「ウ先生! ウ・ジャンフンせんせ、指輪! 指輪してたんだって! 左手の! 薬指!!」
「は?!」
「わっ!ヨンヒさんおめでとうございます〜〜」
驚きのあまり手にしていたポットを危うく落としそうになり、慌てて両手に力を込める。年下でのんびりとした性格の会計事務所のカンさんの、私に言われてもな、な祝辞に曖昧な顔を返しつつ、走り込んできたミンさんの顔を凝視した。何だって!?!
ほんとに……?と思ったことが零れた呟いた私に、ミンさんは「さっきすれ違った時に四度見したから間違いない」と確信をもって言ってくれたものだから、さらに動揺は加速する。先週金曜日にはなかったものだ。
「金曜日は、なかったのに……」
「なかったですね〜! お土産の台湾のマンゴーケーキほう張ってる時は着いてなかったですもんね」
ほら、午後から持っていったじゃないですか〜とのほほんと合いの手を入れるカンさんに、実はこの人侮れない人だなと、評価を新たにする。その間にそれで?と、ずいと距離を詰めてきたミンさんが口を開いた。
「相手は?」
「知らないですよ〜そんな人。だいたい最近は午前様まで仕事してたし、そんなカノジョと逢い引きするようなヒマはなかったハズですしね〜」
「ウ先生、元警官で、元検事じゃない?その頃から付き合ってる彼女とかいないの?!」
「あの女っ気のない先生に?いやいやまさか!そんな話、したことありませんし、友だちだって、………」
と、そこまで言って、私ははたと気がついた。
──煙草の匂いがした、今日の事務所。
いつでもどこでもスパスパしていた警察や検事の感覚が抜けないのか、気がついたら先生も口に煙草を銜えて火を点けようとするのだから、最初わたしがこの事務所に来た時に口を酸っぱくして注意したのだ。私がかなり臭いに敏感で嫌な顔をし続けるものだから、いつしか先生も屋上に吸いにいってくれるようになった。わたしが居る前では。
しかし私が帰ったあと事務所で作業する時は、出不精をするらしく、次の朝来ると出不精をするらしく事務所に臭いが篭ったままになっているのだ。
今日篭ったままになっていた臭いは、先生の煙草だけでなく、別の臭いも混ざっていたことを思い出す。
ブルガリのプールオム。
フレグランスなどにまったく興味のない先生からその匂いが香ったことはなく、あれは、そう半年前くらいから突如事務所に出没するようになった、先生の腐れ縁である彼が好んでつける香りだ。初めて彼がこの事務所を訪れた時に、その派手な身なりと相俟って、品のいいのをつけてるのだなと思った記憶があたったし、今までも何度か事務所に来た時に、その香りをさせていたではないか。
彼──アンサングさんが事務所に現れると、書類仕事にトゲトゲしていた先生の雰囲気が途端柔らかくなり、纏っている空気もなんだか甘くなる。長年の親友というよりも近い距離で、熟年の夫婦のように楽しげに笑い合う彼らを見るのはなんだかくすぐったくて堪らなかった。
そう、彼なら、サングさんなら……。
「え! そんなのアンさん以外いないじゃないですか!!ふたりめちゃくちゃ仲良いし!!」
第四の事務員、一階のファン法律事務所のリミンさんがさも当然という顔で話に割って入ってきて、私は殴られたような衝撃を受けた。ですよね。思ったこと代弁していただきありがとうございます。というかみなさんほんとにほんとに鋭すぎて言葉が出ない。
「金曜日も来られてましたよね??その日遅くなって二十三時くらいに帰り支度してたら黒塗りのいかにもな高級車停まってましたもん」
表通りに車待たせて小躍りでこっちくる赤色のスーツめちゃくちゃ強烈で、うちの先生ビビり倒してましたよ、とさらにリミンさんは続ける。まったくどこに目があるから分かったものじゃない。
「なるほどアン・サングか〜〜。今でも事務所顔出すの?」
「まぁ、二ヶ月に一回くらいですかね」
「世紀の汚職事件の内部者と内通者ですもんね〜〜。わたしあの時のアンさんの会見ビデオ撮ってて今でもちょくちょく見直すんですけど、ほんとに男前だな〜って未だに画面ガン見しちゃいますもんね〜」
上からカンさん、私、ヨンファさんの順である。ヨンファさん、まじでつよい。
「アンさんなら仕方ないですね」
「わかる。あれは惚れるんでしょうね〜」
「ヨンヒさん、またウ先生にお祝い何がいいかそれとなーく聞いといてください〜〜」
うんうん頷きながら自分たちの結論に納得したのか各々自分の事務所に帰っていく諸事務員達の後ろ姿を見ながら、たぶんこの会話を先生に聞かれでもしたら、先生は憤死してしまうかもしれない、とひそかに思った。
というか、個人情報べらべらに、回ってるのこわっと思いながら、私も噂の出元を確かめるため、ウジャンフン法律事務所に戻ることにしたのである。
結果として、黒だった。いや、真っ黒すぎて先生しっかりして!と思わず叫びそうになった。また給湯室の話題の人になれますよ!!
カンさんが四度見したというシルバーのシンプルなリングは、朝日に反射しキラキラと輝き、先生の左手の薬指に今までもずーっとそこにあったと言わんばかりに鎮座していて、私は一瞬目眩を覚えた。
「おはよう」
「おはようございます。先生今日は十三時にお約束が一件入ってます」
「パク建設か?」
「です」
「…………了解」
上着を脱ぎながら、少しばかり嫌な顔したのはそのお約束の相手が、先生の苦手とするパク建設の社長だからだろう。社内の連続窃盗事件を解決した際に先生に好感を抱いたらしく一人娘となんとか結婚させようと画策していて細々とした事案を携えて頻繁に事務所に来るのだ。
「イ・ジョクン検事から必要書類できらからまた取りに来て欲しいってお電話入ってます。強盗強姦のやつで」
「パク社長のがおわったら検察庁行ってくるわ」
「お願いします」
必要事項を伝えると先生はすぐにパソコンに視線を落とす。口を開くと罵詈雑言ばかりが飛び出すが、たしかに黙ってるとこの人も充分男前なんだよな、おやつの時にでもそれとなく話を振ってみようと思いながら私も領収書の整理をすべく机に戻った。
事件は、案外早くに起こった。
わたしがランチから帰ってきて(諸事務員の方々に詰め寄られたが詰めはまだだと返しておいた)十三時のお茶の準備をしていた十二時五十分。トイレから返ってきた先生とすれ違った瞬間だった。
(────!!)
それに気がついた瞬間、息が止まったと思う。
というか変な呼吸になって鼻からぴ、っと息が漏れた。
それに気が付かなかったのは、わたしがいつも先生を見つめる左側ではなく、先生の右側にあったからだと弁解したい。指輪指輪に気を取られて見落としていただけかもしれないけれど。
清潔そうな薄いブルーのカッターシャツの襟と短く切られた黒髪のちょうど襟足のちょうど間。
カッターシャツの襟の隠れるか隠れないか(いや隠れてはないんだけども)のギリギリの場所に浮かぶにぽつりと残された赤い跡。
この時期虫刺されには少し早い。先生はとくにアトピーなどもないし、そもそもそんなところに赤い跡がひとつきり付くなんてどう考えてもあれしかなかった。──そう、キスマーク。
指輪、指輪渡したから盛り上がっちゃったか〜なんて逃避した思考に陥るが、十三時からのお約束を思い出し、わたしは多いに慌てた。こんなぽやぽやしている先生を自分の娘の婿にと先生に手ぐすね引く社長の前に出してはならない……。指輪でさえも決定打なのに、そんな先生のプライベートに触れることを吹聴してやる必要も無い相手にである。
私は決意すると、すぐさま自分の席に戻り、黒いメイクポーチを引っつかむ。その中からスティックタイプのコンシーラーを取り出して、あくまに自然な感じを先生の前に躍り出た。
落ち着け、落ち着け。十三時まであと五分。時間はせまっているが落ち着くのだ。
「先生あの〜……すこぉ〜しお話がありまして……」
「給料アップは無理や」
「そんな現実的な話は今は置いときます。ではなく、これを」
と彼の前にコンシーラーを差し出した。ぱちぱちと驚きでか瞬きするのがなんだか可愛くて、ゆるみそうになる頬に精一杯力を込める。
「なん、何やこれリップ……?」
「コンシーラーです。女性の天敵シミクマを撃退するための」
「は? うん? なんで……」
「ウ先生。大変、大変申し上げにくいんですが、付いてるんですよ」
ここに、と私のクビの右後ろを指さした。
くび……?といいながら先生は自分の右後ろをに手をやった。そうして私の言った意味を理解したのかつぎの瞬間、ボンっと音がするんじゃないかという勢いでリンゴのように真っ赤になり、ばちんと叩くようにして手でそれを慌てて隠した。
「〜〜〜〜ッッッ!!!シーバル、くっそあいつ……!!!」
おお、と思わず思ってしまった。この人の元で働き始めてからは初めて見る表情だった。
少しは怒りが混ざっているのかもしれないが、そこには照れと驚きと、そして純粋な愛情が浮かんでいるのだからこちらが見てはいけないものを見てしまった気になる。
──きらきら光り輝いているというか、素直に羨ましかった。
恋をしているのだ。
生真面目な先生に、こんないたずらを仕掛けるようなそんな可愛らしい一面を持つ人と。
「っ、すまん。見苦しいところを……」
「いえいえ〜ささっパク社長来られる前にちゃちゃっと塗っちゃってください」
真っ赤に染った頬が可愛いなと、もはや緩みっぱなしで笑顔しか浮かばない頭で考えつつ、先生をせっつく。
わたしが塗っても良かったが、それは先生と先生の大切な人の間に割って入ってしまう気がしてぐっと堪えた。
出入口の姿見まで走っていった先生が慣れない様子でコンシーラーを襟足に塗りたくるのを見守りながら、お茶の準備を再開する。
「ヨンヒさん、これでどない?」
「んんー」
振り向いた先生は首を逸らして、赤い跡があった場所を見せてくれた。うむ。後はすっかり隠れているし、コンシーラーの浮きもなさげで自然に馴染んでいる。
「大丈夫だと思いますよ〜ただ擦っちゃダメです」
「助かった。すまなかったよ。ほんとにありがとう」
心底ほっとした顔をうかべる先生に、また御相手のこと教えて下さいね〜なんて言いながら、役目を果たしたコンシーラーを受け取ったのだった。
その日の夕方。
目ざとく先生の指輪を見つけたパク社長にさんざん根掘り葉掘り聞かれた先生は、げっそりとした顔して予定より一時間あとに検察庁に出かけていった。もう直帰するからと言い残し。
終業時間をまわり、洗い物をするために給湯室に向かった私は、朝の事務員三人に目ざとく捕まる。
「で、お相手は?」
「今日はもう先生帰られたんです?なんかすんごい剣幕で『ウ先生が結婚したなんて!』っていいながらオカエリになるご老人にもすれ違いましたよ〜」
「いやもう、それどころじゃなくて、」
キスマークが、と口走りそうになったとき、はたと違う足音に気がついた。
「あ、サングさん」
わたしがペコりと頭を下げると、事務員たちはいっせいに彼を見た。見られることに慣れているのか、そんな視線はモロトモせずに、今日はいつか見た生成色したスーツを着た彼がふわりと笑う。
「どうしたんです? 先生今日はもう直帰されましたよ」
「いや、今日は、お嬢ちゃんにご迷惑おかけしたお礼を、ってね」
そう言って差し出されたのは、わたしの愛用のデパコスの速攻で売り切れて買い逃してしまった福袋セットだった。
え、と想わず声が出る。
ナンデ、サングさんが、私にこれを??
「怒られたんだよ。怒りの電話がかかってきてよ。俺のせいでとんだ迷惑をかけちまったって」
「??」
本気で分からない私にサングさんは、悪戯っぽく笑うと、トントンっと左手で自分の首元を叩いた。ちょうど先生が四苦八苦してコンシーラーで跡を隠した襟首の当たりを。
しかも薬指に指輪のはまった左手である。
それを、見て、天啓のように今日の出来事が全てつながる。ああ、なんだそうなんだ。と不思議とオドロキよりも安堵が、かけめぐる。
事務所にかすかに残っていたフレグランスの香りは、間違いなく今彼が着けているブルガリのプールオムだし、指輪は先生と同じシルバーのシンプルなもの。ああ、だから、それで。
「次からは気をつくるようにするからよ」
「ほんとにそうして下さいよ。あとパク社長には先生がちゃんとお断りいれてらしたからご心配なく」
あとちゃんと夜換気してくださいよ〜と返すと、目をぱちくりさせたカレが今度は口を開けてあどけなく笑った。構えることのないすんだ笑み。
「そうする。じゃあ!」
「お幸せに〜」
要件は住んだとばかりに颯爽と去っていく彼を見つめた。
あぁ、恋をしているのだ。
お互いに惹かれ合いながら、彼らは恋をしているのだ。
さっきのは誰だとトタンに詰め寄られるなか、わたしは妙に清々しい気持ちで黙秘することにさたのである。
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