仙牧 新⬆旧⬇
玄関の扉を開けた瞬間に、ただいまを言う前に求められるという経験は、この人と、牧紳一という人と人生を歩み始めてから既に十五年あまりになるが、実は非常に稀有だったりする。
牧さん自身が、理性の塊であるような人であることも関係しているかもしれない。
発言力があるとかないとか、決定権がどちらにあるとかましてや主導権を握るとか握らないとかカップル、同棲、夫婦の間でも提起されがちなそれらの事柄は、俺たちの間には縁がないものだったのだ。
「まき、さっ、」
「ふぅ、っ、ンっ」
けれどほんのたまに。
年に何回かは牧さんは時折こうして有無を言わさない無言の圧力で、この人からしてみれば、自分本意な快感を得るためだけに、行為を求めてくる事がある。
そんな彼に不満や不平を抱く事などあり得ないのだが、ボトムとして自ら男の身体に跨り腰を振って快感を得ようという考えは、牧さんにしてみたらひどく自分勝手と思えるのだろう。
今こうして玄関扉の前で、扉に牧さんに押し付けられて、深く口付けられている今の状況に、俺自身は驚きはすれこの人を嫌うことなど有り得ない。
だというのに、色素の薄いアンバーの瞳に、時折気遣わしげな色を浮かべ、俺の様子を伺ってくるのが、自分本意になりきれない牧さんらしい部分だと、愛おしく思ったりしていたのだった。
「ふン、あっ」
だんだんと不安が強くなってきたきらきらと輝くアンバーを見て、熱を帯びた頬を包み込むように両手を伸ばして撫でてやれば、途端安堵が広がって、ふにゃりと格好が崩れて甘える猫のように頬をすり寄せてくる。
──ああ、ほんと、なんでこの人こんなカッコイイのに、こんな可愛らしいんだろう。
毎日惚れ直している自覚はある。それでもまだまだ足りないのだ。
もう身体なんか十五年じっくりと仕込んだ結果俺好みの反応を示すようになって久しいというのに、この人の表情一つ一つにまだまだ魅せらて惹き付けられるのをやめられない。
みっちりと筋肉の付いた牧さんの身体の線を緩く撫でながら、ゆっくりと寝室に誘導する。もちろん口付けはやめないままで。
自分で誘っておいて我に返ればこんな所でと、慌てふためく牧さんが容易に想像出来るから、そんな杞憂を思うこともない閉じた場所で、この人をゆっくりとそうして目一杯感じたかった。
寝室の扉を蹴り開けて、ベッドに牧さんを押し倒そうとして逆に押し倒される。フィジカルの鬼は、こんなところでも健在で、今日はとことんこの人が責めたい気分なのだろうと察しがついた。
「今日は牧さんがしてくれんですか?」
「だまってマグロになってろよ」
そうして柔らかく微笑んだその顔で、再び深いキスを悪戯っぽく仕掛けられる。さらにはそれに乗じて牧さんが俺の腹に既に立ち上がりかけた逸物を擦り付けるように腰をくねらせるものだから、カッと頭に血が上るのを感じた。
「ふぅ、あッ、せん、ど、ンッ、」
まるで高校生のようなあどけない表情が、身体中を駆け巡る快感によって徐々に妖艶さを纏っていく様は、酷く情欲を駆り立てる。
俺も辛抱たまらず、上に乗っかる牧さんをひっくり返してベッドに押し倒そうとした。
その時。
ぽと、とシーツの上に何かが落ちたような軽い音がした。
今いるのは俺の寝室のベッドの上で、ヘッドボードに置いていた何かだろう。
牧さんが上に乗っかっている今の状況では確認もできないが、軽い音だったから怪我をするようなものではないだろうと、牧さんに視線を戻した。
しかし牧さんの様子が変だった。
俺にのしかかった体勢のまま、アンバーの瞳が大きく見開かれて、一点を凝視している。
「……まきさん?」
訝しんで声をかけると、牧さんは僅かに身動ぎした。
熱で潤んだ瞳が、大きく息を呑む。
「──おい、なんでこいつがここに居る?」
そうして。僅かに伸びあがった身体が、俺の頭の近くに落ちたそれを拾い上げて、たしかな怒気を含んだ声と共に眼前にずいと突き出される。
勢いよく目の前に現れたそれは、最初近過ぎてよく見えなかったが、頬にふわりとした柔らかい毛があたり、基本的におおらかな彼がここまで怒る物の正体に思いた当たって、しまったと内心焦ってしまう。
見れば彼の手には、左目の下に小さな黒いシミのあるブラウンの小さな熊のぬいぐるみ。
ゴールドで縁取られたパープルのリボンが首に巻かれたそれを、なぜか牧さんがあまり快く思っていないことを知っていたのに、ベッドボードに置きっぱなしにしていたらしい。
「う、まきさ、それはっ、」
ああ、しまった。こうなるから普段はクローゼットに隠しているというのに。
言い訳を考えて焦って口籠ってしまう。
しかしなじるようにこちらを見つめる彼の瞳がまだ僅かに熱を帯びて潤んでいる様子に欲を掻き立てられて滾ってしまう自分に、呆れずにはいられなかった。
そうだ。あれはたしか四、五ヶ月前のこと。
チームのスポンサーとの打ち合わせで偶然使った雰囲気のいいカフェで、このレジにぽつんと置かれていた手のひらサイズの熊のぬいぐるみを見つけたのだ。
もともとの加工なのか、生地の具合なのかは分からないが、つぶらな左目のすぐ下にはほくろのようなシミがあった。
もうそれだけで、牧さんを連想するのには十分なそれに目を奪われていたというのに、あの人と初めて出会った高校時代に、あの人が身につけていたユニフォームの色でもあるゴールドとパープルのリボンを巻いていたのに運命さえ感じ、気付けば会計していた。
最愛の伴侶にどこか似た雰囲気で、威風堂々とした佇まいがあるのに、それに似使わぬぽてぽてとしたフォルムは実に愛らしかった。
持ち帰ったぬいぐるみを嬉々として牧さんに見せたとき、俺の予想に反してなぜだかそのぬいぐるみが気に入らなかったらしく、苦虫を噛み潰したような渋い顔で『お前の寝室にでも飾っておけばいい』と素っ気なく言われたのだ。
そのため熊のぬいぐるみは俺の寝室のベッドボードが定位置となっていた(シーズン中はだいたい寝室を分けているので)のだ。
──まぁずっとそこにいた訳ではないのだが。
これは牧さんには秘密にしていて、しかしつい二ヶ月ほど前に露見して嵐を巻き起こした出来事なのだが、自宅を離れた生活が長くなると、俺はそのぬいぐるみも共に連れていく事が習慣になってしまっていた。
始まりは、急いで準備した時に誤って荷物に紛れ込んでしまったらしいそのぬいぐるみを滞在先のホテルでボストンバッグから発見したことで、バッグの中から顔を出す手のひらサイズのそれを見たとき、らしくもなく胸がときめいて、可愛らしくて仕方がなかった。
折しもシーズンも終盤で、自宅に帰るような暇もなく、牧さん自身に会えたのはもう二ヶ月も前なんて言う状況だった事も相まって、ぬいぐるみに触れることで、牧さんに触れているつもりになってしまったのかもしれない。
ともかく、それから長期間自宅に帰れない、彼に会えない時には決まってそのぬいぐるみを連れ歩くようになってしまった。
ジャージやらユニフォームやらの隙間に居座るぬいぐるみを見て、こっそり笑顔になっていたのだ。三十を少し越えた大の大人が。
だからようやくゆっくりできると自宅に帰ってきて荷物をひっくり返して整理をしていた時に、部屋に入ってきた牧さんに露見してしまったのは、至極当然の結果だった。
熊のぬいぐるみは牧さんの記憶にも残っていたらしく「お前、これをいつも連れ歩いているのか」と低い声で尋ねてきた牧さんに、嘘もつけるはずもなかったのだった。
あの時も渋い顔をしていた牧さんを思い出し、二度目の出来事に慌てたのと、あんなに身体を密着させていた牧さんがすぅと身体を離すような仕草をしたので、咄嗟に身体をひっくり返した。温かい体温が離れていくのがひどく恐ろしい。
しかし──それよりもはっきりさせなければならないことがあった。
「まきさんっ」
両手をシーツに縫い付けて、真上から最愛の人を見下ろした。
ギッと色素の薄いアンバーで睨み付けられたが、瞳が揺らいでいるようにも見えて、このままこの人を離してはいけないと、本能が警鐘を鳴らしている。
掴んだ腕を振り解かれない事に小さく安堵し、そのまままだ熱を持っている身体を腕の中に抱き込んだ。
「どうしてこのぬいぐるみをそんなに嫌がるんです? あなたらしくないって言い方はあれかもしれませんが、理由を聞かせてくれませんか?」
「っ────別に、それが嫌なんかじゃないんだ……、と思う。ただ、」
「ただ?」
「……………俺だってお前ともっと一緒にいたいのに、……お前はそいつばっかり可愛がって、……遠征にも連れて行って、一緒に色んなところにお前と行けるのに、俺はそれができなくて……、なんだか、お前を………盗られちまうような気が、して……」
最後のほうははっきりとものを言うこの人には有り得ないほど小さな小さな声で聞き取りにくかったが、そんなことは気になどしていられなかった。
──え、まきさん、今なんて言った?
──盗られるって、このぬいぐるみに、俺を?
──まって、まって、牧さん、まって?!
言葉の意味は理解は出来ても思考が追い付かない。そりゃあもう嬉しさで、だ。
自分で言ったことが恥ずかしくなってしまったのか、俺の肩口にぐりぐりと額を押し付けて顔を隠す彼の耳や首筋がみるみる真っ赤に染まっていくさまを間近で見てしまった俺は、なんと言ってこの感情を表現すればいいのか分からなかったが、これだけは分かっていた。───牧さん!本当にあなたっていう人は!!
愛おしさが天元突破した俺は、ぎゅうきゅうと両腕で牧さんを抱きしめて「せんど、くるしっ」と苦情が出るまでその逞しい身体を抱きしめる。
自分で道を切り開いて生きていけるようなカッコイイこの人が、無機物に対してそんな嫉妬心を丸出しにして、それが俺に対して間接的に向けられる。
それくらいこの人が自分を求めてくれているのだと思うと、そらさえも飛べるような心地がした。
「確かにあんたに似たこいつを見る度に、可愛らしいとは思ってました」
「っ」
「でも実物のあんたと比べるわけもないでしょう? 感触も、体温も、表情一つとったってあんたとは何もかもが違うんです。牧さんがここにいるのに俺がほかに目を向けるなんて有り得ない」
「…………そう、か」
ポツリと返った返事は、この距離でなければ聞こえなかっただろう。まだ顔を見せてくれないこの人の不安や猜疑心が和らぐようにゆっくりと言葉を紡いで行く。
「あんたを全身で感じたいんです。もうずっと欠乏してる。ちょっとの癒しだけじゃこの渇きは潤わないから。あんたが求めてくれて、本当に嬉しかったんです。あぁ同じ気持ちでいてくれたんだって」
──だから、ね? 続きしましょ?
ぬいぐるみよりも柔らかくて存外猫っ毛なブラウンの髪の毛に指先差し入れて何度も梳いてやると、こくこくと小さく髪の毛が頷くように揺れるのがわかった。
そうして彼は俺の手の中にあったぬいぐるみを手に取ると、やさしく元あった場所に戻してくれる。
色素の薄いアンバーの瞳には、もう本人にも制御できない激情はなく、海のように慈愛に満ちている。
その光景をただ眺めていた俺に気付いて、微笑むその姿があまりにも美しくて、分厚い唇に口付けを落とす。
どれだけ共に過ごしても、いつまでも彼に初恋のような感情を抱く自分に、思わず苦笑いが溢れたが、きっとこれはもうどうしようもないのだろう。
どうしようもなく彼が好きなのだ。
どうしようもなく彼を愛しているのだ。
どんなこの人でも愛している。
その気持ちを噛み締めながら、より深く彼を貪るために口付けを深くしたのだった。
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