仙牧 新⬆旧⬇

「おい、お前のポマード借りるぞっ」
「どうぞっ!……って紳一さん、ボタン!ボタンかけ間違ってるから!あと……すみません痕見えちゃってます!」
「……お前なぁ。お前が見えないところだっつうから!!」
「いやぁ、やりすぎちゃ……嘘です!腹パンはやめて!会場で誰かにコンシーラー借りますから!!上から塗れば隠れるから!」
にへらと、仙道が心底困り顔で誠心誠意謝って降参するように両手を上げると、牧がいささかムッとし顔で握った拳を渋々下ろした。
「おい、あと10分だぞ」
「分かってますって」
そう言いながらも仙道は、部屋の大きな姿見の前で髪型を整えている牧を盗み見ることに余念がなかった。
シャワーを浴びたばかりの濡髪が、高く昇った太陽に艶めいていて目に毒なのはもちろんのこと、その普段の姿とあまりに違う牧に魅入られていたからだった。


新しく取り出した予備の真っ白なシャツに皺を入れないため、がっしりと筋肉の付いた太腿に回った黒のシャツガーターと、脹脛のソックスガーターの威力は、仙道の想像の軽く百倍は上を行った。特大急の誕生日プレゼントは昨日もらったが、それにオマケするようにさらに鼻血を吹きそうなとびきりのプレゼントなのだと思ってしまうほどに。
ぐるりと肌に回る実用性を兼ねたベルトが、むっちりと鍛えられた筋肉に僅かにくい込んでいている様は、もしかして自分にはSMの気質があるのかといらん扉を開けてしまいそうで、舐めるように見つめることをやめられない。礼服に合わせて、中身からきっちりと装いを取り繕った伴侶に感嘆のため息が止まらなかった。
出来ることなら牧のこの特別な着替え風景をバッチリとうさ……いや撮影させてもらっていつでも見返せれるようにしたかったが、朝から大層大盤振る舞いに牧を貪って時間ギリギリの今、そんな申出をすれば、腹パンどころじゃない本物のメガトン級のパンチが飛んでくるだろう。
(次、紳一さんの誕生日にドレスコードのあるお店に誘って、その時撮影させて貰おうかな)
自分に酷く都合の良いそんな妄想に取り憑かれながら、鏡も見ずに作業していたせいか、仙道のネクタイは曲がりくねり、大剣の下から小剣が飛び出ている有様だった。修正しようにもどうにも上手くいかない。
「お前な……」
コームで前髪を立ち上げて撫でつけオールバックにして綺麗なポンパドールを手際よく仕上げた牧は、仙道が内心涎を垂らして悦んでいる姿のまま──つまりシャツと下着だけを身に付け各種ガーターが両脚に絡んだまんま──で、仙道の目の前まで呆れた顔してやってきた。
あとは、ズボンとジャケットを羽織れば終わりであるその着替え姿は、自分が牧に惚れているという色眼鏡をなしにしても、下手なAVなんかより余程クるものがあるのだと、牧には自覚して欲しいなどと脂下がった笑みが浮かんでいないか心肺になるほどった。
「あはは……やっぱりネクタイ難しくて」
「ちったぁ練習しろよ」
そんな言いながら、牧はだらしない結び目を解いて、しゅるしゅると小気味よい音を立てて締め直してくれる。結び目が重なっているように見えるクロスノットは、式典向きの結び方で、小洒落ていて傍目にも華やかさがある。仙道はすっかり隠されてしまった牧のつむじを見おろしながら、シャツの襟から覗く付けたばかりの真新しい所有の痕を見つけてしまい、朝方に彼のネクタイをほどいた記憶が蘇り、三度今度こそ綺麗に結ばれたネクタイを解きたい衝動を抑えるのに苦労を擁した。
「ほら、男前だ」
仕上げに、とネクタイに通してくれたシルバーのネクタイリングは、小さなダイヤがいくつか付いた一目で高価なものだと分かるような代物だった。
「紳一さん、これ……」
「誕生日祝いは昨日やったが、こいつは忘れてたんだよ」
──俺も同じものをつけるからな。
そう抑揚に笑った牧は、もう一つ同じものを取り出して勝手に自分のネクタイに付けてしまおうとするので、仙道はそれを慌てて押し留める。
「待って紳一さん、俺に付けさせて」
「ん?そうか?」
牧から手渡されたリングをゆっくりとネクタイに通すと、牧が満足気に笑うのが見えた。

「美人な招待客も多いだろうからな。これ付けときゃ俺のだって見失わないだろ」

牧の真綿で包まれるような柔らかく、しかし激しい独占欲に、仙道は喜びのあまり目の前の身体に抱きついたのだった。



*****

兵庫、神戸は瀬戸内海に面した港湾都市だ。
六甲山を望む県の中部に位置する神戸は、一年を通して気候が安定している。
湘南の海のような白波が立つことの穏やかな海を内包するそこは、古くより交易と商業が盛んで、様々な文化交流が生まれてきた。
立春を迎えたそこは、今、麗らかな春の温かさに包まれていた。

海の見える美しい白い教会は、ヨーロッパの建築様式であるルネサンス様式を取り入れていると語っていたのは新婦側の親族だったか。
仙道はウェルカムシャンパンを片手に、関西特有の早口な喋りで周りを引き込む話術に聞き入っていた。
「あの子が関東の大学に行く言うた時は、ほんまどないなるんや思てたけど、あんな男っ前捕まえてきて!」
そう言い切って思わず涙が浮かんでいる新婦の叔父は、目頭にハンカチを当てて拭っていた。隣に座る奥さんらしき女性に「もうあんた!ええ加減にしいや!ほんまにのみすぎやで」とバシバシ肩を叩かれながら声をかけられている。
式典前の和やかな空気のそこは、中庭から蕾を着けたばかりの梅の木が見えた。──やっぱり関東よりも開花はだいぶ早いのだなと思っていると、連れに「行くぞ」と軽く声をかけられグラスを置いた。
係員の指示が流れ、参加者一同がぞろぞろとホールから教会に移動する。
サン・ピエトロ大聖堂を思わせる蒼いドーム型の屋根が特徴的な教会は、新しいはずなのに既に風雨に打たれて独特の味を醸し出していて、見る者を圧倒する荘厳な威厳に満ちている。
海の女神を祀った青いステンドグラスから教会の中に眩いばかりの光が反射して、深紅のヴァージンロードを海の色で染めているのが、目に新しかった。


「汝、病める時も健やかなる時もこの者と共に生き、共に支え、いかなる困難にも立ち向かいますか」


「……はい」



厳かな空間に、新郎の張りのある返事が響き渡った。
伝統に乗っ取って宣誓の間は、式を挙げた者も、そうして式に参列した者も、皆俯き目を瞑らなければならないそうだ。
だがしかし、そのルールが分かっていながらも、仙道彰は、少しズルをして横目でチラと前方を伺って、そうして自分の隣に座する愛しいその人を垣間見た。
普段は決してそらされること無く真っ直ぐに前を見つめる薄い琥珀色した瞳は、存外に長いまつ毛の下に隠されてしまっている。
バスケットボールに触れる時は、長時間の運動をするからかポンパドールにしていても落ちてきてしまう亜麻色の髪は、今日はきっちりポマードで固められ、式典用にポンパドール風にして毛先に流すようにしてセットされてる。一部の隙もない他者を圧倒する王者としての風格は、歳を重ねすっかりと牧の一部になっている。
(それにしても、キスマーク隠れて良かった)
出かける直前まで揉めていた情事の痕については、式の受付をしていた元湘北の鬼キャプに頼み込み、いまは宮城彩子となった顔見知りの元マネージャーにコンシーラーを貸してもらってなんとか事なきを得ていた。いやまぁ、コンシーラーが牧の肌の色とは合わず意外と白浮きしてしまっているのは、もはや仕方がないのである。
自分たちが常に身につけているユニフォームやジャージ姿とは違い、今年新調したばかりのチャコールグレーのダブルの三つ揃えが、体格はいいが太っては見えないいかにもスポーツマン然とした体型の牧に、本当によく似合っていた。

──本当に、ため息が出るほどにこの人は美しいんだよな。

そう感嘆せずにはいられなかった。いつもと違うからこその感情なのかどうなのかは仙道には判断は付かない。
スっと通った大きな鼻、キュッと引き締まった顎周りに、日に焼けた健康的な肌さえも、どこもかしも隣に座る伴侶──牧紳一を形成する要素として何一つ外すことは出来ないだろう。
それらがバランスよく配置された顔はもちろん好きだが、この年上の男を語る上でなにより大事なのは、その人となりだろう。
強く、優しく、そうして賢くを地で行く牧は、懐に抱え込んだ人間に対しては、いっそ健気と言うほどの無償の愛を注いでくれる。
それをイの一番に享受して、もう十五年近くも牧の一番に居座り続けているのであろう自負も自覚もあるというのに、未だに求め続けるのは、もっともっと深く自分だけを見て欲しいなどと言う浅ましくも深い独占欲に他ならない。折しもそれが叶ってしまったことで仙道は、さらにひどく牧を求めてしまう。

──あぁ、もしも。もしも神がいるというならば、どうかお願いします。奇跡のようなこの人と、この先も、ずっと共に歩んでいきたいんです。

仙道のいやに重たい思考は、しかし恐らくずっと年下の男の熱の篭った視線に気がついていたのであろう牧が、片目をパチリと開けて、悪戯っぽくこちらを見つめてきたことにより中断される。
色素の薄いアンバーに真っ直ぐにこちらを射抜かれて、仙道は気恥ずかしさからドッと体温があがり、顔に熱が集まってくるのを感じてしまう。
『まったくお前は』
僅かに牧の口元が、そう動く。
次いでぎゅっと牧に手袋越しに戯れに指先握り込まれ、ピャッと上がりそうになった情けない声を咬み殺すことに苦心する。
恐る恐る指を絡めるようにして牧の節くれた長い指を握り返すと、してやったりというように、ふふ、と牧が小さく笑いを漏らす気配がした。


──汝、病める時も健やかなる時もこの者と共に生き、共に支え、いかなる困難にも立ち向かいますか。


まだ厳かなる宣誓の儀式は続いている。神父が今度は新婦に向かって同じ質問を投げた。
牧からしてみれば、新郎と新婦を祝福するための空間で、気もそぞろになった仙道を諌めるために手を握ったに違いない。
しかしそんな牧のを意向を汲みながらも、握られた指に昨日彼から誕生日プレゼントに、と贈られた新しいゴールドのペアリングの片割れがある感触に、仙道の気分がどんどん上を向くのを感じてほくそ笑んでしまう。
仙道にしてみれば──牧の身体の一部と触れ合いながら、その宣誓を問われることは、まるで自分に向けられた言葉のように錯覚してしまいそうだった。
美しいアンバーの瞳が再びまぶたの奥に隠される。
仙道も手を握られたままようやく目を瞑る。


──誓います。だから、あぁ神様お願いだから。
どうかこの人と生きていくことを許して欲しい──



そんなことを見も知らぬ神に祈りながら、仙道は牧の指先を握った右手に力を込めて、再び静かに目を閉じたのだった。



*******



仙道と同じ大学でプレーした同級生の結婚式だった。

関西出身の同級生の彼は、上には上手く取り入って、しかし下に何かを強制するようなことはない気のいい奴で、陵南にいた一学年下の関西出身の男を彷彿とさせた。彼とは、同じ学部だったこともありバスケにかまけて授業をサボりがちな仙道に何くれと世話を焼いてくれ、バスケットでもその広い視野を活かしてポイントカーとしてレギュラー入りし、仙道と並びチームの要として皆から好かれていた。
その彼に、うっかり恋人が牧なのだと露見した時にも「でっかい身体縮こまられて何言うてくるんか思ったらそんなことかいな。ええやん。牧さんバスケめちゃくちゃ上手いし、お前とこれ以上ないお似合いのカップルやん」と即座に肯定してくれた貴重な人なのだ。
カレッジ一部リーグで初めて牧のいる大学と対戦し、その後の親睦会で、牧や牧と同じ大学に入った宮城を含めた飲み会をした縁で、彼らとは牧を含めて細く長く関係が続いており、大学でバスケをやめて地元に帰った彼から中学の時から続いていた彼女と結婚することになったと連絡を受け、祝いの席には是非牧と来て欲しいと請われたのだ。折しも本業の方がちょうどアジアカップのバイウィークに入った期間とも重なり、短い休暇を利用して牧と共に参列することとなったのだった。




生ぬるい夜風が、酒に酔って火照った体には心地が良かった。
本日の主役だった同級生の彼は、今は生まれ故郷で街のNPOに積極的に参加したり、プロバスケの運営に関わったりと何くれとバスケのために貢献しているようで、厳かな式の後は、親族や仕事の関係者それにかつて交流のあった大人数の友に囲まれどんちゃん騒ぎの宴が開かれた。
バイオリンとピアノのご陽気な音楽が鳴り響き、所狭しと地元の海鮮を中心に名物が並ぶ圧巻の料理を楽しむ。一緒に参列した牧のもとにも色んな人物が訪れては話に花を咲かせており、そんな伴侶をどこか得意気に見守りながら香り高いワインに舌鼓をうち存分に酔いしれた。
祝いの言葉を存分に送り合って、互いの背を叩き合い、"またコートの上で"、などとろくでもない挨拶を交わしながら会場をあとにする。
宮城夫妻と桜木と流川、それに今関西のチームでプレイしている森重と諸星の元愛知勢のよく分からない酔っ払いご一行に加わって、各々のホテルまでの道すがら、ふらりと立ち寄ったのが場末のバッティングセンターだった。
中華街からのいい匂いとネオンの派手派手しい装飾が、共に居た森重と流川を飲み込んでしまったのか二名ほど行方知れずになっているが、それ以外は古めかしいネットの張られたバッティングセンターにひとり、またひとりと吸い込まれて行く。
「じいも仙道も行くぞー!ホームラン出したヤツが次結婚できるんだ!」
「バッティングセンターなんて何年ぶりかしら。もちろんホームラン狙いで行くんでしょ、リョータ?」
「またあやちゃんと結婚できるのなら俺頑張るよ♡」
「諸星お前バッティングとかできんのか?」
「牧っ、お前って時々すんげぇ失礼だよな!!」
そんなことを口々に言いながら、すでに宮城はバッターボックスに入って小気味よい快音を響かせ、バッターボックスの後ろで桜木と森重は野次を飛ばしている。
その一行の一番後ろで、何やら考え込んでいる牧に、仙道は声をかけた。
「牧さんはやらない?」
「──なんか今になって酔いが冷めてきたというか、無性にこれが恥ずかしくなってきて……」
これ、と牧が仙道に向かって差し出したのは、大きなブーケの入った紙袋だった。
海の色をした教会での式の後、次の花嫁を決めると言われるブーケトスで、寄りにもよって飛んで行ったブーケを受け取ったのは数多いる女性ではなく──牧だったのだ。
新婦が後ろを向いて放ったブーケは、綺麗に放物線を描いて風に乗り、ブーケトスに参加はしてきなかった牧のもとにポトリと落ちて、そのまま彼の物になったのだ。
参加者からは笑いを誘ったのだが、真面目な牧は今になって罪悪感に見舞われているらしい。
「え、嫌だった?」
「いや……ではない。むしろ」
──お前とのこの関係を祝福されているような気もした。
そういう牧の頬は、夜目にも分かるくらいに上気している。しかし彼が発する言葉は現実を突きつける。
牧と生涯を共にするには、まだ自治体ごとのパートナーシップという心もとない制度しか受けられない確かな壁がある。どれだけ同じ物を身につけようと、身体も心も共にあるという誓いをしようとも、どれだけ周りの理解を得て共に生活しようとも、大病をすれば手術一つ受けさせられる同意をすることすら叶わないのだ。

「次は俺とお前の番だって何人にも言われて、──嬉しかったんだ」

結婚という行事に、昨日までの誕生日の浮かれた気分はまるで吹き飛び、ぴたりと地に足が着いた心地になる。
それでも、例え万人から受け入れられることはないとしても、もう牧を離してやることなどできはしない。
仙道は、牧のその言葉を聞いて、すぐに踵を返した。そうしてちょうど、打ち終わり、次は俺だと嬉々としてバッターボックスに入ろうとする桜木に「次は俺に代わってくれ」と声をかける。
「お? 別にいいが天才桜木は待つことを覚えたからな」
「……やっと一人前になったって事よね」
「彩子さんヒドイですよ!」
ムキになる元湘北の最凶の男を差し置いて、宮城からバットを受け取った。
そうして仙道は、三つ揃えの上着を脱いで、カフスを外して腕まくりまでしてしまう。
その様子を口をポカリと開けて見ている牧の顔が目に入り、なぜだか得意な気持ちになった。
「お、なんか仙道がやる気じゃねぇか!」
「やってやれ!仙道!」
「ぶちかましてやんやさいよ!」
やんややんやの歓声が飛び交って、今日一番の盛り上がりを見せている。
左のバッターボックスに入った仙道は、ひたりと牧を見据え、大きく息を吸い込み、そして、「もし新記録なら──半年後は俺たちです」と、片手を上げて宣言した。

──これは宣戦布告なのだ、自分にとっても、この人にとっても。

一瞬の静寂が僅かに場を支配した。
呆気にとられた牧が、しかし次の瞬間には口元をさもおおかしげに吊り上げて「死ぬ気でやれよ」と笑い声を漏らす。
それが仙道の結婚宣言だと牧を含め周りが気がついた瞬間「くっそカッコつけてんじゃねぇ!!!」「キザすぎるだろ馬鹿野郎が!」「牧を未亡人にするんじゃねぇぞ」「必ずやり遂げろ!」という野太い大歓声に包まれる。
普段大きなボールを追いかけているからか、小さな野球ボールを捉えるのはなかなか骨が折れる。
必死にバットを振るのに当たらないなんて事態はさけねぇと。

「さ、いこーか」

勝負は五球。
そこで全ての勝負が決まる。
さも愛おしげに、自分を見守る視線を感じながら、仙道は春の満点の星空に向かっては渾身の一撃を放ったのだった。

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