仙牧 新⬆旧⬇
パトカーから溝口が降りた時、手を振って出迎えてくれたのは、よく日に焼けた壮年の男だった。恰幅の良い身体付きに人の良さが現れているようにも見える。
立春とはいえまだまだ水の冷たい二月の今、年中浜辺にいる彼らサーファーは、分厚いウェットスーツを着て颯爽とサーフィンに勤しんでおり、日の落ちた今はもう今日は上がるのか、スーツを半分脱いだ状態で、傍らにはサーフボードが立てかけられているのが見えた。濡髪からして今しがたまで波に乗っていたのだろう。
「お巡りさーん!こっちやけん」
「ああ、えっと、通報された……岸田さん?」
「そう。そんであっこにおるけん。なんとかしたってくれん?」
そう言った岸田が指さしたのは、溝口たちがいる場所から三百メートルほど離れた堤防の上だった。
その堤防に座り込んだ人影が見える。遠目にも赤いシャツを身につけているのが分かった。
「俺らがサーフィンし始めたのは昼頃やったけん。んけども、もうそん時にはおってやって」
「そっからずっとあそこに座ったまま?」
「いいや。最初は釣竿出して釣りしよったねん。学校終わりに子供らが来た時には一緒に楽しそうにバスケもしたりしててね」
──元気にボールおっかけよったわ。
そう言って、岸田はその時に使ったのであろうすっかり真っ黒に汚れた空気の抜けたバスケットボールを溝口に見せてくれる。
「どこぞでバスケでも教えとったんかいうえらい動きでなぁ。本人もすごい楽しそうやって」
遠目で見てもどう見ても六十より上であろう人影に、そんな動きができるのか、と驚きと共に、溝口の頭によぎるのは、もし暴れられでもしたら面倒だなという実に警察官らしい感想だった。
「でも四時超えた辺りくらいからかなぁ。トイレにも行かんとずっとあそこに座っとるし、誰か迎えに来る感じでもないからなぁ。もう暗なるし、心配になって来て。一回声掛けたら『センドウが来るのを待っている』言うし」
『センドウ』が誰だかは詳しく聞いてないかから分からない、と岸田に聞いても首を振るばかりだった。
しかし会話ができるのであれば、彼を連れて帰ることが出来るだろう。溝口はそう当たりをつけた。
「なるほど……ありがとうございました。あとはこっちでなんとかしますけん、帰ってもらってよろしいですよ」
溝口がそう言うと、岸田は「ほなあとは、よろしゅうねー」と言いながらその場を去っていく。
溝口は短く息を吐き出すと、署の司令係に現場に到着したと無線を入れたのだった。
いわゆる迷い人、迷い子を保護するのは、警察の責務とされている。
最近は子供がSNSで知り合った友人に会うために家族に行き先を告げることなく行方不明になることなども多いが、溝口が勤務する地域では確実に過疎化が進んでおり、迷い人として『高齢者を保護した』と通報が入るのも日常茶飯事の事なのだった。
今日の事案も年間で何百、何千とある事案のひとつ。
それが溝口の中での認識だった。
「お父さん? もう暗なりますけん、家帰りましょ」
溝口はそう言いながら人影に背後から近づいて一声かけた。日の落ちかけた薄暗い中でも、その人物の赤い長袖はよくよく目に付いた。
その人は下は明るい水色のジーパンを履いていて、しかしいくら探しても上着らしきものを持っている様子は無い。
──迷い人だな。恐らく。
立春を迎えたとはいえ、まだまだ酷く朝晩は冷え込む今の季節には、些か薄着すぎると言わざるおえない格好に、夜露が降りてくる前に声をかけられてよかったと、溝口は通報してくれた岸田に感謝の念を送る。
「家……」
溝口が近くに寄ると、男性はキョトンとした顔で小首を傾げた。
年齢としては七十後半から八十前半と言ったところか。
迷い人として保護する高齢者の大半が認知症を患っていることが多く、似たような行動範囲を徘徊し、複数回保護したことある顔なじみの高齢者も多いが、溝口は初めて見る顔だった。
赤いシャツしか着ていない薄着ではあるが、がっちりとした身体付きや胡座をかいても尚長さの目立つ両脚からは、かなり身長は高い部類だろうと予想が付いた。
(もし署に行くのを嫌がりでもしたら骨やぞ……)
そんな事を思いながら溝口はしゃがみ込んで男性と目線を合わせた。男性の瞳には生気はなかったが、しっかりと溝口の動きを追っていた。
「そう。お父さん昼過ぎからずっとここにおる言うて通報が入ったけん私が来させてもらったんです。──お父さん、この近くに住んでますん?」
「あっ……家は……」
ロマンスグレーの髪がさらりと揺れて、途端瞳に不安が走るのが見て取れた。溝口は話しかけながら素早く男性の身体を検分し、大きな怪我などしていないことを確認していく。服装があまり汚れていないことからも、出かけたのは今日か、遅くとも昨日の夜だろうと検討をつける。
男性はそわそわとズボンのポケットに手を突っ込んだりして何かを探していたようだが見当たらなかったようで、困り果てた顔で溝口を見上げてくる。
歳を経て深みを増した男性の顔は、それでもとても整っていて、若い頃は異性から持てたのだろうなと溝口はぼんやりと思った。
携帯端末や財布を持っているような感じでもなく、溝口が「お父さんのお名前は?」と問うと、数秒の考え込むような沈黙の後、小さな声で「……仙道、仙道です」と返事があった。
しかし男性のそのイントネーションは、語尾が山なりになることの多い関西特有のものではなく、にわかに溝口は顔色を変える。
(もし本州から電車なりバスなりでここまで来とんやったらちょっとしんどいなぁ)
最悪迷い人手配だと思いながら、溝口は「お父さんごめんな。ちょっと服のタグ見せてもらっていい?」と一縷の望みをかけて、男性の服装を確認する。
認知症で徘徊してしまう高齢者は、携帯端末や財布などを持たずに家を出てしまうことも多く、そういった場合、家族が持っている服に全てに名前や連絡先を刺繍したり書き込んだりしている場合も多い。
溝口の言葉に、男性は嫌がることなく、こくりと頷き、服の裾をひっくり返して見せてくれた。
そこには──。
『仙道彰
連絡は仙道紳一まで
090ー××××ー〇〇〇〇』
丁寧に黒のマジックでそう書かれているのを見つけ溝口は一先ず安堵する。
それは、彼が家族から愛されている証でもあり、連絡すればきちんと迎えに来てくれるであろうことが予想出来た。
(でも、じゃあ『センドウ』って誰のことやね?)
ついさっき通報者の岸田からの話との違和感を覚えながらも、とりあえず溝口は本署に一報を入れるために無線を掴んだのだった。
仙道を名乗る男性は、溝口の言葉に素直に従って動いてくれ、溝口は男性をパトカーに載せると、そのまま最寄りの警察署まで搬送した。
幸い服のタグに書かれていた連絡先に電話をかけたところ、すぐに若い男が電話口に出て「え!そんな所まで行ってたんですか!? 本当にすごく探してて……直ぐに迎えに行きます」と返事があった。
男性を待合室に座らせて、冷え切った体に毛布をかけてやり、温かい茶を出すと、男性はぺこりと頭を下げた。
「不甲斐ない、申し訳ない」と繰り返す姿には哀愁が漂っている。
「お父さん大丈夫ですよ。もうすぐ紳一さん、ですかね?その人が迎えに来られますから」
「……紳一?」
茶に口を付けていた彼は、キョトリと驚いたようにパチパチとアンバーの瞳を瞬かせた。
しかし彼が次の言葉を紡ぐ前に「仙道さーん!お迎えこられましたよ」とニコニコ顔の部下がやって来てしまい、言葉を発することは無い。
部下のそのすぐ後ろには、体格の良い部下よりも尚背の高い男の姿が見える。
ツンツンと髪の毛を立てた彼は一目で印象に残る顔だちをしていた。
「まきさん」
そうして。
男が男性を全く違う名前で呼んだ時、今まで項垂れ、気力はどこかに落としてしまっていた男性がパッと明るく顔を上げ「あきら」と嬉しそうに誰かの名前を呼んだ。
「まきさん、家に帰りましょ。今日は一人で出て言っちゃうんですもん、寂しかったんですよ」
「あきら、わるかった。お前の誕生日に海が見たかったんだ」
男が、しゃがんで男性に視線を合わせると、男性は済まなさそうに頭を振る。
しかし和やかな会話の最中、溝口は「あきら」と呼ばれた瞬間若い男の瞳に、実に辛そうな色が混じるのを見逃さなかった。
その違和感は見逃してはならないと警察官の勘が告げる。
「東堂すまんけど、手続きがあるからちょっと仙道さん見といてくれん?」
「え? はぁ、分かりました」
「仙道さん、ちょっといいですか?」
そうして部下に仙道を任せ、迎えに来た男を伴って溝口は部屋から出たのだった。
姿は見えるが、話声は聞こえない少し離れたベンチに男を座らせ、溝口は引取りの書類にサインを貰いながら「すみません。高齢の方を保護した時はうちの情報共有を兼ねて色々質問させてもらってるんです」と口を開いた。
すると、書類に『仙道学』とサインした男は「いいえ。むしろ父さ……父までこんなことになってしまって……。そうして頂けると有難いです」と恐縮したように答えた。
「まず確認で、あの方のお名前なんですけど、服のタグにお名前書いて下さってますよね?今回はそれ見て連絡させてもらってまして」
──あの方、仙道彰さんで間違いないでしょうか?
溝口がそう聞くと、男は酷く驚いた顔をして振り返り、離れたところに座る男性を確認したあと「あき……ああー、そうか父さん親父の服着て出て来たんだなぁ。道理で父さんの携帯が鳴ってたわけだ……」としきりに納得していた。
「と言いますと……?」
溝口がそう聞くと、男──学は短く息を吐いて「あの人は、牧……いや仙道紳一です」と口を開いた。
「ややこしいことになってしまってすみません。父たち同性婚してるんですが、今日は『紳一』が『彰』の服を着て出てきてしまったみたいで……連絡して下さった連絡先も紳一のものです。ちょうど父の部屋の前を通りがかった時に携帯が鳴ってることに気がつけたんです」
そう言って学はため息を吐き出した。
「……困ったな親父が着てた服は全部処分しないと」
些か穏やかでは無い学の言葉に、溝口は『仙道彰』の所在が気になった。
「なるほど、こちらこそご本人への確認不足で混同してしまってすみません。──あの、つかぬ事をお聞きしますが、今彰さんは……?」
溝口の言葉に、学は「先週一回忌の法要が終わったんです」と力無く言葉を紡いだ。
「二人ともバスケット選手で、現役の時は怪我ひとつしなかったんですが、彰は晩年に大病を患いまして……入退院を繰り返したりアルツハイマーになったり結構大変だったんですが、父の紳一が最期まで付きっきりで看病に介護もしてくれて」
すごく仲のいい二人だったんで、未だに親父が居ないという事実をちょっと受け入れなれなくて、と学は寂しそうに苦笑いした。
「──そうですか」
「彰の服のタグは、紳一が介護してた時の名残です。一度彰が山に入って行方不明になったことがあって。警察の方にも山に入ってもらったり、警察犬にも出動してもらいました。次の日に本人はケロッと山から降りてきたんですけどね。父さんの誕生日に花を見せたかったって。──その日中に父さんが親父の持ち物全部に名前書いてたのをよく覚えてます」
そうして学は不安げにこちらを見ている男性──紳一を見つめると、彼に向かって落ち着かせるように笑って手を振った。
「彰の法要の後、暫くは忙しさにかまけて私もちゃんと父を見れてなかったのですが、最近どうも父も認知症を患い始めたようで……もともと交友関係も趣味も多い人なんですが、最近はぼぅと海を眺めていることも多いんです」
そう学は言った。
「分かりました。すみません。ズケズケお聞きしてしまって……──あと最後に、学さんが紳一さんのことを『牧さん』と呼ばれてたのは一体なんでなんです?」
溝口がそう聞くと、仙道は先程見たように辛そうに顔を歪め、ゆっくりと口を開いた
「私は彰の姉の子供なんです。が、色々あって十歳の時に彼らに引き取られて育てられました。彰の血縁なのもあって彼をよく知る人には若い頃にそっくりだ、なんてよく言われます」
──だから私を見て、目を輝かせる父に、父の旧姓の「牧さん」って呼ぶと、安心したような顔をすることが多くて。
「良くないことだと分かってても、父の安心した顔見たさについつい呼んじゃうんですよ」
そう言って学はもう一度紳一の方を振り返る。
学は、今紳一にとっては、最愛の伴侶の顔をしているのだと思うと、酷く切なかった。
ゆっくりと二人並んで署を後にする後ろ姿を見送った。保護があったとき民生委員や行政に連絡して支援に繋げるのも警察の大切な席無駄と溝口は思っている。
昔は二人とも有名なバスケ選手だったときいて端末で検索をかけると、競技をしていた頃の二人に混じり、二人並んで取材を受ける画像も数多く残されていた。 そのどれにも『スポーツ界初の同性婚』と言う文字が並び、彼らの存在に背中を押された者達の感謝の言葉に満ちているのが印象的だった。
晩年、流石に顔が指すからと住み慣れた湘南を離れ、湘南と同じようにマリンスポーツや釣りを楽しめるここに越してきたのだと学は語っていた。
世間には公表することは無い、家族だけの穏やかな時間をたくさん二人で過ごしたに違いない。
──願わくばもう自分たち警察になど世話になることはないように。
まぁ、でも海辺でで元気にバスケをする紳一さんの姿はちょっと見てみたいかな、等とそんな小さな願いを思いながら、溝口も踵を返したのだった。
立春とはいえまだまだ水の冷たい二月の今、年中浜辺にいる彼らサーファーは、分厚いウェットスーツを着て颯爽とサーフィンに勤しんでおり、日の落ちた今はもう今日は上がるのか、スーツを半分脱いだ状態で、傍らにはサーフボードが立てかけられているのが見えた。濡髪からして今しがたまで波に乗っていたのだろう。
「お巡りさーん!こっちやけん」
「ああ、えっと、通報された……岸田さん?」
「そう。そんであっこにおるけん。なんとかしたってくれん?」
そう言った岸田が指さしたのは、溝口たちがいる場所から三百メートルほど離れた堤防の上だった。
その堤防に座り込んだ人影が見える。遠目にも赤いシャツを身につけているのが分かった。
「俺らがサーフィンし始めたのは昼頃やったけん。んけども、もうそん時にはおってやって」
「そっからずっとあそこに座ったまま?」
「いいや。最初は釣竿出して釣りしよったねん。学校終わりに子供らが来た時には一緒に楽しそうにバスケもしたりしててね」
──元気にボールおっかけよったわ。
そう言って、岸田はその時に使ったのであろうすっかり真っ黒に汚れた空気の抜けたバスケットボールを溝口に見せてくれる。
「どこぞでバスケでも教えとったんかいうえらい動きでなぁ。本人もすごい楽しそうやって」
遠目で見てもどう見ても六十より上であろう人影に、そんな動きができるのか、と驚きと共に、溝口の頭によぎるのは、もし暴れられでもしたら面倒だなという実に警察官らしい感想だった。
「でも四時超えた辺りくらいからかなぁ。トイレにも行かんとずっとあそこに座っとるし、誰か迎えに来る感じでもないからなぁ。もう暗なるし、心配になって来て。一回声掛けたら『センドウが来るのを待っている』言うし」
『センドウ』が誰だかは詳しく聞いてないかから分からない、と岸田に聞いても首を振るばかりだった。
しかし会話ができるのであれば、彼を連れて帰ることが出来るだろう。溝口はそう当たりをつけた。
「なるほど……ありがとうございました。あとはこっちでなんとかしますけん、帰ってもらってよろしいですよ」
溝口がそう言うと、岸田は「ほなあとは、よろしゅうねー」と言いながらその場を去っていく。
溝口は短く息を吐き出すと、署の司令係に現場に到着したと無線を入れたのだった。
いわゆる迷い人、迷い子を保護するのは、警察の責務とされている。
最近は子供がSNSで知り合った友人に会うために家族に行き先を告げることなく行方不明になることなども多いが、溝口が勤務する地域では確実に過疎化が進んでおり、迷い人として『高齢者を保護した』と通報が入るのも日常茶飯事の事なのだった。
今日の事案も年間で何百、何千とある事案のひとつ。
それが溝口の中での認識だった。
「お父さん? もう暗なりますけん、家帰りましょ」
溝口はそう言いながら人影に背後から近づいて一声かけた。日の落ちかけた薄暗い中でも、その人物の赤い長袖はよくよく目に付いた。
その人は下は明るい水色のジーパンを履いていて、しかしいくら探しても上着らしきものを持っている様子は無い。
──迷い人だな。恐らく。
立春を迎えたとはいえ、まだまだ酷く朝晩は冷え込む今の季節には、些か薄着すぎると言わざるおえない格好に、夜露が降りてくる前に声をかけられてよかったと、溝口は通報してくれた岸田に感謝の念を送る。
「家……」
溝口が近くに寄ると、男性はキョトンとした顔で小首を傾げた。
年齢としては七十後半から八十前半と言ったところか。
迷い人として保護する高齢者の大半が認知症を患っていることが多く、似たような行動範囲を徘徊し、複数回保護したことある顔なじみの高齢者も多いが、溝口は初めて見る顔だった。
赤いシャツしか着ていない薄着ではあるが、がっちりとした身体付きや胡座をかいても尚長さの目立つ両脚からは、かなり身長は高い部類だろうと予想が付いた。
(もし署に行くのを嫌がりでもしたら骨やぞ……)
そんな事を思いながら溝口はしゃがみ込んで男性と目線を合わせた。男性の瞳には生気はなかったが、しっかりと溝口の動きを追っていた。
「そう。お父さん昼過ぎからずっとここにおる言うて通報が入ったけん私が来させてもらったんです。──お父さん、この近くに住んでますん?」
「あっ……家は……」
ロマンスグレーの髪がさらりと揺れて、途端瞳に不安が走るのが見て取れた。溝口は話しかけながら素早く男性の身体を検分し、大きな怪我などしていないことを確認していく。服装があまり汚れていないことからも、出かけたのは今日か、遅くとも昨日の夜だろうと検討をつける。
男性はそわそわとズボンのポケットに手を突っ込んだりして何かを探していたようだが見当たらなかったようで、困り果てた顔で溝口を見上げてくる。
歳を経て深みを増した男性の顔は、それでもとても整っていて、若い頃は異性から持てたのだろうなと溝口はぼんやりと思った。
携帯端末や財布を持っているような感じでもなく、溝口が「お父さんのお名前は?」と問うと、数秒の考え込むような沈黙の後、小さな声で「……仙道、仙道です」と返事があった。
しかし男性のそのイントネーションは、語尾が山なりになることの多い関西特有のものではなく、にわかに溝口は顔色を変える。
(もし本州から電車なりバスなりでここまで来とんやったらちょっとしんどいなぁ)
最悪迷い人手配だと思いながら、溝口は「お父さんごめんな。ちょっと服のタグ見せてもらっていい?」と一縷の望みをかけて、男性の服装を確認する。
認知症で徘徊してしまう高齢者は、携帯端末や財布などを持たずに家を出てしまうことも多く、そういった場合、家族が持っている服に全てに名前や連絡先を刺繍したり書き込んだりしている場合も多い。
溝口の言葉に、男性は嫌がることなく、こくりと頷き、服の裾をひっくり返して見せてくれた。
そこには──。
『仙道彰
連絡は仙道紳一まで
090ー××××ー〇〇〇〇』
丁寧に黒のマジックでそう書かれているのを見つけ溝口は一先ず安堵する。
それは、彼が家族から愛されている証でもあり、連絡すればきちんと迎えに来てくれるであろうことが予想出来た。
(でも、じゃあ『センドウ』って誰のことやね?)
ついさっき通報者の岸田からの話との違和感を覚えながらも、とりあえず溝口は本署に一報を入れるために無線を掴んだのだった。
仙道を名乗る男性は、溝口の言葉に素直に従って動いてくれ、溝口は男性をパトカーに載せると、そのまま最寄りの警察署まで搬送した。
幸い服のタグに書かれていた連絡先に電話をかけたところ、すぐに若い男が電話口に出て「え!そんな所まで行ってたんですか!? 本当にすごく探してて……直ぐに迎えに行きます」と返事があった。
男性を待合室に座らせて、冷え切った体に毛布をかけてやり、温かい茶を出すと、男性はぺこりと頭を下げた。
「不甲斐ない、申し訳ない」と繰り返す姿には哀愁が漂っている。
「お父さん大丈夫ですよ。もうすぐ紳一さん、ですかね?その人が迎えに来られますから」
「……紳一?」
茶に口を付けていた彼は、キョトリと驚いたようにパチパチとアンバーの瞳を瞬かせた。
しかし彼が次の言葉を紡ぐ前に「仙道さーん!お迎えこられましたよ」とニコニコ顔の部下がやって来てしまい、言葉を発することは無い。
部下のそのすぐ後ろには、体格の良い部下よりも尚背の高い男の姿が見える。
ツンツンと髪の毛を立てた彼は一目で印象に残る顔だちをしていた。
「まきさん」
そうして。
男が男性を全く違う名前で呼んだ時、今まで項垂れ、気力はどこかに落としてしまっていた男性がパッと明るく顔を上げ「あきら」と嬉しそうに誰かの名前を呼んだ。
「まきさん、家に帰りましょ。今日は一人で出て言っちゃうんですもん、寂しかったんですよ」
「あきら、わるかった。お前の誕生日に海が見たかったんだ」
男が、しゃがんで男性に視線を合わせると、男性は済まなさそうに頭を振る。
しかし和やかな会話の最中、溝口は「あきら」と呼ばれた瞬間若い男の瞳に、実に辛そうな色が混じるのを見逃さなかった。
その違和感は見逃してはならないと警察官の勘が告げる。
「東堂すまんけど、手続きがあるからちょっと仙道さん見といてくれん?」
「え? はぁ、分かりました」
「仙道さん、ちょっといいですか?」
そうして部下に仙道を任せ、迎えに来た男を伴って溝口は部屋から出たのだった。
姿は見えるが、話声は聞こえない少し離れたベンチに男を座らせ、溝口は引取りの書類にサインを貰いながら「すみません。高齢の方を保護した時はうちの情報共有を兼ねて色々質問させてもらってるんです」と口を開いた。
すると、書類に『仙道学』とサインした男は「いいえ。むしろ父さ……父までこんなことになってしまって……。そうして頂けると有難いです」と恐縮したように答えた。
「まず確認で、あの方のお名前なんですけど、服のタグにお名前書いて下さってますよね?今回はそれ見て連絡させてもらってまして」
──あの方、仙道彰さんで間違いないでしょうか?
溝口がそう聞くと、男は酷く驚いた顔をして振り返り、離れたところに座る男性を確認したあと「あき……ああー、そうか父さん親父の服着て出て来たんだなぁ。道理で父さんの携帯が鳴ってたわけだ……」としきりに納得していた。
「と言いますと……?」
溝口がそう聞くと、男──学は短く息を吐いて「あの人は、牧……いや仙道紳一です」と口を開いた。
「ややこしいことになってしまってすみません。父たち同性婚してるんですが、今日は『紳一』が『彰』の服を着て出てきてしまったみたいで……連絡して下さった連絡先も紳一のものです。ちょうど父の部屋の前を通りがかった時に携帯が鳴ってることに気がつけたんです」
そう言って学はため息を吐き出した。
「……困ったな親父が着てた服は全部処分しないと」
些か穏やかでは無い学の言葉に、溝口は『仙道彰』の所在が気になった。
「なるほど、こちらこそご本人への確認不足で混同してしまってすみません。──あの、つかぬ事をお聞きしますが、今彰さんは……?」
溝口の言葉に、学は「先週一回忌の法要が終わったんです」と力無く言葉を紡いだ。
「二人ともバスケット選手で、現役の時は怪我ひとつしなかったんですが、彰は晩年に大病を患いまして……入退院を繰り返したりアルツハイマーになったり結構大変だったんですが、父の紳一が最期まで付きっきりで看病に介護もしてくれて」
すごく仲のいい二人だったんで、未だに親父が居ないという事実をちょっと受け入れなれなくて、と学は寂しそうに苦笑いした。
「──そうですか」
「彰の服のタグは、紳一が介護してた時の名残です。一度彰が山に入って行方不明になったことがあって。警察の方にも山に入ってもらったり、警察犬にも出動してもらいました。次の日に本人はケロッと山から降りてきたんですけどね。父さんの誕生日に花を見せたかったって。──その日中に父さんが親父の持ち物全部に名前書いてたのをよく覚えてます」
そうして学は不安げにこちらを見ている男性──紳一を見つめると、彼に向かって落ち着かせるように笑って手を振った。
「彰の法要の後、暫くは忙しさにかまけて私もちゃんと父を見れてなかったのですが、最近どうも父も認知症を患い始めたようで……もともと交友関係も趣味も多い人なんですが、最近はぼぅと海を眺めていることも多いんです」
そう学は言った。
「分かりました。すみません。ズケズケお聞きしてしまって……──あと最後に、学さんが紳一さんのことを『牧さん』と呼ばれてたのは一体なんでなんです?」
溝口がそう聞くと、仙道は先程見たように辛そうに顔を歪め、ゆっくりと口を開いた
「私は彰の姉の子供なんです。が、色々あって十歳の時に彼らに引き取られて育てられました。彰の血縁なのもあって彼をよく知る人には若い頃にそっくりだ、なんてよく言われます」
──だから私を見て、目を輝かせる父に、父の旧姓の「牧さん」って呼ぶと、安心したような顔をすることが多くて。
「良くないことだと分かってても、父の安心した顔見たさについつい呼んじゃうんですよ」
そう言って学はもう一度紳一の方を振り返る。
学は、今紳一にとっては、最愛の伴侶の顔をしているのだと思うと、酷く切なかった。
ゆっくりと二人並んで署を後にする後ろ姿を見送った。保護があったとき民生委員や行政に連絡して支援に繋げるのも警察の大切な席無駄と溝口は思っている。
昔は二人とも有名なバスケ選手だったときいて端末で検索をかけると、競技をしていた頃の二人に混じり、二人並んで取材を受ける画像も数多く残されていた。 そのどれにも『スポーツ界初の同性婚』と言う文字が並び、彼らの存在に背中を押された者達の感謝の言葉に満ちているのが印象的だった。
晩年、流石に顔が指すからと住み慣れた湘南を離れ、湘南と同じようにマリンスポーツや釣りを楽しめるここに越してきたのだと学は語っていた。
世間には公表することは無い、家族だけの穏やかな時間をたくさん二人で過ごしたに違いない。
──願わくばもう自分たち警察になど世話になることはないように。
まぁ、でも海辺でで元気にバスケをする紳一さんの姿はちょっと見てみたいかな、等とそんな小さな願いを思いながら、溝口も踵を返したのだった。
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