仙牧 新⬆旧⬇
病院の入口で俺を待ち構えていた宮城の表情は硬く、それだけで心臓が止まるような心地がした。
宮城とは、彼が渡米してから何年かぶりに会ったというのに、ろくに世間話もできやしなかった。
「すまん宮城……世話をかけた」
「いえいえ何をおっしゃるやら。お久しぶりっす牧さん。」
「ああ、そっちも元気そうで何よりだ。──それで手術は?」
自分でも随分硬い声が出たと思う。余裕がないのだ。
「左大腿部の開放骨折の手術は成功してるみたいです。もう一般病棟に移ってて術後の経過も良好。……でも、ちょっと、──いや大分困ったことがあって」
「困ったこと?」
まぁまぁと安心させるように格好を崩してそう言った宮城の言葉に、ほんの少し胸を撫で下ろしたのも束の間、彼は何度か口を閉じたり開いたりして最適な言葉を探したあと「仙道に記憶の混乱が見られるんです」と厳かに告げた。
「──……それは来る途中に、深津からも聞いた。着地が悪くて頭から落ちたって、」
「あ、ふかっさんからも連絡あったんスね。それは良かった。脳や脳波には異常は無いようなんです。もしかしたら全身麻酔の影響かもしれない。お医者も日常生活には問題はないだろうって言ってました」
「そうか」
「──ただ。アイツと関わりのあった人物を記憶してる頭のメモリーの部分に異常が生じてるのか……」
そこで言葉を切った宮城は、力無く首を振り「オレ、アイツに会った時、『高校の同級生だったかな?』って聞かれたンすよ」と沈痛な面持ちで吐き出したのだった。
ドクドクと自分の心臓の音が耳元で、早鐘のように早まるのを感じる。心臓がまるでそこに付いているかのようにそれのみが聞こえる。
そうして電話を受けた時と同じ、最悪の事態が脳裏をよぎり、らしくもなく胸が苦しくなる。
──紳一さん、俺は絶対あんたの手を離さないから
なぜ今思い出すのがそれなのだろうか。
いつかのモーテルで、あいつに抱きしめられながら二人で見上げた真っ赤な夕陽を思い出して堪らなくなる。
俺は宮城からあいつの病室を聞くなり、居てもたってもいられなくなり、ほとんど全速力で走り始めたのだった。
*****
──その夕暮れを見たのは、確か数年前。
あぁ、そうだ。
あれは確かあいつと、仙道彰と結婚して籍を入れて間もない頃で、憧れのバスケットの国で、バスケをする仙道に会いに、西海岸沿いの彼の仮の住居の訪れていた時の話だ。
仙道と俺は高校の頃から付き合っていて、彼が日本の実業団から渡米する直前にプロポーズされて、それに対して諾の返事をし、籍を入れた。俺が二十七、仙道が二十六になる年だった。
試合中当たり負けした時に右膝に怪我を負い、大学卒業と共にバスケは辞めてしまった俺とは違い、国を飛び出してバスケットをする機会を得た仙道を羨むことはすれ、心から応援していたし精一杯のサポートをできていたとは思う。
──しかし実情は、仕事で国内外をあちこち飛び回る俺と、渡米してバスケットに専念する仙道とで、一緒にはなったものの、共にゆっくり過ごせる時間など取れるはずなく、時折掛かってくるあいつからの国際電話と、気まぐれに届く角張った文字の手紙だけが心の支えだった。
結婚当初は世界に二人きりしかいないような高揚感と、たしかな喜びに満ちていたのに、そんな新緑を愛でるような初々しい感情は、籍を入れて半年も経つ頃には跡形もなくなくなってしまった。
気安く会いに行けるような距離でもなく、次第にお俺たちの間には、ボタンを掛け違えたような見えない溝──俺たちの関係を知ったあいつのチームメイトのいらんチャチャ入れや、同性婚について封建的な考えの両親の理解を得られず見合いの場を何度も設けられたことなどがそれに当たる──が出来てしまっていて、そうして、それが顕在化する事態になってしまったのだ。
俺があいつの元に訪れている時に。
ちょうどオフシーズンに入ったタイミングに訪れた仙道のかの国での借家は、しっちゃかめっちゃかになっていて、ここではゆっくりも出来ないからと、ドライブに誘われた。
「こっちは車がねぇとどこも行けねぇから」と、買ったばかりと言う割にはボロボロのキャデラックを運転してくれた仙道は、調子の外れた鼻歌をうたい、ひどく上機嫌だったことをよく覚えている。
キラキラと強い日差しが海面を反射するだだっ広い道路を、スピードを出してひたすら走るのは爽快で、時折ショッピングモールやダイナーに立ち寄りながら、会えなかった間のさまざまな話をふたりする。その時には、はやりこいつといると、心が安らぐなんて思ったりもしていたのだ。
そして、──そのままそういう雰囲気になり、流れで海沿いのモーテルに入ったのだった。
昼間から来る客も珍しくないのか、部屋の鍵を俺にさっさと押し付けた受付のアフリカ系のご婦人は、日本でも放送していた医療ドラマにご執心で、明日の朝までの料金を何回聞いても生返事で要領を得ず、こっちの話をろく聞いちゃいなかった。
借りたのは海が見える角部屋で、部屋に入った瞬間「牧さんっ」と押し倒そうとしてきたあいつに逆さらうことなく、ベッドに身を任そうとした。
しかしその時、車に乗っている間なぜか気が付かなかった今まで嗅いだこともなかった僅かに甘い香りが鼻腔をくすぐり、瞬間的に顔を背けてしまう。
「牧さん?」
「お前、こっちに来て……香水なんて付けることを覚えたのか?」
「香水……? っあぁ! いやこれはチームメイトに教えてもらって……アジア人はそんな体臭はキツくないから香水なんかは必要じゃないって言っても理解して貰えないんスよ」
──嫌な香りだった? 今日恋人に会うって言ったらこれくれたんスけど……シャワー先に浴びましょうか?
そう話すこの男に悪気はない。どころか仙道に香水を渡したチームメイトも、そんなつもりは毛頭ないのだろう。
しかし、妙に甘ったるいその匂いは、ただひたすらこの男に合っていない。そんな気がしたのだ。
女性を誘うかのようなそんな匂い、お前には似合わないだろう。
安らぎと得たと思った心は瞬時に置き変わってしまい、そんなぶつけようのない苛立ちがじとりと身を包んでいくのを自覚する。どうしようもないことだと分かっているのに、自分を止められなかった。
「‥‥‥いい、んじゃないのか? 女性だってその匂い好きだろうし」
「女性? いや今はあんたと話してんのに、女関係ないでしょ」
──ねぇ、それどういうこと?
ずいと顔を近づけてくる男の顔には、もう人好きのする笑顔は浮かんでいなかった。
もうそこからは果てしない口論と、終わりのない議論を繰り返した。
その過程で仙道はこっちに来てから、他の女性と関係を持った事を暴露したし、俺も断り切れなかった見合いを何度か受けざる負えなかった話をした。
付き合ってもう十年になろうかと言う長い期間の中で、この男とこんなに激しい口論を展開したのは初めてだった。お互い理性は働く方だったから、暴力に訴えなかっただけましだったのかもしれない。
互いを口汚く罵りあって、言いたくもない言葉をなげつけて。
最終的に俺が「……もう籍を抜くか」と言い放ったのだ。よく考えもしない勢いだけの弾みのような言葉だった。
しかし、それを聞いた仙道は、大きな瞳を丸くして、わなわなと震え出したのをよく覚えている。
声もなくしてしまったかのように下を向いて黙りこくって、両手の拳も握りしめて。
そこで俺はハッとして、自分がどれだけ酷い言葉を彼に放ったのかに気がついたのだった。
俺も罰が悪くなって下を向き、常にある頭の冷静な部分で言い訳を考え続けていた。
「……すまん、言いすぎた。そんなつもりは、」
「絶対に嫌です。あんたを離すのは絶対に」
──だから、はなれていかないで。
俺の言葉に被さるようにしてそう言った男は、少しタレ目がちの大きな瞳から、子供のようにボロボロと涙をこぼしている。それにギョッとして、俺の方が慌ててしまった。
「俺、悪いところは全部直します。ぜんぶ。だから離れていかないで。俺、紳一さんと別れるなんて、そんなこと、考えられなぃ……っ、」
大きな身体を震わせて、しゃくりあげながら涙を流す男に、「俺も言いすぎた。そんなつもりはあるもんか」としどろもどろに言いながら、もう腕の回りきらなくなった大きな身体を抱きしめて指先で涙を拭う。
こっちに来て仙道はさらに体格が良くなった。顔は可愛らしいともすればベビーフェイスに近いというのにとんだ詐欺だ。
「……長いこと離れているから俺も不安になってた。お前がいるのに、見合いなんか受けてすまなかった」
「こっちこそ、……女と浮気するような真似してすみませんでした」
その内ぎゅうぎゅうと男からも痛いくらいに強くハグを返されて、言い争っていたことがどうでも良くなる。
いや内容的には全く良くなかったが、お互いに思っていた胸の内を吐露したことで、詰まりが流れたような状態だった。
そうして。
──そのうち抱きしめ合うだけじゃ、優しいキスを送り合うだけじゃ足りなくなって。
どちらともなくベッドに誘いながら、合わせた唇を深めていった。
まだ夕暮れが部屋にまだらの影の模様を浮かび上がらせているような日の高いうちから、仙道と久々のセックスに耽る。ほぼ一年近く空いていたいたから即物的な交わりではなくじっとりと快感を身体に染み込ませるようなセックスだった。
上に下になりながら、互いの衣服を剥ぎ取って、仙道の白い肌のそこいら中に所有の証を刻みつけた。
「俺には跡つけんなって言うのに‥‥‥」
「っぁ、ふぅ、こらっ。お前は、代謝がいいから、すぐに消えるだろうが」
「ちぇっ、じゃあおれはこっちに、」
そう言って仙道は俺の内股を大きく開かせると、俺が知りもしないような所にまで舌を這わせてキツく吸い上げてくるので、自然と肌が粟立った。
お互いへの愛おしさに、ただただ溺れ、二人きりの世界にのめりこむ。
──幸せだ。
これを幸せと言わずしてなんと言えばいいのだろう。
身体の奥の深い部分で何度も男を受け止めて、ベッドの上で至上の幸福を感じながら、訪れる小さな死を幾度も享受した。
何度目かの交わりの後、ベッドにただただ二人寝転がって、時折仙道から齎される深いキスで窘められながら、大きな窓から見える、海に沈みゆく美しい夕陽を見上げたのだった。
しかし──まるで血で濡らしたような禍々しい赤を放つ大きな太陽が、徐々に姿を消していく様が、そうしてそれを取り囲むようにして、迫り来る夜の闇の深さが、幸福など一瞬だと暗示されているようで、芯まで暖かくなっていた心をじわりと凍てつかせた。
まだ舌の根も乾かぬ言い争いをしたばかりなのもあるだろう。
とろとろとした身体が疼くような甘い余韻さえ急速に奪われてしまうようだった。
「わぁ、真っ赤っかですね。こりゃすげぇや」
人のうなじに舌を這わしながら、仙道はそんなことを言って感嘆を漏らしていた。
赤い赤い太陽に、美しいという感情よりも『怖い』という感情が、言葉になって身体に零れ落ちていく。
「紳一さん?」
夕陽を見つめたまま、囚われたように動けなくなった俺を見て、仙道は汚れていないシーツで後ろから俺を包んで抱きしめてくれた。耳朶を甘く食んで、するりと頬を撫でてられて、まるで彼にあやされているようだった。
夕方になって僅かに伸びた彼の髭が、時折ザラリと肌に触れるのが、妙にくすぐったかったのをよく覚えている。
抱きしめられた胸がシーツ越しに触れ合う度に、スポーツマンらしくゆっくりと力強く脈拍を刻む仙道の鼓動を感じるたびに、怖いものなど何もないと主張するその存在のみが心の拠り所で、今現在の唯一のぬくもりようにも思えたのだ。
「紳一さん、あなたでも怖い?」
「…………随分な言いようだな。俺でも感傷に浸る感情は持ち合わせてるさ」
──日本でひとり暗い部屋に帰る時、割としょっちゅう動けなくなる。すごく怖くなる。
お前とこうして籍を入れて一緒にいるのなんて、ただの幻なんじゃないかって──
呆れさせるかもしれないなどという心配などはなかった。自分の中に巣食う負の感情を、仙道に共有することに迷いもなかった。
これは漠然とした寂寥感だとは分かっている。
あと三日もすれば、顔が見たくなってもすぐに会うことなどできない生活がまた訪れるから。
昼を急き立てるようにして訪れる夜が、まだ完全に瘡蓋かさぶたになりきっていない口論の余韻を引きずる俺への影響は思ったよりも大きかったのだ。
仙道はそんな俺の姿を見かねたからか、まるで小さな子供がするように、抱き込んだ俺の背中に髪を立ち上げたままの自身の頭をスリスリと擦り付けた。
ぎゅうぎゅうと抱きしめる腕の強さが強くなって、冷えた心に暖かい感情が流れ込む。
「──俺ね、夢があるんですよ」
「夢?」
そうして、ふと囁かれた仙道の意外な言葉に目を丸くする。
ふふんと、いかにも得意げに微笑んだ歳下の男は、俺の顔を覗き込み、安心させるように尚も俺の身体をさすりながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺、将来……まぁバスケ辞めてからになるでしょうけど、海が見えるでっかい家に住みたいんです。俺動物が結構好きなんですけど、高校も大学もこっちきてもペットはダメだったから飼えなくて。沢山のワンちゃんを浜辺で散歩させて、俺はそれ見ながら釣り糸垂らして」
「……こら、放し飼いにするんじゃない」
「でもそこは紳一さんがいるから大丈夫でしょ?」
当たり前のようにそう言った仙道に、今度は俺が目を丸くする番だった。
「ワンちゃんたちにサーフィン教えるでしょ? 紳一さんなら絶対に」
絶対躾も上手いだろうし、と言ってふふっと笑う仙道を、俺は黙って見つめることしか出来なかった。
「それからたまに丘おかに上がってくるあんた達を、俺は堤防で眺めてるんです。特等席でね。『今日の波はどうですか』って。紳一さんとその日の海や波の話をして。そのままびしょ濡れになったワンちゃんたちと一緒に浜辺を散歩するのもいい。たまには俺が船を出してあんたたちと沖に行くのなんか最高かもしれない」
──だからね。だから紳一さん。俺は絶対あんたの手を離さないから。
やけに自信満々に告げられた言葉が、心の深い部分に沁みて身体がじわりと体温を上げていく。
当たり前のように、俺が隣にいるやけに具体的でキラキラとした仙道の夢とやらの話を、あぁ、それはいいな、と心から思ってしまったのだった。
──瞬間俺の頭に浮かんだ別の可能性は見て見ぬふりをして。
「──お前が言い出しっぺなんだから、トレーニングはちゃんとしろよ」
そんなつっけどんな言葉しか返せなかったが、もう沈んでゆく夕陽を見ても怖くなどなかった。
血に染ったような赤い太陽の光が僅かに和らいで、ひどく安堵したことを鮮明に覚えていた。
──けれども、彼が、仙道がそれすら全て忘れてしまったとしたら?
考え合うる中で最も最悪のたらればを前にして、あの時のように真っ赤な夕陽が差し込む病室の中で、呆然と立ち尽くすしか無かった。
四方から闇が迫って長い長い夜が訪れる。
生命の音がする夏の夜ではなく、全てが凍った冬の夜を連想させる夜の気配に、あの時と同じように急速に体温が奪われていくのを感じた。
ベッドの上で息を切らして走ってきた俺を見ても、顔色一つ変えない男がひとり。
そればかりか、コトリと首を傾げるさまはさも不可解そうで、俺の事を初対面の人間を見るような、どこか緊張して強ばった面持ちでこちらを見つめる男の心情など、俺はまったく推察することはできなかった。
「せん、」
「……あー。ごめんなさい。今、俺記憶があやふやで。ぼく?いや俺?のオトモダチとかチームメイトかでしょうか?」
──俺バスケット選手だって言うのは、病院のセンセイから聞いたんですけど。
そう言っていつもの人好きのするニヘラッとした笑みをつくろうとした男は、しかしそれには失敗したのか少し困惑した顔で俺を見上げていた。
その言葉を聞いた瞬間、俺は全身の血液がドッと音を立てて下がっていくのが分かった。
ふらりと倒れそうになる体に、なんとか両脚に力を入れて倒れ込むことを回避する。
息を吸い込むことはできるのに、上手く息を吐き出せず、呼吸がだんだんと苦しくなっていく。かちかちと歯が合わずに僅かに鳴ってしまう。身体の芯が急速に熱を失っていくのがわかった。
──闇の中だ。
完璧な真っ暗闇だ。
まるで星明かりもない新月の夜に、砂漠にただひとりで放り出されたような、そんな心地だった。
涙が零れそうになって、慌てて薄い膜の張った瞳を必死に瞬いた。
怪我をして混乱しているのは仙道の方なのだ。いきなり現れた男が泣きだしたら、こいつだって困ってしまうに決まっている。
ツンとする鼻先は咳払いで誤魔化して、彼が望むであろう笑顔を作ろうとして──失敗する。あと少しの刺激で溢れてしまうそれを何とかして目の前の男から隠したくて、横を向いて必死に息を整える。
「あの……?」
目の前で黙ってしまった俺を見て「気を悪くされたならすみません。ただ、本当に分からなくて……」と、おどおどしながら言う彼に、一体なんと言えただろうか。
混乱のただ中にいるであろう仙道に気を使わせてしまうなど、申し訳が無さすぎた。
──しかしなんと言ってこの男に説明をすればいい?
もう薬指に嵌って久しいシルバーのリングのある方の拳を、爪が食い込むほど硬く握り締めながら言葉を探す。──お前の結婚相手。驚くかもしれないが、俺はお前のパートナーなんだ。それともシンプルにお前と俺は、家族ってやつでね、──なんて。
何にも恥じることなどありはしないのに、それを聞いた時の仙道の反応を思い浮かべて、彼へその直球の真実を告げることを躊躇してしまう。
逃げることなど全くもって俺の性には合わないというのに、言い訳じみて、都合の良い辻褄合わせばかりが頭を駆け巡り、そのまま俺は咄嗟に「もと、チームメイトだったんだ」と逃げを打ってしまっていた。
「──大学の時は、お前と同じチームで、……一緒にプレイしてた」
「へぇ、なるほど。じゃあ俺、あなたからのパス受けたことあるんですね」
ことりと首を傾げながら仙道がそう言った。
「まぁ、──うん、なんとなくそうなのかなって気はしてたんですけど、今はさっぱり思い出せないけど、さぞ楽しかったでしょうね」
にっこりと愛想笑いを貼り付けた男に、今はその時の記憶もないのだと、無慈悲な事実を突きつけられて、ずくりと鈍い痛みが胸を貫いた。
──頭を過ぎるのは俺の現役最後の試合。
怪我のせいで膝はもう使い物にならなくなっていたが、それでも大学でもキャプテンを務めていた身として、俺は最後の試合で大好きなバスケットのコートに立たせてもらった。
俺のパスで仙道がシュートをしかも派手なダンクを決めて、最後の大会の優勝を決めたというのに、今でも鮮やかに思い浮かべることが出来る最高をパスを、俺のバスケ人生最後にお前に放ってやれたというのに、──今の仙道の中には、あの時の記憶すら、何処かに行ってしまってないのだと突きつけられる。
それをさまざまと思い知らされ、気持ちはどん底に落ちて行ってしまう。
──ならば。
ならば、この男と俺の間には、バスケットを通してあったはずの試合の数秒を煮詰めた好敵手の立ち位置も、互いに切磋琢磨し合った元チームメイトとしての信頼も、ましてや将来を共にすることを誓った伴侶としての愛情や思いやりさえも消失してしまったのではないか?
仙道と俺との間に『赤の他人』と言う名の溝ができたのが、今、はっきりと目に見えてしまった。
他でもない俺自身が入れてしまった。
溝は、とても幅が広くて根深くて、飛び越えるための助走は付ける勇気は出なかった。
ああでもない、こうでもないと足踏みしてその場でぐるぐると考えて、一歩を踏み出すことなどできなかった。間違えた時に奈落の底に落ちるのは俺だとはっきり分かっていたからだ。
赤い夕陽が水平線に沈んでゆくのが、視界の端にちらりと見えた。
──そうだ。あの時は、仙道が溝を飛び越えてくれた。
今度は俺がそれを踏み越えて行くべきだと分かっている。それなのに、この男に有り得たであろういくつもの未来を思い浮かべるたび、舌根はカラカラに喉に張り付いて音にならないのだ。
常に頭の隅にある『たられば』が、俺の腹の中で急速に渦を巻いていくのが分かる。
それはバスケットボーラーとしての仙道彰の未来。
そうして──個のただの仙道彰として、有り得たかもしれない未来も、だった。
付き合って、籍を入れてもなお、真の意味では腹を括りきれてはいない俺が、常に頭に浮かべているのは、──この男の隣に立つのが、自分では、俺では無い人間の未来図で。
赤い夕陽で彩られたあのモーテルで、仙道が夢を語った時にも、俺の頭の中では、仙道と俺が共に将来を過ごす未来図とともに、この男が俺以外の別の人間の隣に立っている未来図も間違いなく頭を駆け巡ったのだ。
仙道を信じていない訳では無い。でもこれは、言葉で言うよりもその度合いは難しい。
仙道なら、この不可能を可能にすることのできる男なら、別の未来を掴むことができる。
この思いは、付き合い始めた当初からずっと漠然と俺の頭にあるものだった。
そうして今ならば、それを人知れず実行できるのだ。
俺と共に歩むのではない別の未来を提示できる。
それが頭を、そうして心を侵食していくのをやめられなかった。
──本当ならば、この病室から一目散に逃げ出してしまいたかった。
パートナーとしての体面も立てられない、パートナーだと発露もできない出来損ないの矜持などなげうって、
この場から一刻も早く立ち去ってしまいたかった。
考える時間が欲しい。
自分の中で、選択肢を間違えずに選びとる時間が欲しかった。
「思ったよりかは、元気そうでよかった。それに顔も見れて、……よかったよ」
ぎこちない挨拶を仙道に投げて、じゃあと、別れを告げる。
あからさまに一歩後ろに下がった俺の身体は、しかしあろう事かいつの間にか伸びていた仙道の右手に左の手首を掴まれていて、その場に留めおくことを余儀なくされてしまう。
俺は思わず仙道を仰ぎ見て、夜の静かな海を思わせる紺碧色した瞳に強く焼かれて身体を慄せた。
「あなたのお名前を伺っても?」
その言葉には、言うまではぜったいに離さないという男の情念が籠っている。掴まれた手首はぎりぎりと痛みを感じるほどだった。
「……牧。牧紳一」
そう名乗ると、目の前の男は、その名前を確かめるように何度も口の中で転がすのが。
そうして。
「──そう、ですか。やっぱりあなたが、」
詰めていた息をほぅと吐き出し、そうしながら仙道はしきりに頷いて、さらに俺の腕をぐいぐいと強く引っ張った。
「おいっ、」
「牧さん」
唐突に囁かれた名前に、身体がびくりと大きく挙動を返してしまう。
その一瞬を見計らったようにさらに強く手首を引っ張られ、彼が横たわっているベッドの上に乗り上げるようにして強制的に腰掛ける形になってしまった。
先程とは別の意味で唖然とする俺の心情などには構いもせずに、仙道は今や俺の左手を両手で包み込むように握っている。
そして仙道は、俺の薬指に嵌る指輪をゆっくりと指先で撫で上げたのだった。──それは男がよく好んでしていた癖、だった。
「Sinichi.M……これはあなたのことだ。そうでしょう?」
そう言って仙道は、彼の薬指に嵌っていたそれをするりと引き抜くと、内側に刻まれた刻印をさも愛おしげに見せてくる。
そこには二人揃って指輪を購入した時の若気の至りがある。ジュエリー店の店長におだてられ、お互いの名前をそれぞれの指輪刻み込んだのだ。だから仙道の持つそれには俺の名前が鈍い光を放ちながら輝いていて、俺の指輪にももちろん彼の名前が刻み込まれている。
記憶のない仙道が、それを見たかもしれないなどという考えには思い当たらなかった自分が恥ずかしかった。
「病室に駆け込んできたあなたを見た時に、記憶はあやふやだったんですけど、絶対にあなたを逃がしちゃならないって直感でわかったんです──あんたは、紳一さんは、俺の全てだって」
──だから牧さん。紳一さん。あんたの手は絶対に離しません。また俺のこと知って、好きになって言って貰えませんか?
そう言って柔らかく微笑んだ仙道の笑顔に、紺碧の瞳に、絶対に離さないという固い意志と、確かな愛情を読み取って、ぽろりと水滴が頬を滑り落ちていくことを自覚する。
──嗚呼、いつの間にか別の可能性に執着していたのは、愚かにも自分だけだったのだ。
自分がいかに小さい人間なのかをさまざまと見せつけられてしまったようで嫌になった。
水平線に赤い太陽が沈んで、夜がくる。
しかし長い長い夜をもうひとりで歩くことなど、もう決してこの男が許してくれはしないのだ。
長いこと頭を占めていた別離のたらればが、霞が晴れていくように消え去って、晴れ渡っていく思考が実に爽快だった。
──ようやく腹を決める覚悟ができた。
引き寄せる暖かい腕に身体を任せる。
今はただ夜明けを待ち侘びるのみだった。
宮城とは、彼が渡米してから何年かぶりに会ったというのに、ろくに世間話もできやしなかった。
「すまん宮城……世話をかけた」
「いえいえ何をおっしゃるやら。お久しぶりっす牧さん。」
「ああ、そっちも元気そうで何よりだ。──それで手術は?」
自分でも随分硬い声が出たと思う。余裕がないのだ。
「左大腿部の開放骨折の手術は成功してるみたいです。もう一般病棟に移ってて術後の経過も良好。……でも、ちょっと、──いや大分困ったことがあって」
「困ったこと?」
まぁまぁと安心させるように格好を崩してそう言った宮城の言葉に、ほんの少し胸を撫で下ろしたのも束の間、彼は何度か口を閉じたり開いたりして最適な言葉を探したあと「仙道に記憶の混乱が見られるんです」と厳かに告げた。
「──……それは来る途中に、深津からも聞いた。着地が悪くて頭から落ちたって、」
「あ、ふかっさんからも連絡あったんスね。それは良かった。脳や脳波には異常は無いようなんです。もしかしたら全身麻酔の影響かもしれない。お医者も日常生活には問題はないだろうって言ってました」
「そうか」
「──ただ。アイツと関わりのあった人物を記憶してる頭のメモリーの部分に異常が生じてるのか……」
そこで言葉を切った宮城は、力無く首を振り「オレ、アイツに会った時、『高校の同級生だったかな?』って聞かれたンすよ」と沈痛な面持ちで吐き出したのだった。
ドクドクと自分の心臓の音が耳元で、早鐘のように早まるのを感じる。心臓がまるでそこに付いているかのようにそれのみが聞こえる。
そうして電話を受けた時と同じ、最悪の事態が脳裏をよぎり、らしくもなく胸が苦しくなる。
──紳一さん、俺は絶対あんたの手を離さないから
なぜ今思い出すのがそれなのだろうか。
いつかのモーテルで、あいつに抱きしめられながら二人で見上げた真っ赤な夕陽を思い出して堪らなくなる。
俺は宮城からあいつの病室を聞くなり、居てもたってもいられなくなり、ほとんど全速力で走り始めたのだった。
*****
──その夕暮れを見たのは、確か数年前。
あぁ、そうだ。
あれは確かあいつと、仙道彰と結婚して籍を入れて間もない頃で、憧れのバスケットの国で、バスケをする仙道に会いに、西海岸沿いの彼の仮の住居の訪れていた時の話だ。
仙道と俺は高校の頃から付き合っていて、彼が日本の実業団から渡米する直前にプロポーズされて、それに対して諾の返事をし、籍を入れた。俺が二十七、仙道が二十六になる年だった。
試合中当たり負けした時に右膝に怪我を負い、大学卒業と共にバスケは辞めてしまった俺とは違い、国を飛び出してバスケットをする機会を得た仙道を羨むことはすれ、心から応援していたし精一杯のサポートをできていたとは思う。
──しかし実情は、仕事で国内外をあちこち飛び回る俺と、渡米してバスケットに専念する仙道とで、一緒にはなったものの、共にゆっくり過ごせる時間など取れるはずなく、時折掛かってくるあいつからの国際電話と、気まぐれに届く角張った文字の手紙だけが心の支えだった。
結婚当初は世界に二人きりしかいないような高揚感と、たしかな喜びに満ちていたのに、そんな新緑を愛でるような初々しい感情は、籍を入れて半年も経つ頃には跡形もなくなくなってしまった。
気安く会いに行けるような距離でもなく、次第にお俺たちの間には、ボタンを掛け違えたような見えない溝──俺たちの関係を知ったあいつのチームメイトのいらんチャチャ入れや、同性婚について封建的な考えの両親の理解を得られず見合いの場を何度も設けられたことなどがそれに当たる──が出来てしまっていて、そうして、それが顕在化する事態になってしまったのだ。
俺があいつの元に訪れている時に。
ちょうどオフシーズンに入ったタイミングに訪れた仙道のかの国での借家は、しっちゃかめっちゃかになっていて、ここではゆっくりも出来ないからと、ドライブに誘われた。
「こっちは車がねぇとどこも行けねぇから」と、買ったばかりと言う割にはボロボロのキャデラックを運転してくれた仙道は、調子の外れた鼻歌をうたい、ひどく上機嫌だったことをよく覚えている。
キラキラと強い日差しが海面を反射するだだっ広い道路を、スピードを出してひたすら走るのは爽快で、時折ショッピングモールやダイナーに立ち寄りながら、会えなかった間のさまざまな話をふたりする。その時には、はやりこいつといると、心が安らぐなんて思ったりもしていたのだ。
そして、──そのままそういう雰囲気になり、流れで海沿いのモーテルに入ったのだった。
昼間から来る客も珍しくないのか、部屋の鍵を俺にさっさと押し付けた受付のアフリカ系のご婦人は、日本でも放送していた医療ドラマにご執心で、明日の朝までの料金を何回聞いても生返事で要領を得ず、こっちの話をろく聞いちゃいなかった。
借りたのは海が見える角部屋で、部屋に入った瞬間「牧さんっ」と押し倒そうとしてきたあいつに逆さらうことなく、ベッドに身を任そうとした。
しかしその時、車に乗っている間なぜか気が付かなかった今まで嗅いだこともなかった僅かに甘い香りが鼻腔をくすぐり、瞬間的に顔を背けてしまう。
「牧さん?」
「お前、こっちに来て……香水なんて付けることを覚えたのか?」
「香水……? っあぁ! いやこれはチームメイトに教えてもらって……アジア人はそんな体臭はキツくないから香水なんかは必要じゃないって言っても理解して貰えないんスよ」
──嫌な香りだった? 今日恋人に会うって言ったらこれくれたんスけど……シャワー先に浴びましょうか?
そう話すこの男に悪気はない。どころか仙道に香水を渡したチームメイトも、そんなつもりは毛頭ないのだろう。
しかし、妙に甘ったるいその匂いは、ただひたすらこの男に合っていない。そんな気がしたのだ。
女性を誘うかのようなそんな匂い、お前には似合わないだろう。
安らぎと得たと思った心は瞬時に置き変わってしまい、そんなぶつけようのない苛立ちがじとりと身を包んでいくのを自覚する。どうしようもないことだと分かっているのに、自分を止められなかった。
「‥‥‥いい、んじゃないのか? 女性だってその匂い好きだろうし」
「女性? いや今はあんたと話してんのに、女関係ないでしょ」
──ねぇ、それどういうこと?
ずいと顔を近づけてくる男の顔には、もう人好きのする笑顔は浮かんでいなかった。
もうそこからは果てしない口論と、終わりのない議論を繰り返した。
その過程で仙道はこっちに来てから、他の女性と関係を持った事を暴露したし、俺も断り切れなかった見合いを何度か受けざる負えなかった話をした。
付き合ってもう十年になろうかと言う長い期間の中で、この男とこんなに激しい口論を展開したのは初めてだった。お互い理性は働く方だったから、暴力に訴えなかっただけましだったのかもしれない。
互いを口汚く罵りあって、言いたくもない言葉をなげつけて。
最終的に俺が「……もう籍を抜くか」と言い放ったのだ。よく考えもしない勢いだけの弾みのような言葉だった。
しかし、それを聞いた仙道は、大きな瞳を丸くして、わなわなと震え出したのをよく覚えている。
声もなくしてしまったかのように下を向いて黙りこくって、両手の拳も握りしめて。
そこで俺はハッとして、自分がどれだけ酷い言葉を彼に放ったのかに気がついたのだった。
俺も罰が悪くなって下を向き、常にある頭の冷静な部分で言い訳を考え続けていた。
「……すまん、言いすぎた。そんなつもりは、」
「絶対に嫌です。あんたを離すのは絶対に」
──だから、はなれていかないで。
俺の言葉に被さるようにしてそう言った男は、少しタレ目がちの大きな瞳から、子供のようにボロボロと涙をこぼしている。それにギョッとして、俺の方が慌ててしまった。
「俺、悪いところは全部直します。ぜんぶ。だから離れていかないで。俺、紳一さんと別れるなんて、そんなこと、考えられなぃ……っ、」
大きな身体を震わせて、しゃくりあげながら涙を流す男に、「俺も言いすぎた。そんなつもりはあるもんか」としどろもどろに言いながら、もう腕の回りきらなくなった大きな身体を抱きしめて指先で涙を拭う。
こっちに来て仙道はさらに体格が良くなった。顔は可愛らしいともすればベビーフェイスに近いというのにとんだ詐欺だ。
「……長いこと離れているから俺も不安になってた。お前がいるのに、見合いなんか受けてすまなかった」
「こっちこそ、……女と浮気するような真似してすみませんでした」
その内ぎゅうぎゅうと男からも痛いくらいに強くハグを返されて、言い争っていたことがどうでも良くなる。
いや内容的には全く良くなかったが、お互いに思っていた胸の内を吐露したことで、詰まりが流れたような状態だった。
そうして。
──そのうち抱きしめ合うだけじゃ、優しいキスを送り合うだけじゃ足りなくなって。
どちらともなくベッドに誘いながら、合わせた唇を深めていった。
まだ夕暮れが部屋にまだらの影の模様を浮かび上がらせているような日の高いうちから、仙道と久々のセックスに耽る。ほぼ一年近く空いていたいたから即物的な交わりではなくじっとりと快感を身体に染み込ませるようなセックスだった。
上に下になりながら、互いの衣服を剥ぎ取って、仙道の白い肌のそこいら中に所有の証を刻みつけた。
「俺には跡つけんなって言うのに‥‥‥」
「っぁ、ふぅ、こらっ。お前は、代謝がいいから、すぐに消えるだろうが」
「ちぇっ、じゃあおれはこっちに、」
そう言って仙道は俺の内股を大きく開かせると、俺が知りもしないような所にまで舌を這わせてキツく吸い上げてくるので、自然と肌が粟立った。
お互いへの愛おしさに、ただただ溺れ、二人きりの世界にのめりこむ。
──幸せだ。
これを幸せと言わずしてなんと言えばいいのだろう。
身体の奥の深い部分で何度も男を受け止めて、ベッドの上で至上の幸福を感じながら、訪れる小さな死を幾度も享受した。
何度目かの交わりの後、ベッドにただただ二人寝転がって、時折仙道から齎される深いキスで窘められながら、大きな窓から見える、海に沈みゆく美しい夕陽を見上げたのだった。
しかし──まるで血で濡らしたような禍々しい赤を放つ大きな太陽が、徐々に姿を消していく様が、そうしてそれを取り囲むようにして、迫り来る夜の闇の深さが、幸福など一瞬だと暗示されているようで、芯まで暖かくなっていた心をじわりと凍てつかせた。
まだ舌の根も乾かぬ言い争いをしたばかりなのもあるだろう。
とろとろとした身体が疼くような甘い余韻さえ急速に奪われてしまうようだった。
「わぁ、真っ赤っかですね。こりゃすげぇや」
人のうなじに舌を這わしながら、仙道はそんなことを言って感嘆を漏らしていた。
赤い赤い太陽に、美しいという感情よりも『怖い』という感情が、言葉になって身体に零れ落ちていく。
「紳一さん?」
夕陽を見つめたまま、囚われたように動けなくなった俺を見て、仙道は汚れていないシーツで後ろから俺を包んで抱きしめてくれた。耳朶を甘く食んで、するりと頬を撫でてられて、まるで彼にあやされているようだった。
夕方になって僅かに伸びた彼の髭が、時折ザラリと肌に触れるのが、妙にくすぐったかったのをよく覚えている。
抱きしめられた胸がシーツ越しに触れ合う度に、スポーツマンらしくゆっくりと力強く脈拍を刻む仙道の鼓動を感じるたびに、怖いものなど何もないと主張するその存在のみが心の拠り所で、今現在の唯一のぬくもりようにも思えたのだ。
「紳一さん、あなたでも怖い?」
「…………随分な言いようだな。俺でも感傷に浸る感情は持ち合わせてるさ」
──日本でひとり暗い部屋に帰る時、割としょっちゅう動けなくなる。すごく怖くなる。
お前とこうして籍を入れて一緒にいるのなんて、ただの幻なんじゃないかって──
呆れさせるかもしれないなどという心配などはなかった。自分の中に巣食う負の感情を、仙道に共有することに迷いもなかった。
これは漠然とした寂寥感だとは分かっている。
あと三日もすれば、顔が見たくなってもすぐに会うことなどできない生活がまた訪れるから。
昼を急き立てるようにして訪れる夜が、まだ完全に瘡蓋かさぶたになりきっていない口論の余韻を引きずる俺への影響は思ったよりも大きかったのだ。
仙道はそんな俺の姿を見かねたからか、まるで小さな子供がするように、抱き込んだ俺の背中に髪を立ち上げたままの自身の頭をスリスリと擦り付けた。
ぎゅうぎゅうと抱きしめる腕の強さが強くなって、冷えた心に暖かい感情が流れ込む。
「──俺ね、夢があるんですよ」
「夢?」
そうして、ふと囁かれた仙道の意外な言葉に目を丸くする。
ふふんと、いかにも得意げに微笑んだ歳下の男は、俺の顔を覗き込み、安心させるように尚も俺の身体をさすりながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺、将来……まぁバスケ辞めてからになるでしょうけど、海が見えるでっかい家に住みたいんです。俺動物が結構好きなんですけど、高校も大学もこっちきてもペットはダメだったから飼えなくて。沢山のワンちゃんを浜辺で散歩させて、俺はそれ見ながら釣り糸垂らして」
「……こら、放し飼いにするんじゃない」
「でもそこは紳一さんがいるから大丈夫でしょ?」
当たり前のようにそう言った仙道に、今度は俺が目を丸くする番だった。
「ワンちゃんたちにサーフィン教えるでしょ? 紳一さんなら絶対に」
絶対躾も上手いだろうし、と言ってふふっと笑う仙道を、俺は黙って見つめることしか出来なかった。
「それからたまに丘おかに上がってくるあんた達を、俺は堤防で眺めてるんです。特等席でね。『今日の波はどうですか』って。紳一さんとその日の海や波の話をして。そのままびしょ濡れになったワンちゃんたちと一緒に浜辺を散歩するのもいい。たまには俺が船を出してあんたたちと沖に行くのなんか最高かもしれない」
──だからね。だから紳一さん。俺は絶対あんたの手を離さないから。
やけに自信満々に告げられた言葉が、心の深い部分に沁みて身体がじわりと体温を上げていく。
当たり前のように、俺が隣にいるやけに具体的でキラキラとした仙道の夢とやらの話を、あぁ、それはいいな、と心から思ってしまったのだった。
──瞬間俺の頭に浮かんだ別の可能性は見て見ぬふりをして。
「──お前が言い出しっぺなんだから、トレーニングはちゃんとしろよ」
そんなつっけどんな言葉しか返せなかったが、もう沈んでゆく夕陽を見ても怖くなどなかった。
血に染ったような赤い太陽の光が僅かに和らいで、ひどく安堵したことを鮮明に覚えていた。
──けれども、彼が、仙道がそれすら全て忘れてしまったとしたら?
考え合うる中で最も最悪のたらればを前にして、あの時のように真っ赤な夕陽が差し込む病室の中で、呆然と立ち尽くすしか無かった。
四方から闇が迫って長い長い夜が訪れる。
生命の音がする夏の夜ではなく、全てが凍った冬の夜を連想させる夜の気配に、あの時と同じように急速に体温が奪われていくのを感じた。
ベッドの上で息を切らして走ってきた俺を見ても、顔色一つ変えない男がひとり。
そればかりか、コトリと首を傾げるさまはさも不可解そうで、俺の事を初対面の人間を見るような、どこか緊張して強ばった面持ちでこちらを見つめる男の心情など、俺はまったく推察することはできなかった。
「せん、」
「……あー。ごめんなさい。今、俺記憶があやふやで。ぼく?いや俺?のオトモダチとかチームメイトかでしょうか?」
──俺バスケット選手だって言うのは、病院のセンセイから聞いたんですけど。
そう言っていつもの人好きのするニヘラッとした笑みをつくろうとした男は、しかしそれには失敗したのか少し困惑した顔で俺を見上げていた。
その言葉を聞いた瞬間、俺は全身の血液がドッと音を立てて下がっていくのが分かった。
ふらりと倒れそうになる体に、なんとか両脚に力を入れて倒れ込むことを回避する。
息を吸い込むことはできるのに、上手く息を吐き出せず、呼吸がだんだんと苦しくなっていく。かちかちと歯が合わずに僅かに鳴ってしまう。身体の芯が急速に熱を失っていくのがわかった。
──闇の中だ。
完璧な真っ暗闇だ。
まるで星明かりもない新月の夜に、砂漠にただひとりで放り出されたような、そんな心地だった。
涙が零れそうになって、慌てて薄い膜の張った瞳を必死に瞬いた。
怪我をして混乱しているのは仙道の方なのだ。いきなり現れた男が泣きだしたら、こいつだって困ってしまうに決まっている。
ツンとする鼻先は咳払いで誤魔化して、彼が望むであろう笑顔を作ろうとして──失敗する。あと少しの刺激で溢れてしまうそれを何とかして目の前の男から隠したくて、横を向いて必死に息を整える。
「あの……?」
目の前で黙ってしまった俺を見て「気を悪くされたならすみません。ただ、本当に分からなくて……」と、おどおどしながら言う彼に、一体なんと言えただろうか。
混乱のただ中にいるであろう仙道に気を使わせてしまうなど、申し訳が無さすぎた。
──しかしなんと言ってこの男に説明をすればいい?
もう薬指に嵌って久しいシルバーのリングのある方の拳を、爪が食い込むほど硬く握り締めながら言葉を探す。──お前の結婚相手。驚くかもしれないが、俺はお前のパートナーなんだ。それともシンプルにお前と俺は、家族ってやつでね、──なんて。
何にも恥じることなどありはしないのに、それを聞いた時の仙道の反応を思い浮かべて、彼へその直球の真実を告げることを躊躇してしまう。
逃げることなど全くもって俺の性には合わないというのに、言い訳じみて、都合の良い辻褄合わせばかりが頭を駆け巡り、そのまま俺は咄嗟に「もと、チームメイトだったんだ」と逃げを打ってしまっていた。
「──大学の時は、お前と同じチームで、……一緒にプレイしてた」
「へぇ、なるほど。じゃあ俺、あなたからのパス受けたことあるんですね」
ことりと首を傾げながら仙道がそう言った。
「まぁ、──うん、なんとなくそうなのかなって気はしてたんですけど、今はさっぱり思い出せないけど、さぞ楽しかったでしょうね」
にっこりと愛想笑いを貼り付けた男に、今はその時の記憶もないのだと、無慈悲な事実を突きつけられて、ずくりと鈍い痛みが胸を貫いた。
──頭を過ぎるのは俺の現役最後の試合。
怪我のせいで膝はもう使い物にならなくなっていたが、それでも大学でもキャプテンを務めていた身として、俺は最後の試合で大好きなバスケットのコートに立たせてもらった。
俺のパスで仙道がシュートをしかも派手なダンクを決めて、最後の大会の優勝を決めたというのに、今でも鮮やかに思い浮かべることが出来る最高をパスを、俺のバスケ人生最後にお前に放ってやれたというのに、──今の仙道の中には、あの時の記憶すら、何処かに行ってしまってないのだと突きつけられる。
それをさまざまと思い知らされ、気持ちはどん底に落ちて行ってしまう。
──ならば。
ならば、この男と俺の間には、バスケットを通してあったはずの試合の数秒を煮詰めた好敵手の立ち位置も、互いに切磋琢磨し合った元チームメイトとしての信頼も、ましてや将来を共にすることを誓った伴侶としての愛情や思いやりさえも消失してしまったのではないか?
仙道と俺との間に『赤の他人』と言う名の溝ができたのが、今、はっきりと目に見えてしまった。
他でもない俺自身が入れてしまった。
溝は、とても幅が広くて根深くて、飛び越えるための助走は付ける勇気は出なかった。
ああでもない、こうでもないと足踏みしてその場でぐるぐると考えて、一歩を踏み出すことなどできなかった。間違えた時に奈落の底に落ちるのは俺だとはっきり分かっていたからだ。
赤い夕陽が水平線に沈んでゆくのが、視界の端にちらりと見えた。
──そうだ。あの時は、仙道が溝を飛び越えてくれた。
今度は俺がそれを踏み越えて行くべきだと分かっている。それなのに、この男に有り得たであろういくつもの未来を思い浮かべるたび、舌根はカラカラに喉に張り付いて音にならないのだ。
常に頭の隅にある『たられば』が、俺の腹の中で急速に渦を巻いていくのが分かる。
それはバスケットボーラーとしての仙道彰の未来。
そうして──個のただの仙道彰として、有り得たかもしれない未来も、だった。
付き合って、籍を入れてもなお、真の意味では腹を括りきれてはいない俺が、常に頭に浮かべているのは、──この男の隣に立つのが、自分では、俺では無い人間の未来図で。
赤い夕陽で彩られたあのモーテルで、仙道が夢を語った時にも、俺の頭の中では、仙道と俺が共に将来を過ごす未来図とともに、この男が俺以外の別の人間の隣に立っている未来図も間違いなく頭を駆け巡ったのだ。
仙道を信じていない訳では無い。でもこれは、言葉で言うよりもその度合いは難しい。
仙道なら、この不可能を可能にすることのできる男なら、別の未来を掴むことができる。
この思いは、付き合い始めた当初からずっと漠然と俺の頭にあるものだった。
そうして今ならば、それを人知れず実行できるのだ。
俺と共に歩むのではない別の未来を提示できる。
それが頭を、そうして心を侵食していくのをやめられなかった。
──本当ならば、この病室から一目散に逃げ出してしまいたかった。
パートナーとしての体面も立てられない、パートナーだと発露もできない出来損ないの矜持などなげうって、
この場から一刻も早く立ち去ってしまいたかった。
考える時間が欲しい。
自分の中で、選択肢を間違えずに選びとる時間が欲しかった。
「思ったよりかは、元気そうでよかった。それに顔も見れて、……よかったよ」
ぎこちない挨拶を仙道に投げて、じゃあと、別れを告げる。
あからさまに一歩後ろに下がった俺の身体は、しかしあろう事かいつの間にか伸びていた仙道の右手に左の手首を掴まれていて、その場に留めおくことを余儀なくされてしまう。
俺は思わず仙道を仰ぎ見て、夜の静かな海を思わせる紺碧色した瞳に強く焼かれて身体を慄せた。
「あなたのお名前を伺っても?」
その言葉には、言うまではぜったいに離さないという男の情念が籠っている。掴まれた手首はぎりぎりと痛みを感じるほどだった。
「……牧。牧紳一」
そう名乗ると、目の前の男は、その名前を確かめるように何度も口の中で転がすのが。
そうして。
「──そう、ですか。やっぱりあなたが、」
詰めていた息をほぅと吐き出し、そうしながら仙道はしきりに頷いて、さらに俺の腕をぐいぐいと強く引っ張った。
「おいっ、」
「牧さん」
唐突に囁かれた名前に、身体がびくりと大きく挙動を返してしまう。
その一瞬を見計らったようにさらに強く手首を引っ張られ、彼が横たわっているベッドの上に乗り上げるようにして強制的に腰掛ける形になってしまった。
先程とは別の意味で唖然とする俺の心情などには構いもせずに、仙道は今や俺の左手を両手で包み込むように握っている。
そして仙道は、俺の薬指に嵌る指輪をゆっくりと指先で撫で上げたのだった。──それは男がよく好んでしていた癖、だった。
「Sinichi.M……これはあなたのことだ。そうでしょう?」
そう言って仙道は、彼の薬指に嵌っていたそれをするりと引き抜くと、内側に刻まれた刻印をさも愛おしげに見せてくる。
そこには二人揃って指輪を購入した時の若気の至りがある。ジュエリー店の店長におだてられ、お互いの名前をそれぞれの指輪刻み込んだのだ。だから仙道の持つそれには俺の名前が鈍い光を放ちながら輝いていて、俺の指輪にももちろん彼の名前が刻み込まれている。
記憶のない仙道が、それを見たかもしれないなどという考えには思い当たらなかった自分が恥ずかしかった。
「病室に駆け込んできたあなたを見た時に、記憶はあやふやだったんですけど、絶対にあなたを逃がしちゃならないって直感でわかったんです──あんたは、紳一さんは、俺の全てだって」
──だから牧さん。紳一さん。あんたの手は絶対に離しません。また俺のこと知って、好きになって言って貰えませんか?
そう言って柔らかく微笑んだ仙道の笑顔に、紺碧の瞳に、絶対に離さないという固い意志と、確かな愛情を読み取って、ぽろりと水滴が頬を滑り落ちていくことを自覚する。
──嗚呼、いつの間にか別の可能性に執着していたのは、愚かにも自分だけだったのだ。
自分がいかに小さい人間なのかをさまざまと見せつけられてしまったようで嫌になった。
水平線に赤い太陽が沈んで、夜がくる。
しかし長い長い夜をもうひとりで歩くことなど、もう決してこの男が許してくれはしないのだ。
長いこと頭を占めていた別離のたらればが、霞が晴れていくように消え去って、晴れ渡っていく思考が実に爽快だった。
──ようやく腹を決める覚悟ができた。
引き寄せる暖かい腕に身体を任せる。
今はただ夜明けを待ち侘びるのみだった。
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