仙牧 新⬆旧⬇

午前六時三十分。その時間まだ布団の中でまどろみを享受していた牧紳一は、枕元のスマホがピロリと、通知音を鳴らす音で目を覚ました。
通知を見れば、それは恋人でもある仙道彰からのもので、目を丸くしながら慌ててメッセージを開く。

『牧さんおはようございます。今日ちょっと別の予定が入っちゃって……会うの難しそうなんです。すみません、約束してたのに。なのでまた大丈夫そうな日を連絡しますね』

そんな何とも軽い調子で今日のリスケを告げるメッセージに、牧は嘆息すると、勢いよくベッドから降りたのだった。



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スポドリ、エナジーチャージ用のパック飲料、経口補水液に二リットルの水三本。あとはレトルトの卵粥の入った少し重いビニール袋を持って、見知った通い慣れた道を歩く。
潮風の香りして遠くでは波音がする。こんなに海が近かったのかと、小高い高台から地平線を見下ろして、牧は思わず驚いてしまったほどだった。
(お、サーファー)
遠く海に向かう人影は、真冬の寒さなんてものともしない強者たちだ。
東京から越境入学してきている仙道は、この海が見える街で一人暮らしをしている。
ここを通るときは、大抵仙道と二人で心ゆくまでバスケをした後で、彼が隣にいて、そういう目的も持ちながらどこかふわふわそわそわした気持ちで通るのが大半だからか、静かな夕暮れ時は見慣れず、街並みは牧の目には新鮮に映る。
年季の入ったアパートは、しかし大家がマメな人物なのか、敷地内は小綺麗に掃除されていて、不潔感はまったくなかった。
重たい荷物を引きずりながらカン、カンと一歩上がる度に音のする外付けの錆びた階段をゆっくり上がる。
階段を上がって一番左手にある角部屋の『仙道』と表札の上がった扉の前で立ち止まる。
少し上がった息を整えた牧は、そういやこんな風に連絡無しに仙道の家に来たことあったかと考えてしまい、照れが勝る前に慌てて呼び鈴を押した。
ピンポーンと呑気に響いた音と反比例するように物音がしない。もしかしたら本当に別の予定でいないのではないか、という一抹の不安が牧の胸に浮かぶが、次の瞬間中で人が動く気配、次いで遠慮なくバンと開いた扉と「だからもうお断りですって何度も言って……!」といささか気だるさの混ざったキツイ口調でマスク姿でこちらに言い放った仙道と鉢合わせをしてしまい、牧はその場で立ち尽くすしかなかった。
「……よう」
「え、まき、さん? え、うそ、なんで?」
「インフルエンザだったらすぐ帰る。俺ももらって広めるわけにいかねぇし」
ほれ、と持っていたビニール袋を仙道に差し出すと、それを仙道は受け取りながら「え、嘘。実は牧さんって神様なの……」などと実に情けない声を上げていた。
「ごめんなさい。大きな声出して。朝から何回も新聞とか宗教の勧誘が来てて……」
「ああそれで」
仙道がイラつきながら応対してきたその理由に納得していると、瞬間ぐるぐるという大きな音が聞こえ、仙道の顔がさァーと青白くなっていくのが傍目からでも見えた。
「おい、大丈夫か?」
「まきさ、中はいってもらって、いいんで、ちょっと待ってて!」
そう言いながら脇目も振らず部屋の奥、トイレにダッシュする仙道を見ながら、牧も目を白黒させるしかなかったのだった。


2DKの部屋の中からは、平素と変わらずものが少なかった。
しかし普段牧が訪れた時には整えられていることの多いベッドは、人が抜け出したような形のままで、ベッドの周りには何度か着替えをしたのかTシャツやハーフパンツが乱雑に転がっている。
部屋の真ん中に置かれたローテーブルの上には飲みかけペットボトルと『仙道彰殿』と書かれた内科の処方薬が置かれていて、病院には行ったのだとほっとする。
(内科……)
未だに主治医が診てくれるということもあり、内科的な不調には小児科に連れていかれることの多い牧は、なんとなくそれから目を逸らしてキッチンに目をむけた。今日はまったく使っていないのか、そこだけは綺麗に片付けられている。
トイレからまだ出てこない仙道を心配しながら淀んだ空気を一新するため窓を開け、海風の匂いが部屋の中を満たすようになった頃、げっそりと普段の白い顔をさらに青白くした男がのそのそとトイレから出てきた。
「腹痛ぇ……もういやだ……」
「大丈夫なのか?」
「医者行ったら胃腸炎だって言われました。ほら、お腹の風邪」
菌出てくまではとりあえず脱水症状にならないように安静にしとくように言われました、と仙道はため息を吐き出した。
「大変そうだな」
「マジで辛いです……十五分おきに腹痛が来て、トイレがしたいって思って五秒以内にトイレに駆け込んでないと──汚い話なんスけど本当に漏れる。とんだビョーキですよ」
仙道はそう言って牧の隣に腰を下ろすと「だから買い物も怖くていけてなくて……牧さん本当にありがとうございます」とまるで甘えるようにして擦り寄ってきた。
「普段一人暮らしなんて苦になんないんですけど、弱ってるからか本当に無力に感じちゃって」
心細かったと素直に心情を吐露した仙道にしては珍しい姿と、些か高い体温に「もういいからお前寝てろ。ちょっと熱もあるんじゃないのか」と慌てて額に手をやると、普段とは違う熱さを感じてギョッとする。
「多分抗生物質飲んだからかな。さっきからちょっと体熱くて……」
「バカ、早く寝てろ」
ぐいぐいと仙道をベッドに押し込んで肩までしっかり布団をかけてやると、牧は立ち上がり「粥くらいは食べられそうか」と尋ねた。
「牧さんの手作り……」
「あほ。温めるだけだろうが」
笑いながらキッチンに立つと湯煎の準備をする。振り返ると熱を帯びてさらにキラキラした紺碧の瞳がじっとこちらを見つめているのに居心地の悪さを感じてしまう。
「そんな見るな」
「嫌ですよ。あんたが俺のために料理してくれてる姿なんて、目に焼き付けておかないと」
「……俺だってカップラーメンくらい作れるぞ」
そう牧が反論すると、仙道は「牧さん、カップラーメンっなんて生涯食わねぇモンでしょ。全く想像できない」と失礼な発言をしてくる。
「お前な」
「でもなんで今日来てくれたんです? 俺、体調が悪いだなんて一言も……」
そうもぞもぞいう仙道に、牧は「普遅刻してから『すみません遅刻します』なんてメッセージ送ってくるような奴から、朝一にメッセージなんて来たら、逆になんかあったって思うだろうが」と呆れたような応えを返した。
「あぁ〜。そっか。逆にそうなのか」
「いらん気を遣うな。というか脱水になんてなってバスケ出来なくなっちまう前にきっちり俺を呼べ」

──恋人なんだから、ちゃんと心配くらいさせろ。

はっきりと言い切った牧の言葉に、仙道は目を丸くしながら「牧さん、本当に大好き」と宣い、そうして次の瞬間顔色を悪くすると、またベッドから飛び出してトイレに駆け込んだのだった。


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