仙牧 新⬆旧⬇

「三井さん、これ来てよ」

二ヶ月ほど前に、流川にそんな言葉と共に送られてきたのはリーグのオールスターの関係者用の電子チケットだった。
NBAから帰国し、今や日本バスケットボール界の大スターであるこの男からこんな風にチケットが送られてくるのは、実は物凄く稀なことだ。
NBA時代も日本のプロリーグに加入してからも、マスコミに追い回されるような生活をしてきた弊害かもしれない。
バスケットの国にいる時から私生活──まぁ特に色恋沙汰には色々と取り沙汰されてことある事に注目を浴びてきた弊害かもしれない。
今現在は『高校の時の先輩』と付き合っていると堂々と公表してしまったから、世間の風当たりや風評といったものから俺との生活を守ろうとしてくれているアイツなりの優しさもあるのだろう。俺が自分でチケットを買って試合を見に行くことを嫌がったりはしなかったが、自分からチケットなんて本当に滅多に渡してこないのだ。
案外に公私ははきっちり分けたいあの男らしい配慮もあるのだろうし、俺だって今は教師として働いていて、部活でバスケ部の指導も仰せつかっている身でもあるので、毎週末のように開催される試合観戦にそんなに時間を割くことも出来ないと知っているからこそだったのかもしれないが。

「へぇ、珍しいな。お前がチケット渡してくるなんて」
「……仙道と当たる」
──アイツがブルーチームで、俺がレッドチーム。

そんな単語ばかりの応えを返してきた流川に、俺はああなるほどな、と頷いてしまった。
流川よりも二年ほど長くNBAでプレイしていた男、仙道彰は、今シーズンから日本のチームでプレイしている。
流川にとって永遠のライバルとも目されるような男と、久々(と言っても公式戦ではすでに何回か当たっているだろうに)にオールスターというある種選手同士の交流を目的としたような場で、怪我をしない程度でもマッチアップできるとあって、なかなかに気合いが入っているようだった。
以前たまたま観た試合が仙道のチームとと流川のチームとの二連戦の一日目で、インタビューを受けながら試合会場でアップをする仙道を睨めつけて『アイツにはゼッテェ勝つ』と宣言していたのを思い出し、思わず忍び笑いが漏れた。
「NBAではあいつに勝ち越されてんだろ?こっち来てからはどうなんだよ」
「3回あいつのチームとやった。一……勝したけど」
まぁこいつだけが悪いとは言わないが、いかにも歯切れの悪い受け答えに、我慢ができずついに大声をあげて笑ってしまう。
「──そんな笑うことじゃねぇだろうが」
「だぁーはっは!!だってお前一回鏡みてこいよ。ふくれっ面したリス観てぇになってったから」
「うるせぇ」
オールスターに来んのは無理なのかと、重ねて聞いてくる流川がやけに不安気で、なぜそんなに俺が行くことにこだわるのかがふと気になった。
「やけに見に来い見に来いって言うな。なんかあんのか?」
「……言わねぇ、仙道に言われっぱなしは癪だから」
どうやらコートの外で、仙道と何かあったのだろう。
どんな会話が二人の間であったのかなんて知る由もなかったが、へそを曲げる寸前のこいつが口を割るとは思わず、話の矛先を少し変えてやる。
「今回のチケット争奪戦もやばかったんだってな。即日完売で見切れの席だって物によっちゃウン万円で取引されてるってネットで聞いたぞ」
「……知らねぇ。それだって広報の人が家族にどうぞってくれたやつだから」
ともかく来てよ、とまるで捨て犬のように下からこちらを伺う年下の男は、三白眼が妙に愛らしい雰囲気を醸し出していてその綺麗な黒髪をわしゃわしゃと頭を撫で回したくなってしまう。そうしてこちらが頷くまでしつこく言い続けるであろうことは予想ができたから、壁掛けカレンダーを遠くに見ながら「分かった分かった予定を調整してみるから」と、ぽんぽんと頭を撫でてやれば、まるでお返しのようにぎゅうぎゅうと抱きしめ返されたのだった。



*****



(一口タバコを吸ってくるんだったな……)

オールスター当日、俺はアリーナに入った瞬間そんなこと思い、人の多さに辟易して、もうそれだけでどっと疲れていた。
アリーナの中はまだオープニングショーが始まったところだというのにすごい熱気で、タートルネックのセーターを着てきたことにも既に後悔していた。
場内は普段はホームチームのユニフォームを着用した観戦客と対戦相手のアウェイチームのユニフォームを着た観戦客がある程度纏まっているのが大半である。
しかしオールスターでは皆がそれぞれオールスターに出場する推し選手なり推しチームのユニフォームを着ているためアリーナの中は色とりどりのユニフォームで華やかさで満ちている。
人気投票で上位を獲得した選手のみが出られるこの試合は、予想に違わず各チームのエース級ばかりが参加していてそこかしこでチームの垣根を越えて選手のファンたちが談笑しているために和やかな雰囲気でもあった。
──でもこのオールスター限定の赤の十1番と、青の七番のユニフォームがとびきり多い気がするのは気のせいではないだろう。
俺が座っているのは関係者席ではあるが、俺の右隣の小柄な女性は赤の十一番を着ているし、左隣のすらっと背の高い女性は青の七番のユニフォームを着て、バカでかいレンズのカメラを用意している。
俺はユニフォームこそ着てはいなかったが、物販にわざわざ並んで、思い出作りのためにちょうど在庫が補充されたタイミングもあり手に取ってしまった赤の十一番……表にも裏にもでっかく『Rukawa』と名前の入ったユニフォームを着るか否かで大いに迷っていた。こういう時できるだけみなと一緒に盛り上がるのがマナーだと弁えていたせいでもある。
(つってもやっぱり小っ恥ずかしいモンは変わらねぇ……)
ユニフォームを手に悶々と悩んでいた時、ふとざわりと空気が揺れるのが分かった。

『牧だ』

そのさざめきはそのうち大きくなっていく。
『え、うそ宇都宮の? 四番キャプテン牧紳一?』
『わ、やっぱりもうオーラが違うというか』
『宇都宮? あれ……でも』
『前に千葉と宇都宮の試合の間のハーフタイムで引退セレモニーしてたでしょ?』
『あー! やってたやってた。あのセレモニー見るためにチケット取ったファン多かったもんな』
『今宇都宮のU十八のコーチでしょ?』
『えぇいいなぁ……牧に指導してもらいてぇ』
そんな声がそこかしこから聞こえてきて、周りを見渡せば、自分のちょうど前方二ブロックほど前に、大柄で丸い頭が列を申しなさげに通って行くのが見えた。
黒いジャケットにチノパン姿の男の姿は、たまにテレビ等で見ていたものの、今のような眼鏡姿は初めてでやけに新鮮に目に映る。

──神奈川の帝王、牧紳一。

自分たちの時代のトップを走り続けた男と、実際に試合したのは、忘れもしない高校三年でバスケ部に復帰した神奈川の県大会決勝リーグの海南対湘北の試合が俺にとっては最後だった。
あの時も牧とはポジションが違うということもあり、ほとんど牧とマッチアップすることもなかったし、なんせ後半は俺がへろへろにへばっていて誰にマークされたかなんてろくに覚えちゃいない。それに俺は国体にも招集されず、冬の選抜は予選で陵南に僅差で負けた俺たちは、あの年再び海南と対戦することは無かったのだ。
あの海南対湘北の試合だって、牧がわざと桜木からファールを取りに行った時に反射的に文句が出たくらいで会話らしい会話なんてほとんどした覚えは無い。
大学でも俺もバスケはしたが、牧が進んだ大学はカレッジ一部リーグにいたこともあり(うちはどんなに頑張っても二部から抜け出すことはできなかったのだ)当たることはなかった。
今は一介の高校教師として女子バスケ部を任されている俺と、プロまで進み、引退したあともバスケで生計を立てていくのであろう牧とでは歩んできた過程が違いすぎて、──いっそ眩しいくらいだった。

牧は自分の座席に着いたのか、動きを止めた。

そうしてふと顔を上げ、まるでこちらを見上げるように俺の方を見た。──ような気がする。
パチリ、と一瞬視線が合った気がしたのだ。
少し距離はあるものの、確かに牧が俺の方に顔を向けたのは見えた。


そしてその瞬間、まるで俺の頭の中を海と波の音が駆け抜けていき、言いようのない既視感に襲われる。
──なんだ?
バスケをする試合会場ではなかった。牧と接点など無いはずの夕暮れの人気のない浜辺。


しかしそれを確認するまもなく牧は座席に座り、前を向いてしまう。そうして周囲の彼のファンからのサインを快く受けているのが見えた。
しかし俺はと言えばそれどころではなく、今の頭に浮かんだ情景を必死に頭に思い浮かべる
(以前にもこんな風にあいつと目が合ったことがあったか……?)
高校時代の湘北と海南のあの試合ではないと思う。
あの試合、俺がどれだけ文句を言おうとも、牧は全く取り合わず、ちらりともこちらに視線もくれなかった。牧との次元の違いに圧倒され、バスケをしなかった二年間にくじくたる思いをしたがあの時では無いのだ。
──じゃあどこでだ?
近距離ではなく、ちょうど今くらいの少し遠くにお互いが見える距離。
あの男の顔はこちらを向いているとわかる距離なんだが、と頭をひねりながら、前座のスキルチャレンジの選手入場のため照明の落とされ熱気が最高潮に達したアリーナの中で、俺は気のない拍手を送りながら、暫く考え続けたのだった。




******



(流川のやつ、流川のやつ!──流川楓の奴!!!!)


今は試合の前の前座であるスキルチャレンジが終わり、レッドチームとブルーチームで分かれた親善試合があと二十分もすれば始まるという段階だった。
肺まで吸い込んだ真っ白な煙をゆっくりと吐き出して、まだ火照る顔に、大して風も来やしないのにパタパタと仰いでみる。まだなんだかふわふわしていて現実感がない。
「あ、さっきのお兄さんだ」
「流川くんへのトスめっちゃ良かったですー!」
「もしかしてバスケされてたんですか?」
ラバーコーンで仕切られただけの即席の喫煙スペースは、アリーナから丸見えで、廊下を歩いているブースター(それぞれチームを応援するお客さんのこと)に頻繁に声をかけられる。全ての元凶であり俺をあんなところへ引きずり出したら流川楓に対してやってくれたなあいつは!という怒りとも焦りともつかない感情でいっぱいいっぱいになってしまう。
俺は、引き攣った自覚のある愛想笑いを返しながら、やはりあれは夢ではなかったのだ、とがっくりと肩を落としながら僅か十五分前の出来事を思い返していた。

レッドチームとブルーチームに別れて行なわれるオールスターの目玉の親善試合。
その前座であるスキルチャレンジで事件は起こった。
あえて事件と呼ばせてもらう。帰ったら流川を呼び出して取調べをしなきゃならねぇと俺は固く誓っているからだ。
今回は仙道と流川が、ともにスキルチャレンジの中のダンクコンテストに参加していた。
それを俺が知ったのはオープニングショーが終わり、スクリーンに表示されたスケジュールを見て初めて時で、その驚きと言えばなかった。いや本当にちゃんとスケジュール確認してなかった俺も悪いけどよ、流川が見せたかったのはこっちだったのか、と愕然ともしたのだ。

ダンクコンテストは、コンテストなんていうだけあってダンクシュートの豪快さや着地の仕方、あとはまぁシュートポストまでの滞空時間や高さなどを、ざっくり評価して優勝者を決めるというもので、ダンクを成功させるためならバウンドさせたボールでダンクを決めようが、ボールを持ったままシュートモーションに入ろうが、それは人それぞれに任されている。
今年はそのダンクコンテストに流川と仙道、それに高さと速さには定評のある清田信長の三人がエントリーされていたのだ。
それぞれ登場してきたとき、それはそれは会場の盛り上がりようといえば凄かった。なんせ元NBA選手が二人も出場しているし、清田は清田で日本代表にも選出されたりしている有名選手でもある。しかし仙道、流川が登場した時はどよめきというか会場が揺れているんじゃないかというような歓声に包まれていて、見ていてもなんだか清々しいような誇らしいような気持ちになったのだ。──そこまでは良かったのだ。そう、そこまでは。

ダンクコンテストでアリーナに現れた三人がコートの中央でそれぞれの意気込みを聞かれた時に、清田は『ぜってぇコイツらには勝ちます!』なんて元気に言い放って会場から笑いを誘った。
信長に続いて、マイクを向けられた仙道は『まぁほどほどに……さぁ、行こーか』なんて負けるつもりはない宣言し、熱く会場を沸かせていたのだ。
「ああ、でもちょびっとアシストを頼みたくて……人呼んでもいいですか?」
にこやかにそうMCに問うた仙道の言葉に会場中がざわついた。パスやトスを上げるのに人を呼ぶのは珍しくはないが勿体ぶるなと思ってしまう。

「今日会場に来てくれてるんですけど、──俺の大事な人で、牧さん、牧紳一さんです」

仙道がそう言うと、会場中が三人が登場した時以上のどよめきが巻き起こり、すかさずスポットライトが前に座る牧を照らした。
元から仙道とは打ち合わせしていたのか、牧はすぐに立ち上がると、深々とおじぎをすると沸き立つ観客達に気さくに愛想を振りまきながらアリーナに向かったのだ。
その時にまた牧と目が合った気がしたが、清田が「そんなのズリー!!俺だって牧さんにアシストして欲しい!!」とマイクを向けられてもいないのに地声でも分かるほど吹き上がって会場中が笑いに包まれ、MCにまぁまぁと窘められていて、そっちを見るのに夢中になってしまった。
だから次に『さてビッグゲストをお迎えすることになりましたが、流川選手の意気込みを教えてください』と、マイクを向けられた流川が、飛び交う流川応援団のブースター達の熱の篭った応援を後目に『俺もアシストで呼びたい人がいるんスけど』と言い出した時は、それまで仙道に張り合わずともいいだろうに、と笑みがこぼれてしまった。負けず嫌いというか、そこで張り合う必要あるかという部分でもあって、可愛く思えてきてしまう。
「誰?」
「まじで?流川が??誰呼ぶの?」
「もしかしたら桜木とか見られるんじゃない」
「宮城さんも流川の先輩だしね」
だから同じくNBAで活躍しているよく知った名前がゲスト候補として観客の予想に上がる中で、俺は完全に油断して面白がったりしていたのだ。

『高校の先輩です。今会場に来てくれてる──三井寿さん』

だから。よりにもよって俺の名前を呼びあげられ、牧と同じくスポットライトを浴びることになった俺の気持ちなど誰にもわかるはずがない。




結局わけも分からずアリーナに引き出された俺は、コートまで見学に来ていた「お、ミッチーじゃん」「三井ってアンタのことだったんすか?」などと失礼極まりない言葉を投げてくるオールスター出場という華々しいかつやつを成し遂げたかつての後輩たちに拳骨をくれてやるなどした。
俺にはスポットライトを浴びる世界が自分には身の丈が合わないなどと百も承知しているのだ。あんなに五月蝿いほど聞こえていた歓声はふわふわと遠くにしか聞こえず、自分が酷く緊張しているのだと初めて意識してしまう。
俺がアリーナに降りていっている間にコンテストは始まっていて、トップバッターの清田がボールを大きくワンバウンドさせて3Pラインより遠くから走り込んで空中でボールをキャッチをしてダンクを決める姿がモニターで何度もリプレイされているところだった。
ダンクが決まった瞬間に合わせて会場に流れた大きな効果音と、観客の割れんばかりの拍手は気持ちがいいのだろうな、なんて現役時代ついぞダンクシュートを決めようなんて思ったことがないのにも関わらず思わず思ってしまう程だった。

二番目に登場した仙道と牧は、特に打ち合わせをしているようには見えなかった。牧は3Pラインより少し深くで立ち止まると、楽しげにボールをついてドリブルをしていた。
そうして、ざわついていた会場が固唾を飲んで見守る一瞬の静寂が訪れた瞬間牧から放たれたパスが綺麗に放物線を描いてリングポストに飛んでいった。
完全に牧主導のパスは、しかしそれに合わせて助走をつけて飛び上がった仙道が、ボールをキャッチするのとほぼ同時に豪快なダンクシュートを両手で押し込んでいて、まるでお互い相手がコートの上でどんなことをしていても、どこにいたって見えている、と言わざるを得ない圧巻の阿吽の呼吸でアリウープを一発で決めたのだ。
信長の時は、綺麗に鳴り響いた主催者側の効果音さえ間に合わない早業で、観客の度肝を抜いた二は、終わったあとの親愛のハグまでがまるで絵に描いたようでさらに会場を沸かせている。
──まじでこいつらの後にやんの? 俺が流川にアシストして? 嘘だろ……
審査員の評価も軒並み満点の十点や九点ばかりで高評価が並んでいて、今日一番の盛り上がりと言っても過言ではなかった。俺も呆気にとられて拍手をすることさえできないくらいだった。
「仙道選手如何でしたか?」
「まぁそりゃこの人からのパスなんで、絶対落とすわけないですよ」
そう満面の笑みを零している。隣で同じくマイクを向けられた牧は
「泣きながら練習したんですよ。もっと高くだの低くだの注文が多いんですよコイツは」
と言って仙道を小突いてさらに会場を湧かせていた。
和やかに話をするふたりは、まるでそうしているのが当たり前かのようにピタリとハマっている。牧とのパートナーシップを公言している仙道としては、先のシーズンで引退した牧を何がなんでもこの場に立たせたかったのだろうなと納得もした。
(というかまだ人気のある牧の取り巻きへの……牽制も兼ねているのかもしれない)
そんなこと思ってしまう。なまじ高校時代から知っている神奈川の有名人たちは大学生になっても、プロになっても話題の的で、色んな噂が飛び交うのだ。
流川は言葉を尽くしておれを守ろうとしてくれるが、なら俺はアイツに何を返してやれるのか、なんて二人の関係性の原点に立ち返って考え込んでしまう程だった。
しかしそんな思考の波を払うように「三井サン、次あんたらの番」だなんて宮城言って両肩を押されたものだから、もう自分自身が選手として立つことはないと思っていたコートに足を踏み入れる。場違いだなんて自分が一番よく分かっている。
流川は既にコンテスト前のインタビューをコートの真ん中で受けていて、あちこちから黄色い声援が上がっている。
「流川選手!先程仙道選手が素晴らしいダンクを披露してくださいましたが、意気込みのいかがですか?」
「センドーと……キヨタには、負けねぇ……ッス」
取ってつけたように名前を言われた清田は、コートの裾でちゃっかり牧の隣を陣取ってまたもや元気に抗議していた。
「今回アサシスタントとして高校時代の先輩が駆けつけてくれているということですが、その人選の趣旨をお聞きしてもいいでしょうか?」
その質問は本当に、俺が一番聞きたいのだ。
なんたって家に帰ったら取調べをしなきゃならねぇと思っているくらいなのだから。


「…………この人の前なら、最高のダンクを見せられると思ったから」


だから。そう言って俺の方を見た流川に思わずキュンと胸が高鳴ってしまったのは、もう惚れた欲目としか言いようがないのかもしれない。
──ドちくしょうめ! なら最高をパスを投げてやるってんだ!
牧のようなリングにパスを放つのではなく、シュートポストの下からトスを上げてやることにする。
流川が左斜め四十五度の3Pラインより外側に立ち、会場がまるで水を打ったように静まり返る。
その熱く滾る黒曜石の瞳が煌めいた。
瞬間、こちらに向かって走り出してきた男に向かって、俺は最高のトスをを投げてやったのだった。


結局仙道には僅か一ポイント及ばずダンクコンテストは二位で終わってしまった。
まぁ流川も滞空時間とかダンクの華々しさとかならば充分仙道に遅れは取ることなどなく、むしろキラキラエフェクトは流川のほうが勝ってと思うのだが、ビッグネーム二人を揃えてきた仙道と牧の画の強さは負けてしまう。すまんな。しがない高校教師で。
(しかしその後が……まじで恥ずか死ぬ……)
美味い煙を吐き出しながら髪の毛を掻きむしった。皆が俺の事を指さして笑っているような幻覚にまで陥ってしまうないのだ。
一発で成功を収め、ダンクをぶちかました流川は、そのまま俺のそばまで駆け寄って来たので、俺は仙道たちと同じようにてっきりハグを所望されているのかと思ったのだ。
しかし次の瞬間熱烈なキスをかまされて、身動きなど取れなかった。
でっかいモニター画面に、自分の顔がドアップの大写しで抜かれているのを見る羽目になるなんて思っていなかったし、あの瞬間の会場中のどよむきと、流川親衛隊の悲鳴がまだ耳について離れない。親しい先輩と後輩など逸脱した距離感に、この関係に気がついた人間があの場にどれだけいるのだろうか。
──しかも、恥ずかしいなんて思いながら、喜んじまってる自分いるのが一番許せねぇんだよな。
あの場で口ではバカアホなんていくらでも流川を罵倒する言葉が飛び出ていたが、その実、喜びが一番勝っているなんて口が裂けても言えなかった。
こいつは、流川楓は、俺のモンだと公衆の面前でどんな形であれ披露することが出来て、陽の当たることは無い優越感に苛まれているなどどの口が言えようか。

二本目を灰皿に押し付け、アリーナに戻ろうとしたところで「三井だよな。湘北の」と声をかけられた。
その声に振り返ると、先程完璧なパスを披露した牧紳一その人が、手を挙げながらこちらに向かって歩いてくるところで、俺は思わず身だしなみを整えて彼を迎えた。
「お、おう……覚えててくれたのか」
「いや、さっきコートで見て思い出したんだ。関係者席にも座ってただろう?」
席では誰だか思い当たらなかったんだがな、と話す彼との何度か視線が合ったことを思い出す。彼なりに俺を思い出そうとしてくれていたのだと思うとなんだかくすぐったいような気持ちになった。
「コンテスト優勝おめでとうさん。すんげえ、綺麗だった」
「はは、アイツが完全に俺のタイミングに合わせるように練習したからな。その成果だ」
「まじで練習したのか…… 」
「当たり前だろ。『もういいです』って仙道が泣き言言うまでみっちりやった」
牧はそう言いながら「なにか食いながら話をするか。昼まだだろう?」なんて言ってアリーナのスタンド売店に誘われる。
ちょうど一番の見せ場であるオールスター選手の親善試合が始まったところであったので、アリーナのコンコースは閑散としている。もう今日は帰るだけだしな、と思わず買ってしまったビールで牧と乾杯をしたあとに、スタンディングの大きなモニター前に陣取り試合の様子を眺めながら「前の宇都宮と千葉との試合の間で引退セレモニー見たよ。感動的だった」と思わず感想が口をついて出ていた。
牧は俺の方をチラリと見ると、恥ずかしいなと頬をかいている。スマホに付いている買ったばかりの『Sendoh』と名前の入った青いユニフォーム姿のバスケベアがじわりと可愛らしさを演出している。
「引退した人間がいつまでも出しゃばるみたいじゃないか? やってくれた時は嬉しいと、戸惑いと半々くらいだった」
「ははっ、でもそれ見るためにチケット取ったファンも多かったって聞いたぞ」
「なら冥利に尽きるが……」
「日本代表のキャプテンまでやった男の引退なんてもっと豪勢にやっても良かったと思うぜ。お前案外見た目と違って慎ましいんだな」
「……よく言われる」
誰に、と牧は言わなかった。今モニターに大写しで映されている学生の時から変わらぬツンツン頭がトレードマークの男であろうことは予想がついたからだ。
常とは違う比較的のんびりとした試合展開は、皆が皆大袈裟なくらいオーバーリアクションを取っていて、会場中からしばし大きな笑いが漏れていた。
普段審判に対しても物怖じせずに抗議に行く彼らは、今日ばかりはブロックにもファールにも行かずにむしろ互いをリスペクトし合いながら伸び伸びとシュートを決めている。

しかし──普段の試合の如くたまに試合会場てバチバチと火花が散っているのが見え、その最たるものが仙道と流川のマッチアップだった。

二人にボールが渡った時だけ、常と同じような、緊張感に包まれて会場が一瞬にしてピリつくのだ。オールスターに来てまでかよと思いもするが、二人の、特に流川の生来の負けず嫌いは変えることはできないのだろう。
「アイツら高校の時のまんまだな」
「流川が毎日ワンオンワンしろって家まで押しかけてくるって一時仙道が辟易してたからな」
「へぇ、あの仙道が……」
「お前がワンオン付き合ってやれよ」
「バカ抜かせ。元NBA相手にそんな体力あるかい」
「……その、キス、はなかなか刺激的だったぞ。お前らも打ち合わせしてたのか?」
不意に牧にぶっ込まれ、おもわずビールを吹き出すかと思った。耐え抜いた自分が偉すぎる。
「……アシストの話もなけりゃ、最後にキスぶちかまされる話もなかったよ」
「お、おぅ、そうか……」
「まぁ、こいつはオレのだ、ってのをアピールできて決めちが良かったのは確かだけどな」
「ほう?」
くつくつ笑いながらビールに口を付けると「そういや、お前高校の一年、二年の時はバスケ部にいなかったろ?」と全く違う話題を振られドキリとした。しかも俺の中の古傷をダイレクトに刺激する、なかなかにセンシティブな話題でもある。
「ぐっ、」
「中学の時の神奈川MVP……武石中のスリーポイントの天才にもちろんスカウトをかけたが断られたと、高頭監督がよく嘆いてたんだ。俺もお前のことは中学時代はよく見てたが、──二年間も何してたんだ?」
そう言ってこちらを見つめる薄い琥珀色の瞳は、有無を言わせない迫力があった。
もうこんな、お互い三十もとうに過ぎたようないい大人なのだ。今になって一種の闇歴史とも言える高三での所業を、こんな風にして牧にほじくり返されるとは露とも思っておらず、どこまで話しをするか、と焦ってしまう。
「……一年の時、膝を怪我したんだが、それで一時まともに走れもできない、ジャンプもできない、そんな時期があって」
「怪我か。あの頃はしょっちゅうしてたな」
「え、お前が?」
俺を見つめたままのアンバーに、郷愁が混ざるのを見逃さなかった。
「俺の場合は腰だ。当たりの強いプレイをやった時にヘルニアをやりかけた。なんとか切らずに済んだが」
「マジかよ……」
高校三年の時の全てを跳ね返す圧倒的フィジカルを持ったこの男しか知らない。自分と恐らく同じ時期にそんな懊悩を持っていたなどと知りも知らなかった。
「それでサーフィンを始めたんだ。体幹を鍛えるためにはうってつけだしな」
「あぁ、それでそんなに日焼けしてんのか。日サロでも行ってんのかと当時の湘北メンバーでしょっちゅう議論してたんだぜ?」
「仙道にもそれ言われたことがあるな。高校生で日サロなんぞ行くわけないだろ。──なぁ三井、怪我してバスケやってない間、髪伸ばしてグレてなかったか?」
確信を持ったようなストレートな言葉だった。まるで見られていたようにピンポイントで言い当てられて黙ることしか出来ない。和んだ空気完全に油断してしまっていた。
「サーフィンしてる時に、浜辺で何かしてる学生服着たお前を見た事があるんだ。お前らは俺たちサーファーが海にいれば全く興味なんて示さないが、波待ちしてる時なんかは浜辺にいり人間はかなり目に付くんだぞ」
──波打ち際でボールか何かで遊んでた下級生を虐めてて、何やってんだ元MVPがよ、って腹立たしかった
そう真顔で言った牧に返す言葉などなかった。あの無駄にした二年間は結局今もずっと腹の奥底で後悔に埋もれている。こちらを向いた薄い琥珀色の瞳は、しかし穏やかだった。

「でも……同時に酷く羨ましかった。バスケを離れてもお前にはお前を気使ってくれる友達がいたんだろ?」
──俺は、バスケでもがくことしかできなかったからな。

ぽつりと独り言のように漏らした牧に、まったくそんな考えは及ばず目が鱗から落ちたような心地だった。
「バスケを辞めちまいたい、なんて思っても絶対にそれは出来なかった。すっぱり……かどうかは、海の中からは分からなかったが、バスケを辞めてたお前を見てそういうのもありなのか、と思ったりもしたんだ」
湘南のサーファーが集う広い海岸線を想像する。そこで一人波待ちをしている男がじっとこちらを見つめている様を思い描いて心が震えた。
早くからその素質を買われ、一年からあの王者海南大付属高校でレギュラーを張った男。しかしまだあの頃は十五やそこらの少年だったのだ。
今同じ年代の子供たちの指導にあたっている俺は、今そういう子が現れたとしても重圧は掛けずにのびのびとプレイをして欲しいと思っている。取りこぼすことのない指導を心がけているが、そつなくなんでも出来てしまう何人かの子供たちを思い浮かべ、不安にさせていないかと思い返した。
──それから一年間は地獄だったが、春になって、バスケがするのが大好きだと言わんばかりに楽しそうにバスケをする他校の一年坊主を見て、気持ちが変わった。
そう牧がどこか遠い目をして言った。
「できるだけこいつと長くバスケを真剣にやりたいって思った。初めてな。まぁ、結果的に辞めずに乗り越えてやったからこそ、今はもう無事に引退できたんだがな」
と締めた牧は「しんみりした話しちまったな。お前を見てると思い出すのは一年のあの海だったんだ 」と語った。
「今高校で教師してるって聞いたぞ」
「誰から」
「仙道から。『流川の彼氏は高校教師らしい』っていう又聞きの噂程度だったんだが」
今日のあれで確信に変わったと牧は悪戯っぽく笑った。牧の左手の薬指に輝くものを見つけて天を仰ぐ。こいつらはもうカップルだと公言して長いし、同じリーグの先駆者として、様々な苦労を重ねてきたのだろうと思うと、いっそ相談してみるかという気持ちにさえなってくる。
「俺は引退したあとは、U十八のアシスタントコーチしてるんだが、まだまだ血気盛んな高校生や中学生相手だからな。勝手がよくわかんねぇんだよ。また色々と教えてくれないか?」
「教えるったって──まぁ神奈川の元帝王に頭下げられちゃ教えねぇ訳には行かねぇよな」
そう言って抑揚に笑う牧と、連絡先まで交換して、とびきり大きな歓声が聞こえて慌て二人してモニター画面を見た。
見れば仙道と流川が、コートの端から端までを丸ごと使いたった二人(その間チームメイト達はまるで余興のごとくベンチに座っているのだから恐れ入った)でワンオンワンを始めているではないか。
「さて、戻るか」と牧が呟く。それに俺もそれに頷いた。
仙道と流川の二人きりのワンオンワンで盛り上がっている会場内は熱気はおそらくピークだった。
牧が席につこうとすれば、ちょうど流川から一本取って派手なダンクをかました仙道が、こちらに、というか牧に向けて大きくウインクするのをモニターで抜かれ、会場は蜂の子をつついたような騒ぎになる。
しかしその十秒後には、生来の負けん気を発揮してダブルクラッチで仙道をかわしてシュートを押し込んだ流川が、まるでその真顔のまんま俺に投げキッスなんてする物だから、会場は一瞬水を打ったように静まり返ったあとに、大騒ぎになってしまう。
「三井」
喧騒に紛れて、牧の声が聞こえた。
──お前の、やるじゃないか
口パクで俺を指さしたあと流川を指さした牧に浮かんでいるのはとびきりの笑顔だった。

その笑顔に、視線のあった琥珀色に不意に記憶が刺激される。

遠く波の音が遥か彼方に聞こえてくる。
濃い潮の匂いはすでに嗅ぎ慣れたものだった。
鉄男たちとぐれていたあの時、海の中からこちらを見ている男の姿が朧気に思い出される。
まさしく今この牧との距離が、かつての自分と彼との距離だったのだ。それをようやく思い出し、これからの糧にしようと硬く誓ったのだった。


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